欠け始めた中枢
一九八一年(昭和五十六年)九月十五日(火)午前二時。
議員会館の事務所は、静まり返っていた。
石本茂は机の上に並べたメモを、指先で揃えるように見直していた。
地元から上がってきた報告。
学校での欠席増加。
教職員の偏り。
保健所の動き。
まだどれも、「流行」という言葉で収まる範囲にある。
だが――収まり方が、均等ではない。
石本は受話器を取り、低く、静かに言った。
「数字だけ、集めていただけるかしら」
相手が一瞬黙る。
その沈黙の間に、石本は言い切ってしまう。
「病名はいりません。症状も結構です。必要なのは、欠勤の性別と年代――それから開始日だけで十分です」
声は柔らかい。
だが曖昧ではない。
「学校だけですと偏りが強く出ますでしょう。男女比が半々に近い職場も混ぜてください」
石本は指で紙を押さえ、次の例を淡々と並べた。
「市役所、金融、通信、病院の事務部門……そういったところです」
理由は長く説明しない。
長く説明すると、相手は判断を始める。
判断が始まれば、動きが遅れる。
「正式な通達ではありませんわ。動向把握のための協力依頼という形で結構です。文面はそちらで整えてくださって構いません」
通話を切る。
石本は椅子に背を預け、息を一つだけ吐いた。
結論は出ていない。
だが、備えだけは進めておくべきだと判断している。
隣の机で、秘書の木戸が咳をした。
「木戸さん、大丈夫?」
「少し疲れが……」
石本は、木戸の顔色を見た。
ここ数日、男性秘書の体調不良が続いている。
偶然かもしれない。
だが偶然が重なるとき、政治は偶然として扱わない。
「今日はお帰りなさい。診てもらってらっしゃい」
「しかし、先生……」
石本は首を振る。
「人が欠けても回る体制にします。そのための準備ですもの」
木戸が退室すると、石本は女性秘書の相沢を呼んだ。
「相沢さん。秘書体制を組み直します」
相沢が姿勢を正す。
「連絡網は二重に。予定は共有。どなたかが休んでも止まらない形に」
「はい」
「人も増やしますわ。能力本位で探してください。省庁の文書が読める方。数字を扱える方」
相沢は素早くメモを取る。
「心当たりはあります」
「当たってください。肩書きは“政策担当”にします」
石本は机に戻り、手帳を開いた。
まだ国会は動いている。
各省庁も通常業務を続けている。
市場も、平常の値動きだ。
表面は――何も崩れていない。
だが石本は理解していた。
崩れるときは、制度が止まる前に、人が欠ける。
人が欠ければ判断が遅れる。
判断が遅れれば、責任の所在が曖昧になる。
その前に。
回る仕組みを作る。
石本は短く書いた。
・データ横断
・女性人材確保
・臨時連絡網
・国会日程再確認
病名は書かない。
今はまだ、名前を与える段階ではない。
与えれば議論が始まる。
議論が始まれば、時間が失われる。
石本は時計を見た。
午前二時三十分。
夜は静かだ。
だが、準備は静かな時間にしか進まない。
国家は、崩れてからでは遅い。
崩れないようにするのではない。
欠けても続く形を作る。
そのための夜だった。




