公になった死
一九八一年(昭和五十六年)十月十五日(木)
■ 東京・大学病院(午前七時二十分)
病室の窓から、淡い秋の光が差し込んでいた。
三十八歳。
国会議員秘書。
搬送から五日。
急変は夜明け前だった。
人工呼吸器の音が途切れたあと、
医師は静かに時計を見た。
「七時十二分」
病名は、まだ確定していない。
免疫低下。重症肺炎。原因不明。
だが院内では分かっている。
――例の症例だ。
■ 同日午後(新聞各社)
新聞各社にファクスが送られる。
「若手政治関係者、急逝」
死因は「重症肺炎」。
詳細は控える。
だが年齢と職歴だけは記されている。
三十八歳。
健康。
持病なし。
夕刊が刷られる。
小さな記事だ。
一面ではない。
だが、読んだ者は違和感を覚える。
――なぜ、そんなに急に。
■ 厚生省
涼子の机に、記事の切り抜きが置かれた。
「報道されました」
彼女は黙って目を通す。
秘書。
若年。
急変。
医療現場で見てきた経過と一致する。
だが今度は、政治圏の人間だ。
局長が言う。
「コメントは出さない」
「はい」
「原因不明の重症肺炎で統一」
言葉は選ばれる。
断定はしない。
だが内部では、共有される。
――症例の一つだ。
■ 議員会館
石本は記事を手にしていた。
その秘書を知っている。
廊下ですれ違ったことがある。名刺交換もした。
三十八。
政治家ではない。
だが政治を支える層だ。
「……近いな」
呟く。
秘書が言う。
「マスコミから問い合わせが増えています」
「どう答えている」
「“個別の医療情報には答えられない”と」
正しい。
だが、十分ではない。
■ 夜
ワイドショーが取り上げる。
「健康だった若者が突然死」
専門家が呼ばれる。
「重症肺炎は珍しくありません」
解説は穏当だ。
だが画面の下にテロップが出る。
「原因は?」
視聴者が初めて、疑問を持つ。
この死は――
“個別の不幸”から、離れ始める。
■ 大蔵省
佐々木はニュースを横目で見た。
若年男性。
急変。
彼女は机の上の数字を見る。
労働人口。
源泉所得税。
社会保険料。
数字はまだ微減だ。
だが――
一人の死は、統計に変わる。
統計は、政策を動かす。
■ 深夜(総理府・小会議室)
机を寄せる顔ぶれが、再び集まる。
涼子が言う。
「報道されました」
小坂が続く。
「現場の不安が増します」
佐々木。
「市場は、これを材料にします」
石本はしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「これで、隠れた問題ではなくなった」
誰も反論しない。
病は、数字から始まり、
空席に現れ、
そして――顔を持った。
国家はまだ機能している。
だが今日、初めて“公”の領域に踏み出した。
一人の死が、静かに境界線を越えた。




