見えない敵
一九八一年(昭和五十六年)九月二日(水)。
厚生省の一角。
国際電話の交換台を通した回線は、いつも「繋がっているふり」をする。
繋がっているのに、微かな遅れと、紙やすりみたいなノイズが挟まる。
受話器の向こうはジュネーブ。
乾いた空気の気配だけが、こちらの湿った霞ヶ関へ混ざってくる気がした。
涼子は、息を整えてから名乗る。
「……厚生省の時田です。佐藤先生、症例の対応について確認させてください」
自分の声が、少しだけ高い。
落ち着け、と内側から叱って、ペンを握り直した。
紙の上には、石本次官へ上げるためのメモ欄がある。
空欄の白さが、やけに怖い。
「現地では、どこまで分かっていますか。病原体――特定は……」
言いながら、涼子は分かってしまう。
この問いの答えが「はい」だったなら、世界はもう少し落ち着いた顔をしているはずだ。
一瞬の沈黙。
大西洋を越える“間”のあと。
佐藤の重い吐息が落ちてきた。
『……結論から言う。まだだ』
短い。
でも、その短さが残酷だった。
佐藤は続ける。
細菌でもない。既知のウイルスでもない。
培養はうまくいかず、決定打になる像も出ない。
見えているのは、「免疫が壊れていく」という結果だけ。
原因が見えない――そういう言い方だった。
涼子はペン先を止めたまま、唇を噛んだ。
医学部で、こういう「見えない」を一番怖いと教わった。
怖いのは、強い敵じゃない。
敵の輪郭がないことだ。
輪郭がなければ、対策も作れない。
説明もできない。
予算の言い訳さえ、組み立てられない。
『今できることは限られている。肺炎には抗菌薬、真菌にはその対応……要するに、対症療法しかない』
「根本の治療は……」
言った瞬間、涼子は自分で分かってしまう。
それでも聞かないと、メモ欄は埋まらない。
『ない。少なくとも今は』
佐藤の声は冷静だった。
冷静でいないと、向こうでは仕事にならないのだろう。
崩れた土手を手で支えているだけだ。
そんな比喩が、生々しく胸に刺さった。
受話器の向こうで、紙をめくる音がする。
現地にも書類がある。
現地にも、“報告しなければならない上”がいる。
世界中が同じ姿勢で、見えないものを紙に落とそうとしている。
佐藤は言った。
アメリカの公的機関も、見解は同様だと。
増え方を見れば、感染性の何かが絡んでいる可能性は高い。
ただ、それが何なのかは断定できない――そこまで。
涼子は喉の奥が乾くのを感じながら、次の問いを押し出す。
「感染経路は……何か分かっていますか」
『それも不明だ。ただ――』
声が、ほんの少しだけ低くなる。
“ただ”の後に来る言葉が一番危ない。涼子はそれを知っている。
佐藤は言った。
患者の背景には偏りがあるかもしれない。
しかし、それを今の段階で公式に口にするのは危険だ。
政治的にも、社会的にも。
涼子はペンを走らせながら、胸の奥が小さく揺れた。
病気より先に、社会が壊れる。
怒りというより恐怖だった。
誰が罹るか、誰が死ぬか、その前に。
誰が“疑われる”かで、街の空気が変わる。
役所の怖さは、ときどきそこにある。
「……分かりました。日本側でも警戒を続けます」
形式の言葉を口にしながら、涼子は嫌になった。
“警戒”という便利な単語に逃げた気がしたからだ。
警戒って、何を。
誰を。
どうやって。
通話を切る直前、佐藤の声が少しだけ和らぐ。
『時田くん。これは……長い戦いになる。君たちが思っているよりずっと』
ツーツーという切断音。
無慈悲で、いつも通りで、妙に現実的だ。
涼子は、しばらく受話器を置けなかった。
原因不明。
治療法なし。
長い戦い。
言葉に並べると、それだけなのに。
“それだけ”で、背中が冷たくなる。
涼子は深く息を吸い、机の上の白い紙に向き直った。
石本次官へ提出する報告書。
その一行目。
――本症例に対し、現時点で有効な根治療法は存在しない。
行政文書としては、あまりに冷たい。
でも、これ以上正確な書き方が見つからない。
ペン先が紙を削る音だけが、部屋に残る。
涼子は、自分の字が少し震えているのに気づいた。
もう一度だけ、握り直す。
震えていいのは、心だけだ。
紙の上では、震えてはいけない。




