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戦場のまなざし

一九八一年(昭和五十六年)八月六日(木)。

ロンドンからのテレックスを受け取って、三日。

涼子の机の引き出しには、折り畳まれた感熱紙が、まだ重い。

紙なんて薄い。

薄いのに、引き出しを開けるたび、そこだけ空気が変わる気がした。

――見なかったことにできない。見てしまった、という手触り。

その間にも、涼子は独断で海外の医学雑誌をめくり、通信記録の断片を拾い集めた。

英語は得意だ。読むのも早い。

でも、読めば読むほど、状況は「わからなさ」だけが増える。

サンフランシスコ。

パリ。

ニューヨーク。

大都市の“男性”に偏って、原因不明の肺炎が続いている。

言葉だけで書けば、それだけの話だ。

だけど、医学誌の端に載る「急変」「短期間」「説明不能」の語が、やけに生々しい。

涼子は、机の端で鉛筆を転がした。

転がる音が、課の空気に埋もれる。

「時田くん、またその資料か」

課長の声が、立ち上るセブンスターの煙と一緒に落ちてきた。

涼子は反射で背筋を伸ばす。

こういう時の返事の角度まで、もう身体が覚えてしまっている。

「熱心なのはいいが、今は来年度の予算編成の時期よ。海外の怪情報の翻訳より、こっちの赤痢対策の予算案をまとめてくれよ」

怪情報。

その言い方に、涼子の奥歯がきゅっと噛み合う。

(怪、じゃない。……まだ、名前がないだけだ)

言い返したところで、勝てないのも分かっている。

この伝染病管理課で、二十代の女性の発言権は、灰皿の吸い殻ほどの重みもない。

それが現実で、涼子はもう、そこに慣れてしまうのが一番怖かった。

男たちは「目の前の戦争」に忙しい。

予算。折衝。派閥。会議の席順。

いま、この部屋の戦場は海の向こうではなく、霞が関の中にある。

――その時だった。

廊下から、慌ただしい足音。

ただし、騒がしさとは違う。

節度のある急ぎ方――「上」が近づく時の音だ。

「……次官がいらしたぞ!」

誰かの囁きで、課内の空気がひっくり返った。

椅子が鳴り、男たちが立ち上がり、ネクタイが締め直され、吸いかけの煙草が慌てて揉み消される。

涼子は、その一連を見てしまう。

“国の優先順位”が、そこに全部出ている。

ドアが勢いよく開いた。

立っていたのは、和服にベージュのカーディガンを羽織った一人の女性。

厚生政務次官、石本茂。

涼子は、息を飲んだ。

政治家の“女性”をテレビで見ることはあっても、こうして同じ空間に入ってくると別の圧がある。

声を張らなくても、人を黙らせる圧。

局長が、汗を浮かべた笑顔で先に出る。

「次官、本日の看護婦待遇改善に関するヒアリングですが、会議室の準備が整っております」

「いいのよ、局長。会議室の椅子に座っているだけじゃ、あなたたちの本当の仕事は見えないから」

鈴みたいに澄んだ声なのに、芯が硬い。

石本は迷いのない足取りで課内へ踏み込んできた。

視線が書類の山を越え、職員の顔色を越え、部屋の隅々の「淀み」を拾っていく。

――来る。

涼子は、なぜかそう思った。

根拠はない。

ただ、看護師だった人の目は、紙より先に人を診る。

石本は局長の案内を無視して歩き続け、部屋の最も奥――涼子の机の前で止まった。

涼子は立ち上がる。

喉が乾く。指先が冷える。

近くで見ると、石本からは線香の匂いがした。

それと同時に、戦場をくぐり抜けた人だけが持つ、鉄みたいな意志の匂いも。

「あなた、何か抱えているわね」

周囲の男たちが、ぎょっとする。

課長が慌てて口を挟む。

「次官、彼女はまだ入省二年の若手でして。不慣れな資料整理に手間取っているだけで……」

「黙りなさい」

短い。

でも、それで終わりだった。

涼子は、胸の奥で小さく痛快さを感じてしまい、すぐに自分を戒める。

――ここで喜ぶのは、子どもだ。

石本の視線が、涼子の手元の感熱紙へ落ちる。

まだ新しいインクの匂いがする。

「……時田さん、と言ったかしら。それ、何て書いてあるの」

涼子は喉を鳴らし、震える声を押さえ込むようにして読み上げた。

「ロンドンからの緊急電信です。原因不明の免疫不全。……気になるのは、症例のすべてが『男性』であると報告されている点です」

「男性だけ?」

石本は老眼鏡も出さず、目を細めて一行を見つめた。

驚いた顔ではない。

怖がった顔でもない。

“確認する顔”だった。

患者の脈を取る時の、あの静かな顔。

背後で課長が、なだめるように言う。

「次官、それはあくまで初期の断片的な情報でして。おそらくは特定の労働環境か、あるいは特殊な生活習慣によるものでしょう。医学的には、性別だけを標的にするウイルスなど考えにくい。まずは国内の赤痢対策を優先すべきかと……」

“考えにくい”。

涼子はその言葉が嫌いだ。

考えにくい、は、考えない、に近い。

石本は課長の言葉を最後まで聞かず、指を立てて制した。

彼女が引っかかったのは、疫病の正体よりも、周囲の男たちが漂わせる「根拠のない安堵」だった。

「考えにくい、ね」

石本の声が、少しだけ低くなる。

「大陸の戦地にいた頃、似たような言葉を何度も聞いたわ。敵の進軍はあり得ない、補給が切れるはずがない。そうやって『あり得ない』と笑っていた男たちの隣で、私たちは死にゆく兵士たちの手を握っていたのよ」

涼子は、その言葉を飲み込む。

喉の奥が熱くなる。

戦地の比喩が大げさかどうかなんて、どうでもよかった。

“あり得ない”と言う人の隣で、現場はいつも間に合わなくなる。

それだけは、本当だ。

石本は感熱紙を涼子に返し、細い肩を軽く叩いた。

叩かれた場所だけ、現実味が増す。

「時田さん。この『男性だけ』というデータ、単なる偶然かもしれないし、課長の言う通り何かの間違いかもしれないわ」

一拍、息を置く。

「でもね、役所が『あり得ない』と言い始めた時こそ、現場の人間は最悪を想定しなきゃいけないの」

石本は振り返り、局長を見据えた。

「この件、時田さんに継続して追わせなさい。彼女の通常業務に支障が出ない範囲で構わないわ。

その代わり、新しい情報が入ったら、課長やあなたを通さず、私の部屋へ直接持ってこさせて。いいわね?」

課長の顔色が変わる。

局長が一瞬固まり、それでも政治の命令には逆らえず、喉を鳴らして頷いた。

「……は、はい。承知いたしました」

石本はもう一度、涼子の目を見る。

柔和な微笑――でも、試すような微笑だ。

「お役所の机は、時々真実を隠してしまうけれど、紙に刻まれた数字だけは嘘をつかないわ。しっかり見ておきなさい」

嵐みたいに石本が去ったあと、課内に沈黙が落ちた。

さっきまでの煙草の匂いが、急に苦く感じる。

涼子は返された紙を、きつく握りしめる。

指が痛い。

でも、痛みがあるから、これは夢じゃない。

石本茂は、これが人類の危機だと言ったわけではない。

ただ――誰もが見逃そうとしている小さな火種に、涼子と同じように目を向けた。

それだけで、涼子の孤独な戦いは、少しだけ形を持った。

(……一人じゃない)

そう思った瞬間、自分の中に別の感情が混じる。

怖さ。責任。――そして、少しの昂り。

たった一枚の感熱紙が、国の机の上で生き物みたいに脈打っている。

涼子は、深く息を吸った。

吸い込んだ煙草の残り香に、咳が出そうになるのを堪えながら。


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