理解してしまう
一九八一年(昭和五十六年)十月一日(木)
議員会館の一室。夕刻。
石本茂は、一人で資料をめくっていた。
大蔵省から上がってきた速報値。
海外市場の動向。
源泉所得税の微減。
法人税の想定下振れ。
数字は整っている。
誤差の範囲とも言える。
だが、並べると違う顔を見せる。
石本はペンで一点を丸く囲んだ。
「源泉所得税 前年比▲1.2%」
小さい。
しかし、この時期に説明のつかない減少は珍しい。
次の紙。
「米国債利回り 上昇」
金融不安なら買われるはずの国債が、売られている。
その意味を、石本は理解していた。
市場は、将来の財政悪化を織り込む。
医療費増。
労働人口減。
税収減。
まだ仮説だ。
だが仮説が三つ並ぶと、それは予測になる。
石本は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……速すぎる」
誰に向けた言葉でもない。
医療の報告も、彼は知っている。
若年男性の重症化傾向。
もし、それが続けば。
税収は落ちる。
社会保障費は増える。
国債は増発される。
利回りは上がる。
金利が上がれば、企業は苦しくなる。
循環は、計算できる。
計算できてしまう。
石本はゆっくりと息を吐いた。
政治家として、危機を感じることはある。
選挙。派閥。政局。
だが今、感じているのはそれではない。
これは――構造だ。
個人の失策でもなく、
一省庁の判断ミスでもない。
社会の基盤そのものが、少しずつ傾く可能性。
石本は立ち上がり、窓際へ歩いた。
国会議事堂の灯りが見える。
まだ平常だ。
議員の出席率も、大きな問題にはなっていない。
だが、医療の現場では欠員が出始めている。
産業の現場でも。
そして市場は、すでに未来を計算している。
「……これは、止まらないかもしれないわ」
初めて、言葉にした。
恐怖は派手ではない。
叫びもない。震えもない。
ただ――理解してしまう。
この問題は、
“対策を打てば終わる類いではない”可能性。
ノックの音。
秘書が入ってくる。
「大蔵省から追加資料です」
石本は受け取った。
新しいグラフ。国債利回り、わずかに上昇傾向。
ほんの数ベーシスポイント。
だが、方向が出ている。
石本は静かに言う。
「財政当局は、何と言っているの」
「まだ“様子を見る”と」
石本は頷いた。
様子を見る。正しい判断だ。
だが時間は、市場より遅い。
彼は資料を机に置く。
「……横で話す必要がある」
秘書が顔を上げた。
「どこと、ですか」
石本は少し考えてから答えた。
「大蔵と、通産と、厚生」
正式な会議ではない。
だが、もう省ごとの視点では追えない。
恐怖は共有しなければ、意味がない。
石本は灯りを落とした。
部屋は暗くなる。
窓の外の国会議事堂だけが、白く浮かぶ。
彼は理解した。
この病は、人だけでなく、国家の収支に触れ始めている。
まだ危機ではない。
だが、放置すれば危機になる。
そして――
それを最初に理解したこと自体が、
石本の孤独を深くした。




