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抑えるという選択

一九八一年(昭和五十六年)十一月二十五日(水)

厚生省・臨時対策室。


ホワイトボードの端に、新しい言葉が書かれた。


内分泌調整(短期)

可逆的抑制(暫定)


ペン先の乾いた音だけが、部屋に残る。


室内は静まり返っていた。

紙の擦れる音。椅子の軋み。誰かの咳払い。

それらが、妙に大きく聞こえる。


若い医師が、恐る恐る口を開く。


「……理論上は、説明がつきます」


涼子は腕を組んだまま、視線だけで促す。


「男性ホルモンの活性期に、重症化が集中しています」

「免疫細胞の特定群が、アンドロゲン環境下で脆弱化する仮説です。――まだ仮説ですが」


涼子は静かに返す。


「理論上、です」


言葉を重く落としたのは、否定ではない。

“ここから先は、理論だけでは渡れない”という合図だった。


有田祐介が、一枚の資料を机の上に滑らせる。


「内分泌領域で使われている既存薬があります」

「前立腺“領域”などで用いられるものです。作用機序も、今回の仮説と矛盾しない」


「……薬は、あるのか」


誰かが呟いた瞬間、空気が変わった。

薬は存在する。――それは希望でもあり、同時に刃でもある。


涼子は、先に刃の方を見た。


「副作用は?」


有田は言葉を選びながら答える。


「性機能低下、倦怠感、骨密度低下」

「長期使用はリスクが増えます」


「短期でも?」


「個人差は出ます。……だから、限定が必要です」


沈黙が落ちた。


つまり――命を守るために、身体の条件へ介入する。

しかも対象は、若年層に偏る。


机の上に置かれたのは薬ではない。

“選択”だった。


同日。

総理府・小会議室。


机を寄せた顔ぶれの中央で、涼子は報告書を開いた。


「暫定的に、内分泌調整を“重症化リスク層”へ提案する可能性があります」


誰も、すぐに言葉を返せない。


涼子は続ける。


「治療ではありません。目的は“減速”です」

「重症化へ落ちる速度を遅らせる。入院を先延ばしにする。集中治療を“詰まらせない”」


小坂真紀が息を呑む。


「それは……」


言葉を探して、途中で止めた。

社会的影響が大きい、と言いたいのだ。


佐々木早紀が、別の角度から刺す。


「労働力への副作用は」


「一時的な倦怠感が中心です」

「ただし、重症化の負荷よりは軽い可能性が高い。現時点の推定では」


石本茂が、静かに問う。


「強制はできるか」


涼子は即答した。


「できません」


医療倫理。身体の自己決定。

隔離と違って――投薬は、明確な身体侵襲だ。


「提案です」

涼子は、言い直す。


「本人同意の上での任意投与。短期。可逆性を前提に」

「対象は限定します」


任意。

だが“高リスク層”は、国家の中核層と重なりやすい。


涼子は続けた。


「層別化は政治ではありません」

「年齢と性差――発症条件と、重症化確率の推定で決めます」

「結果として、電力・鉄道・議事補助などの現場に多く含まれる可能性が高い」


電力。

鉄道。

議員秘書。

若手官僚。


会議室の誰もが、その言葉の並びを“社会の背骨”として理解していた。

そして背骨が折れ始めていることも。


同日夕刻。

議員会館。


石本は一人、机に向かっていた。

窓の外は、冬の気配を含んだ薄い光。

廊下の足音が遠い。


国家を守るために、若い男性に“抑制”を勧める。

政治的にも爆発物だ。


秘書が、控えめに問う。


「……説明できますか」


石本は答える。


「科学的に。慎重に。段階的に」


非常事態ではない。

だからこそ、強制できない。

だが欠勤率が三割に届けば、国家機能が崩れる。


石本は小さく言った。


「守るのは制度ではない。……人だ」


その人の身体に、介入を“勧める”。

国家継続は、理論から倫理へ移った。


同日夜。

厚生省・臨時対策室。


医療チームの机上には、薬剤リストと、同意書の雛形。

そして、まだ空白の“対象基準”がある。


有田が涼子に言った。


「これは賭けです」


涼子は、短く首を振る。


「賭けではありません」

「仮説に基づく選択です」


だが内心は揺れていた。

若い男性に副作用を与える。

それでも命を守る方が優先か。

国家か。個人か。


涼子は、ホワイトボードの文字を見つめながら言う。


「全滅型ではない」

「抑えれば――減速するはず」


止められなくても、三割に届かせない。

国家は、まだ立っている。


ただ今日――

身体に触れる選択肢が、初めて机の上に置かれた。


そして涼子は、同意書の空欄にペン先を落とした。


最初の一人の名前を書くために。

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