お茶屋の沈黙
一九八一年(昭和五十六年)九月三日(木)。
二学期が始まったばかりの教室は、にぎやかさの代わりに、薄い膜のような沈黙に覆われていた。
黒板には、誰かが急いで書いた文字だけが残っている。
『教科書P12〜20 自習』
担任の大野先生(国語)は、始業式のあと一度も教卓に立っていない。
隣のクラスの寺田先生(理科)も同じだ、と誰かが言った。
自習――その言葉は便利だった。
先生がいない理由を、説明しなくて済む。
優は、前の列の空席を見た。
俊夫の席。
正雄の席。
それから、教室のあちこちに点々と空席がある。
いずれも男子の机だった。
椅子が机に押し込まれたまま、持ち主だけが抜け落ちている。
休んだのは三日。
たった三日だ。
それなのに、空席が増えたことより――
「戻ってくる気配がない」ことのほうが、空気を重くしていた。
「俊夫、まだ?」
後ろの席で、女子の声がひそひそと交わる。
「熱らしい。でも下がんないって」
「この時期に、みんな同じ?」
「……男の子ばっかじゃない?」
笑いを混ぜない声だった。
優は、机の端に残った鉛筆の削りかすを見つめた。
三日前まで、俊夫はそこに肘をつき、くだらない話で笑っていた。
机の引き出しに押し込まれたグローブも、持ち主がいないと、ただの道具に戻る。
(……偶然だろ)
そう思おうとするたび、胸の奥が冷える。
夜更けに聞いた無線の声が、頭の奥で勝手に再生された。
『Men are… falling… non-stop…』
ノイズ混じりで、遠い国の話にしか聞こえなかった声。
なのに今は、教室の空席と結びつく。
結びついてしまう。
放課後。
優は自転車にまたがり、商店街へ向かった。
俊夫の実家――石川家のお茶屋は、商店街の角にある。
いつもなら店先から焙じ茶の香ばしい匂いが漂ってきて、茶筒の蓋が触れ合う乾いた音が聞こえてくる。
「いらっしゃい!」
父親の声が、先に飛んでくる店だ。
今日は違った。
シャッターが半分まで下りている。
暖簾は出ているのに、奥が暗い。
湯気も、匂いも、ない。
優は自転車を止め、横の通用口に回った。
「……俊夫? 優だけど」
返事はすぐにはなかった。
しばらくして奥から足音がして、戸が少しだけ開いた。
顔を出したのは、俊夫の母だった。
いつもなら目じりにしわを作って笑う人。
だが今日は、目の下に濃い隈が落ちている。
髪も、ひとつに束ねただけで乱れていた。
「優くん……」
声がかすれている。
優は、用意してきた言葉をそのまま出そうとして、喉で止めた。
「俊夫、学校三日も休んでるから……大丈夫かなって」
俊夫の母は、ゆっくり首を振った。
「寝てるの。ずっと」
「熱ですか?」
一瞬、言葉を選ぶみたいに視線が落ちる。
「熱もある。……でも、それだけじゃないの」
俊夫の母は店の奥を振り返った。
階段のほうへ目をやり、声をさらに低くする。
「足首にね、変な痣ができてるの。紫色の……点みたいなのが」
優の背中が、ひやりとした。
「転んだとかじゃなくて?」
「違うの。増えてるのよ」
“増える”という言い方が、優の中で嫌な形を取った。
風邪なら増えない。
痣だって、普通は増えない。
俊夫の母は言葉を継ぎかけて、いったん止めた。
「それに……」
声が、わずかに震える。
「お父さんも、昨日から寝込んでるの」
「え……?」
「同じ痣が出てるの」
店の中は、ひどく静かだった。
茶葉の缶が、蓋を閉め忘れたまま置かれている。
急須は冷えきって、湯気が立つ気配がない。
お茶屋の家なのに――匂いがしない。
匂いがしないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
優は自分の喉が鳴るのを感じた。
「病院は……?」
「行ったわ。でも、“過労でしょう”って。解熱剤だけ」
俊夫の母の目が、優をまっすぐ見た。
「ねえ、学校……どう? 休み多くない?」
問いは確認というより祈りだった。
うちだけじゃないと言ってほしい、という祈り。
優は答えられなかった。
教室の空席が浮かぶ。
黒板の自習。
男子だけの欠席。
それから、無線の声。
遠い国の話のはずだった声が、いまはこの商店街の通用口に貼りついている。
優は、ゆっくりとうなずいた。
「……増えてる」
俊夫の母の指が、暖簾の端を強く握りしめた。
布が、くしゃりと音を立てた。
「優くん、今日は帰って」
目をそらさずに言う。
「あの子、起きても……会えそうにないわ」
優は「わかった」と言うのが精一杯だった。
外へ出ると、夕方の商店街はいつも通りだった。
魚屋の氷が溶けて水が流れている。
豆腐屋のラッパが、遠くで間延びした音を出す。
自転車のベル。
買い物袋の擦れる音。
世界は、普通だ。
普通すぎて、さっきまで見ていた暗い店の奥が嘘みたいだった。
なのに――優は、はっきり感じた。
“普通”のまま進んでいるからこそ、何かが怖い。
誰かが倒れても。
シャッターが半分下りても。
魚屋は氷を足し、豆腐屋はラッパを吹く。
国も、たぶん同じだ。
止まらない。
止めない。
止まれない。
優は自転車のペダルを踏みながら、背中の奥に残る冷えを振り払えなかった。
あの無線のノイズは、遠い国の警告じゃなかった。
この商店街の、お茶屋の沈黙の中に――
もう、入ってきている。




