教育委員会 田所信夫
一九八一年(昭和五十六年)九月十日(木)。
田所信夫は、袖をまく第9話ったまま、机の上にファイルを積み直した。
市内の小中学校、高校――全校分。
教職員の欠勤、生徒の欠席、学級閉鎖の有無。
「把握しておけ」
今朝、課長の机に落ちた指示は、それだけだった。
理由も、目的も、言われない。
言われないまま、課の空気だけが先に変わっていた。
電話のベルが鳴る。
鳴り方が、いつもより高く聞こえる。
田所は受話器を取り、メモ用紙を押さえた。
「学務課です」
「二中です。欠勤者、増えてまして……」
相手は、最初に言い訳をした。
電話の向こうの声が、すでに疲れている。
田所は、淡々と聞き取るふりをしながら、紙に書いた。
学校名。
欠勤人数。
欠席人数。
内訳。男女。学年。
「教員欠勤……男性が四名。女性は……ゼロです」
田所のペン先が、ほんの少し止まった。
ゼロ。
たまたまだ、と思う。
たまたま男性のほうが無理をした。
たまたま持ち込んだ風邪が、たまたま――。
そうやって、言葉を用意する前に、次の電話が鳴った。
「三小です。担任が二名休みで……どちらも男性です。女性教員は全員出てます」
次も同じ。
「五中です。男性教員が三名。女性は……出勤しています」
また同じ。
田所は笑えないまま、紙の端に小さく枠を作った。
男/女
数字を足す。
足していくほど、片側が増え、片側が静かに動かない。
昼前には、机の上の紙が“ひとつの形”になっていた。
いまさら線を引き直しても、形は変わらない。
田所は、紙から目を離して、窓を見た。
外は晴れている。
役所の廊下では、いつも通り靴音がする。
誰かが笑っている声も、聞こえる。
なのに、手の中の受話器だけが冷たい。
(……これ、学校だから見えるのか?)
そう思った瞬間、別の言葉が刺さった。
(違う。学校だから、“まだ回ってる”だけだ)
男女が半々の現場なら、片側だけ抜けた時点で、もう騒ぎになっている。
ここは騒がない。
騒がないまま、数字だけが揃う。
それが、いちばん嫌だった。
「田所くん」
隣の机の同僚が、声を落として言った。
「今日さ、何か……変だよね」
田所は返事ができなかった。
変だ、という言葉を認めたら、次が来る。
次の言葉が、まだ喉に引っかかっている。
そのとき、後ろの席の古参職員――白髪の男性が、ゆっくり顔を上げた。
普段は存在感の薄い人だ。大声も出さない。
ただ淡々と書類を回すだけの人。
その人が、田所の紙に目を落とし、短く言った。
「……田所くん。数字は、静かに騒ぐ」
田所の背中が、ぞくりとした。
騒いでいるのは自分の頭だと思っていたのに、違う。
紙が、勝手に騒いでいる。
「出し方を間違えると、余計な騒ぎを呼ぶぞ」
“余計な”――その言い方が、すでに種類を知っている口調だった。
田所が息を飲んだところで、課長が机の横に立った。
いつもより近い。近いのに、声は遠い。
「田所くん、どうした」
「……集計、進んでます」
田所は紙を差し出した。
課長の目が、一覧表をなぞる。
一行ずつ。
静かに。
だが、途中からまばたきが減った。
「……偏ってるな」
課長の声は低かった。
否定でも驚きでもない。
“確認”だった。
「どれくらいだ」
田所は、数字を指で押さえた。
「教員欠勤は八割以上が男性です。生徒欠席も、男子が目立ちます。女子は……散ってます」
課長の口が、わずかに開き、すぐ閉じた。
顔色が薄くなる。
その変化だけで、田所は確信した。
これは、課長も初めて見る偏りじゃない。
“知っていた偏り”が、表に出ただけだ。
課長は周囲を一度だけ見回した。
誰が聞いているかではない。
誰が“聞いていないふりをしているか”を確かめる目だった。
「……保健所に連絡しろ」
「はい」
「ただし」
課長は、言葉を詰めた。
詰めたのではなく、選んだ。
「言い方は考えろ。“風邪の流行”――その枠で話せ。余計な言葉は使うな」
余計な言葉。
つまり、余計ではない言葉がある。
この偏りに、名前がある。
田所は頷いた。
頷いたのに、胸が締まる。
受話器を取る。
番号を押す。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
その間、机の上の紙が、風もないのに、端だけふわりと浮いた。
気のせいだと決めつけるには、タイミングが悪すぎた。
(……見られてる)
そう感じてしまった自分が嫌で、田所は目を閉じた。
遠い国のニュースのような話が、頭をかすめる。
だがそれは、テレビの中の話ではなかった。
いまこの庁舎の中で、誰かが同じ紙を見ている。
別の場所でも、同じ表が作られている。
それが、線で繋がり始めている。
保健所が電話に出た。
「はい、保健所です」
田所は息を整え、声の高さを調整した。
平常を装うために、喉が痛む。
「……教育委員会、学務課です。市内で風邪様症状による欠勤・欠席が増えています。傾向が……少し、偏っています」
“偏り”という言葉だけが、ぎりぎり口から出せた。
それ以上を言えば、線が太くなる。
線が太くなれば、誰かが気づく。
誰かが気づけば、街が動く。
――動いてしまったら、戻らない。
受話器の向こうで、保健所の職員が一瞬黙った。
沈黙が、返事より重かった。
「……詳細、後ほどファクスで送ってください」
「はい」
田所が受話器を置くと、課の音が戻ってきた。
紙をめくる音。スタンプの音。歩く音。
いつもの音。
いつもの音なのに、田所の耳には、別の音が混じって聞こえた。
紙の上で、数字が揃っていく音。
叫ばないまま、形になる音。
まだ九月だ。
この国は、今日も普通に動いている。
だからこそ――
田所は、自分の背中の冷えが、何より正しい気がしてならなかった。




