署名の空白-2
一九八一年(昭和五十六年)十月六日(火)
■ 大蔵省(午前九時四十分)
秘書官が、主計局長室へ駆け込んだ。
「大臣が――」
言葉が続かない。
局長が立ち上がる。
「どうした」
「閣議前の控室で、意識を失われました」
「搬送は」
「済んでいます。現在、大学病院へ」
室内の空気が凍る。
原因はまだ分からない。
だが最近の報告を知る者にとって、想像は一つしかない。
■ 午後(大臣室)
大臣室は静まり返っている。
机の上には、決裁待ちの書類が積まれていた。
国債発行計画の修正案。
補正予算の準備資料。
税収見通しの再試算。
どれも急を要する。
だが、署名欄は空白だ。
事務次官が低く言う。
「副大臣に回すか」
主計局長が答える。
「専門外です」
副大臣は政治家だ。
財政の細部を即断できる人物ではない。
「閣議は」
「形式上は可能です。ただ……」
ただ。
大蔵大臣の説明なしに財政関連の議題を通すのは異例だ。
■ 夕方(石本のもとへ)
石本のもとへ報告が届く。
「大蔵大臣、意識不明のまま」
石本は目を閉じた。
医療の重症化。
市場の利回り。
国会の空席。
そして今、財政のトップが倒れる。
偶然と言うには、重なりすぎている。
「副大臣は」
「決裁は慎重に、と」
慎重。
つまり、止まる。
■ 夜(大蔵省 主計局)
佐々木早紀は机に向かっていた。
書類は整っている。
計算も終わっている。
だが、最終決裁がない。
「……これでは、動けない」
主査が言う。
「事務レベルでは限界です」
佐々木は窓の外を見る。
霞が関の灯りは、まだ多い。
だが今日、初めて理解した。
国家は、法律で動くのではない。
署名で動く。
その署名が止まった瞬間、
すべてが“保留”になる。
電話が鳴る。
「市場が、さらに利回りを上げています」
佐々木は短く答えた。
「想定内です」
だが内心は違う。
市場は、誰よりも早い。
“財政の不在”を読む。
■ 議員会館(深夜)
石本は、机に並ぶ報告書を見つめる。
医療は拡大。
税収は微減。
国債利回りは上昇。
そして、財政トップは不在。
石本は静かに呟いた。
「……これは、点ではない」
線だ。
まだ細い。
だが確実に、国家機能の中枢を横切っている。
秘書が問う。
「臨時の体制を整えますか」
石本はすぐに答えない。
臨時体制――それは、事態を認めることだ。
だが認めなければ、動けない。
石本は立ち上がった。
「まずは、横で話しましょう」
正式な会議ではない。
だが、厚生・通産・大蔵。
この三つを同時に見られる場が必要だ。
国家は、まだ崩れていない。
だが今日、初めて――
“決裁不能”
という言葉が、現実味を帯びた。
署名欄の空白は、
静かに、しかし確実に広がっている。




