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僕らの最後の夏休み

一九八一年(昭和五十六年)八月三十日(日)。

――夏休み、最後の日曜日。


神奈川県、藤沢市。


国道一三四号線から一歩入った住宅街。

潮の匂いと、排気ガスの熱。

空気がねばついていた。


昼と夕方の境目は曖昧で、セミの声だけがしつこく残る。


優は畳の上で胡坐をかき、麦茶のグラスが作った輪染みを避けながら、無線機のダイヤルと格闘していた。


「……入らないな。昨日の夜は、もっと綺麗に“その声”が聴こえたんだけど」


つまみをほんの少し回す。


「ザー……」が太くなり、

「ザー……」が細くなり、

また戻る。


ノイズは波みたいに押して引いて、肝心なところだけ飲み込んでいく。


中学二年生の夏休み。


友達の俊夫の部屋は、彼の趣味――アマチュア無線の機材で埋まっていた。


銀色の筐体。

アンテナのケーブル。

コールサインを書いた紙。

工具の匂い。


母親が開けっぱなしにしたドアの向こうから、煮物の匂いがする。

それが妙に現実的だった。


「優、アンテナの向き変えてみろよ。今日は電離層の調子が悪いのかもな」


俊夫が首にかけたタオルで汗を拭きながら言う。


体格がよくて、少年野球のチームではエース。

そのくせ、こういう機械の前では妙に饒舌で、得意げで、楽しそうだ。


二人の共通点は、この小さな箱から流れてくる、どこの誰とも知れない人間の「声」を追いかけることだった。


地図の外側に指を伸ばすみたいで、少しだけ大人になった気がする。


「ザー……」


スピーカーから砂嵐みたいな音が絶えず流れる。


当たり前だけど、インターネットなんてものはない。

海外の情報はテレビのニュースか、こういう電波を自力で拾うしかない。


しかもこれはニュースですらない。

放送局じゃなくて、誰かの個人局。


だからこそ面白い。

だからこそ、怖い。


「……あ、待って。何か入った」


優は背中を丸めた。


指先の力だけを抜いて、チューニングをほんの少しずらす。


すると――ノイズの隙間に、掠れた英語が滑り込んできた。


『……MAYDAY, MAYDAY…… This is…… San Francisco…… I’m a doctor…… we’re……』


「サンフランシスコ?」


俊夫が身を乗り出す。

耳が良いのか、優より先に反応した。


「メイデイって、救難信号だよな? 船か何かの事故か?」


優はヘッドフォンを耳に押し当て、息を止めた。


声は遠い。

でも、遠いからこそ、生っぽい。


事故の報告――というより、もっと根っこの恐怖に追われた独り言みたいだった。


言葉が途切れるたび、ノイズが笑うみたいに入り込む。


『……Men are…… falling…… non-stop…… Doctors are…… gone…… stay away……』


優の胸のあたりが、ひゅっと冷えた。


「……男たちが……止まらない。倒れるのが止まらない……って言ってる」


自分で訳しておいて、変な感じがした。


言葉だけは映画みたいだ。

でも声の震えは、芝居じゃない。


俊夫が鼻で笑う。


「なんだよそれ。ハリウッド映画の宣伝じゃないのか? ほら、『宇宙戦争』とかさ」


「……そうかな。でも、この声、すごく震えてるよ」


優は窓の外を見た。


夕暮れの相模湾は鈍い色。

海なのに、どこか濁って見える。


江ノ電の踏切の音。

自転車のベル。

商店街の豆腐屋のラッパ。

どこかの家からカレーの匂い。


退屈で平和な昭和の日常。

永遠に続くみたいな、いつもの夏休みの続き。


――なのに。


ヘッドフォンの向こうでは「男たちが倒れている」と誰かが言っている。


優は、その“つながってしまった感じ”が嫌だった。


自分の部屋の外はこんなに普通なのに、世界のどこかの異常が、耳の中まで入ってくる。


「……俊夫、これ、カセットに録音しとこう。なんだか、嫌な感じがするんだ」


「お前、考えすぎだよ。ほら、もうすぐ『ベストテン』始まるぜ。マッチが出るって和夫が言ってたぞ」


俊夫は無頓着にテレビのスイッチを入れた。


ブラウン管がぱっと光る。

華やかな音楽が部屋を満たした。


派手な笑い声。

明るい歌。

司会者の声。


世界は、同時に二つあるみたいだった。


優は録音ボタンを押す。


カセットの小さな回転音が、無線のノイズと混ざる。


テレビの中の熱狂。

無線機から流れる「男たちが倒れている」という絶望の声。

そして、畳の上の自分たちの汗。


一九八一年の夏休み、最後の日曜日。


少年たちはまだ知らない。

このノイズが、自分たちの未来を削り取っていく足音になることを。


そして――


この平和な部屋で、俊夫と一緒に笑い合える夏休みが、これで最後になってしまうことを。

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