プロローグ:すべては「エビデンス」と「労働基準法」のために(第1話)
橘 徹、28歳。職業、臨床検査技師。
彼の人生は、一言で言えば「見えない境界線との戦い」だった。
医師のように華やかに患者の前に立ち、直接感謝されることはない。かと言って、看護師のように病床に 寄り添って声をかけられるわけでもない。
病院の最下層、あるいは最奥にある誰も来ない「中央検査室」に籠もり、毎日何百本もの血液スピッツを機械にかけ、顕微鏡を覗き、尿の比重等を測り続ける日々。
医師が患者の前に立ち、その表情や症状を**「マクロの視点」で診ていくのに対して、徹たち検査技師の 主戦場はもっと深い場所にある。
医師の肉眼では決して見えない世界──「ミクロの世界」を駆使し、細胞のわずかな歪み、血液にの成分や数ミクロンの細菌の姿を徹底的に暴き出すこと。
「熱がある」「お腹が痛い」という大伴なマクロの訴えに対して、「真犯人はこの菌です」「白血球の数値がこうなっています」という言い逃れのできない確定的な証拠を突きつける。
それこそが、陰ながら医療を支配し支えているという技師のプライドだった。
……だったのだが。
「あー……帰りたい。そのミクロのプライドとかどうでもいいから、今すぐ定時で帰って冷えたビールを胃袋に流し込みたい……」
それが徹の口癖であり、人生唯一の願いだった。
しかし、現実は非情である。慢性的な人手不足。
終わらない緊急検査の呼び出し。
そしてトドメの深夜当直。彼の時計の針は、17時を過ぎても一向に止まる気配がなかった。
そんなある夜。当直室で徹の限界は訪れた。時計の針は午前3時。
その夜の徹は、文字通り地獄を見ていた。深夜に急患で担ぎ込まれた重症患者の緊急手術──それに伴う、大量の輸血対応に追われていたのだ。
一分一秒を争うなか、血液型を確定させ、不規則抗体を調べ、適合血を大急ぎで交差試験する。
さらに足りない分の輸血製剤を血液センターへ緊迫した空気のなか緊急発注し、確保する。
プレッシャーとルーティンワークの乱打戦に、ワンオペ当直の徹は一晩中一瞬たりとも休めず、心身ともに限界を迎えていた。
ようやく手術が落ち着き、すっかりフラフラになったその瞬間。
当直医が検査室のドアを乱暴に開けて入ってきた。
その手には、他病棟から回ってきた「緊急性の極めて低い、ただの定期処方用のルーティン検査」のスピッツが数本握られている。
『あ、橘くん? ごめん、これ今すぐ急ぎで回しといて。明日だと僕、朝イチの外来で忙しくてさ。データ出たら当直室の机に置いといてー』
悪びれもせず、自分の都合で仕事を押し付けて去っていく医師の後ろ姿。
「……急ぎ、じゃないんだよコラァ!! こっちは当直ワンオペで、さっきまで命がけの輸血クロスマッチ回し続けて一睡もしてねぇんだよ! 医師免許の前に他部署へのモラルを持てモラルを!!」
徹の脳内で、何かがブチ切れた。
怒りに震える彼は、その理不尽な追加検体を受け取り、分析装置へ向かって一歩を踏み出した──その瞬間だった。
夜勤帯の怒涛のバタバタで誰も拭く余裕がなかった、遠心分離機周辺の床の結露。あるいは、あまりの忙しさに誰かがこぼしてしまった、ほんの数滴の水溜まり。
それが完全にトラップだった。
「うおっ!?」
徹の足が、見事なまでにその水溜まりを捉えて滑る。
体が宙に浮き、視界がスローモーションになる。運悪く、彼が倒れ込んだ先は、検査室の片隅に設置されていた重量のある大型分析装置の角だった。
頭を強打し、目の前が真っ暗になっていく。
(……あ、これ、死ぬやつだ……)
意識が薄れゆく中、徹は冷えていく頭で強く、強く願った。
(もし……もし次があるなら……)
(絶対に目立たない裏方に徹してやる……)
(責任のある『診断』なんか絶対に医師に押しつけてやる……)
(開拓者のフリしてドヤ顔するやつを、裏からエビデンスで操ってやる……)
(裏方万歳。そして……何が何でも毎日定時で帰って、ビールを飲むんだ……!!!)
こうして、ひとりの優秀かつ限界を迎えた臨床検査技師の魂は、現世の検査室の床から、魔法と呪いが支配する異世界へと旅立った。
理不尽への怨念と、「データは嘘をつかない」という執念だけを抱えて。
そして、目が覚めると──。
【固有能力:臨床検査を起動します。初期化完了】
【病原体同定】 ── 稼働
【生体分析】 ── 稼働
【免疫プロファイル】 ── 稼働
【血球計数】 ── 稼働
【凝固モニター】 ── 稼働
【生体イメージング】 ── 稼働
【排泄・体腔液分析】 ── 稼働
【組織・細胞診】 ── 稼働
【全機能──正常稼働。これより対象のミクロデータを脳内にポップアップします】
「……異世界に来てまで、なんで俺の脳内に検査室がフルスペックで爆誕してんだよぉぉぉ!!」
貧民街のボロベッドの上で、のちに「影の天才技師」と呼ばれる少年、メディック・セラムが誕生した瞬間であった。




