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地方の兆し

一九八一年(昭和五十六年)九月九日(水)。

石本が北陸へ戻る。

北陸は、彼女の選挙区だった。

看護師時代の同僚。

大学医局時代の後輩。

地元中核病院の院長。

選挙のたびに顔を合わせ、時に叱り、時に励まし、時に叱られてきた人間関係がある。

中央の厚生省へ正式な報告が上がる前に、

地方の医療現場はまず石本に「愚痴」をこぼす。

統計でもない。

報告書でもない。

ただ――

「最近、妙な肺炎が多いんです」

という、雑談の形をした警告。

石本が北陸へ向かったのは、流行を追うためではない。

“本音”を聞くためだった。

その数日後。

北陸本線の窓から見える日本海は、灰色だった。

晴れているのに、どこか濁っている。

涼子は座席に背を預け、膝の上の書類を閉じた。

石本の一言が、まだ耳に残っている。

「中央だけ見ていても分からない。

地方へ行きなさい。風の向きは、海沿いから変わることが多いわ」

非公式の出張。

名目は「感染症対策物資のヒアリング」。

本当の目的は、偏りの確認。


石川県内の中核病院。

外観は静かで、ロビーには高齢者がゆっくり歩いている。

東京の大学病院とは違う。

焦りが、まだ表に出ていない。

院長室で出迎えたのは、六十代の医師だった。

「厚生省の若い方が、わざわざ」

笑顔は柔らかい。

だが目の奥に、測るような色がある。

涼子は名刺を差し出す。

「最近、原因不明の重症肺炎が報告されていると伺いました」

医師は一瞬だけ沈黙した。

「……あります」

短い答え。

「ただ、珍しいと言えば珍しい。

 だが“騒ぐほどではない”というのが、現場の感覚です」

その言葉に、涼子の背中がわずかに冷える。


案内された病棟は静かだった。

機械音だけが規則正しく鳴っている。

個室のベッドに横たわる男性。

四十代前半。

建設会社勤務。

家族は「過労だろう」と言っているらしい。

主治医は説明する。

「急速に免疫が落ちている印象があります。

 通常の肺炎像とは、少し違う」

「違う、とは」

「説明しづらい。

 抗菌薬の反応が鈍い。

 感染の広がり方が……素直じゃない」

素直じゃない。

医学用語ではない。

だが、その一言に現場の違和感が詰まっている。


涼子はカルテを確認した。

年齢。

性別。

職業。

男性。

別室の症例も、男性。

その前も、男性。

「女性患者は?」

「今のところ、重症例は出ていません」

“今のところ”。

母数は少ない。

統計にはならない。

だが、体感としては偏っている。

医師は続けた。

「ただ、これを“男性に多い”とはまだ言えません。

 言えば、社会的な影響が出る」

言外の意味は明確だった。

差別。

風評。

噂。

地方は、噂の速度が速い。


病院を出ると、日本海からの風が強く吹いていた。

冷たい。

涼子は海を見た。

波は静かだ。

だが沖は濁っている。

(中央はまだ眠っている)

国会は動いていない。

予算も動いていない。

だが地方では、

「なんとなくおかしい」という空気が、ゆっくり広がっている。

事件ではない。

流行でもない。

ただ――

同じ年代の男性が、

静かに、少しずつ、重症化している。


夜、宿の電話で石本に報告する。

「確定はできません。

 ですが、体感としては偏りがあります」

電話の向こうで、石本は沈黙した。

「……数字にならない偏りが一番厄介よ」

低い声。

「数字になる頃には、もう止まらない」

涼子は、受話器を握り直す。

「まだ公表は――」

「しない。

 でも忘れない」

短い指示。

「地方の兆しは、やがて中央を揺らす。

 あなたはそれを、見続けなさい」

電話が切れる。


その夜。

同じ県内の小さなアパートで、

三十代の男性が咳き込みながら天井を見つめていた。

「風邪が長引いてるだけだ」

妻が言う。

テレビではアイドルが歌っている。

誰も、危機とは思わない。

だが、風は確実に冷えている。

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