表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/31

別の温度

一九八一年(昭和五十六年)九月十九日(土)


 土曜日の霞が関は、音が少ない。

 平日なら鳴り続ける電話も、今日は間が空く。

 廊下を行き交う人影もまばらだ。


 だが、静けさは「止まっている」ことを意味しない。

 むしろ逆だった。


 涼子は午前中から、三本目の電話を受けていた。

 相手は、厚生省ではない。


「通産省です。――産業政策局」


 名乗りを聞いた瞬間、背筋が正しくなる。

 医療の話が、外へ出た証拠だ。


「そちらから回ってきた“考え方”ですが」


 相手は、言葉を慎重に選んでいる。


「港湾と工場の現場で、欠勤が増えています。

 理由は表向きはばらばらですが……医療機関に行った人間が、そのまま戻ってこないケースが目立ち始めました」


 涼子はメモを取りながら答える。


「重症化の兆候がある場合、長期化します。

 現場判断で、早めに休ませている可能性もあります」


「問題は、そこです」


 相手の声が、少しだけ低くなる。


「“早めに休ませる”判断が同時多発的に起きると、操業が成立しない」


 医療の論理と、産業の論理が――ここで初めてぶつかった。


「まだ数では語れませんが……特定の年代、特定の部署に偏りが出ています」


 涼子は、一瞬だけ言葉を止める。


「男性ですか」


「……はい」


 通話の向こうで、紙をめくる音。


「熟練工、現場責任者、夜勤対応者。

 代替が効きにくい人間から抜けていく」


 涼子は昨日の会議を思い出した。

 “制度を作らず、考え方だけを共有する”。

 その選択が、別の場所で、別の形の現実を生んでいる。


「現時点で、そちらに要請することはありません」


 通産省の職員は、そう前置きした。


「ただ……これは、医療だけの問題ではなくなる可能性がある。

 そう思って、連絡しました」


 電話を切ったあと、涼子は受話器を置いたまま、しばらく動かなかった。


 午後。

 今度は自治体側から連絡が入る。


「保健所です。例の“考え方”に基づいて対応していますが……首長から問い合わせが来ています」


「どういう内容ですか」


「“この状況は、どこまで公表する話なのか”と」


 涼子は即答できなかった。

 公表。

 それは、名前を付けることとほぼ同義だ。


「……現時点では、統一した発表は想定していません」


 保健所の担当者は、短く息を吐いた。


「そうですよね。

 ただ、現場では……“何も言えないこと”自体が、不安を呼び始めています」


 通話が終わる。


 医療。

 産業。

 自治体。


 それぞれの場所で、同じ“輪郭”を、別の温度で感じ始めている。


 夕方。

 局内の簡単な打ち合わせが開かれた。

 形式ばらない。議事録も取らない。

 だが、集まる顔ぶれは確実に増えている。


「通産省からも、自治体からも、似た話が来ています」


 涼子が報告する。


「現場が同時に揺れ始めています。

 ただし――まだ点です。線にはなっていません」


 医務局長が腕を組んだ。


「線になる前に、どうするか……だな」


 その場の誰かが、ぽつりと言った。


「――そろそろ、省をまたいで話す必要があるんじゃないか」


 一瞬、空気が張り詰める。

 “省をまたぐ”。

 それは、これまで意図的に避けてきた言葉だ。


 涼子は、すぐには賛同しなかった。


「まだ、正式な枠を作る段階ではありません」


 否定でも拒否でもない。


「ただ……

 “同じ事実を、別の立場で共有する場”は、必要かもしれません」


 誰も反論しなかった。

 それは会議の提案ではない。

 制度の話でもない。

 ただの確認だ。


 ――この問題は、ひとつの省では抱えきれなくなりつつある。


 窓の外では、土曜の夕暮れが静かに街を包んでいた。

 人々はまだ、日常を生きている。

 だが、その足元で。


 名のない違和感が、確実に広がり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ