九月半ば、霞が関の熱
一九八一年(昭和五十六年)九月十六日(水)。
暦の上では秋に入っているはずなのに、霞が関はまだ夏の匂いを残していた。
厚生省の玄関前を黒塗りが滑る。壁は灰色で、窓は直線ばかり。――建物は、いつも通りだ。
変わり始めたのは、内部の流れだけだった。
廊下の足音が、まばらになる。
空席が、毎日少しずつ増える。
欠勤の理由は、どれも“もっともらしい”。
風邪。胃腸炎。過労。
夏の疲れが出たのだろう、と誰もが言える。言えてしまう。
だが、涼子には、同じ匂いが続いているように感じられた。
休むのは、若い男性職員が目立つ。
戻ってきても、顔色が戻りきらない。休暇届の字が震えている。
机の上に置きっぱなしの書類だけが、昨日と同じ位置にある。
「また、ですか」
医務局のフロア。
伝染病管理の係で、電話のメモが一枚追加されるたびに、紙の山が崩れていく。
「“急変”。肺炎。免疫……低下、って」
誰かが声を落とす。声を落とさないと、言葉が重すぎるからだ。
涼子は返事をしなかった。
返事をした瞬間、これは“事件”になる。
事件にしたい人がいる。事件にしたくない人もいる。
その境界に自分の言葉が置かれるのが、怖かった。
午後。
内線が鳴る。
「医務局長室から。すぐ来て」
涼子は受話器を置き、立ち上がる。
歩きながら、自分の靴音が妙に大きいことに気づく。
局長室の前の廊下は、空調が強かった。冷えた空気が、息を白くしそうなほどだった。
扉の向こうに、人がいる気配がする。声は抑えられているのに、密度だけが高い。
中に通されると、会議というほどの形ではなかった。
楕円のテーブルの端に数人が集まっている。
灰皿には吸い殻がたまり、窓は閉じられたまま。
事務方の幹部。医務局の上の人間。
そして、端に――石本茂がいた。
さらにもう一人、普段ここに座らない人物がいる。
厚生大臣。スーツの襟元が僅かに乱れている。急に呼び戻された者の疲れが、目の下に滲んでいた。
政務次官、と名札はある。
だが今日の石本は、偉い席に座っているというより、場の“温度”を測っているように見えた。
何かを決める前に、決めさせないための顔。
それが涼子にはわかった。
「来たか」
医務局の幹部が言う。
机の上に、数枚の紙が並べられていた。統一された様式ではない。
ただ一枚、強い文字のメモがあった。
「田端運輸大臣 体調不良により都内大学病院に搬送」
空気が一段、重くなる。
ここは医務局長室だ。だが、政治の息が入り込むと、部屋の壁は役所の壁でいられなくなる。
「この件だ。――君が最初に“偏り”を言い出した」
涼子は喉が乾くのを感じた。
“偏り”。その言葉は、ただの観察のはずだった。
だが霞が関で観察は、すぐ意味になる。
「言い切りではありません」
涼子は先に釘を刺した。
事実を強くしすぎると、事実が政治になる。
「ただ……重い症例が、男性に寄っているように見える。年齢も。
女性や高齢者で同じ急変は、いまのところ、目立っていません」
幹部の一人が、紙を指で叩いた。
「“いまのところ”だ。断言するな」
「はい」
誰もが、断言を欲しがっている。
断言があれば、責任の形が作れる。
だが断言は、外れたときの刃にもなる。
沈黙。
その沈黙の中で、石本が口を開いた。
「名前のないものは、扱いが難しいわ」
声は静かだった。
断定もしない。煽りもしない。
ただ、場を“次の手”へ押しやる言い方だった。
「大臣には、上げているんですか」
幹部が言葉を選ぶ。
“どの大臣か”を、あえて言わない。
「上げています」
涼子が答えた。
視線は、会議室の厚生大臣に一瞬だけ触れて、すぐ戻る。
「ただ、形式としては――“相談”です。
まだ“報告案件”としては、固められていません」
言った瞬間、自分の言い方が官僚だと思った。
固める。固めない。
病気の話をしているのに、書類の話になってしまう。
石本は頷いた。
「固めると、動かさなきゃならない。動かすと、波紋が出ます」
誰も反論しない。
反論できないほど、全員が同じ恐怖を共有している。
医務局の幹部が続けた。
「現場は、何を求めている」
涼子は迷った。
原因究明と言えば正しい。
だが正しい言葉は、時間を食う。
「延命です」
短く言った。
「原因が何であれ、急変を止める手当が必要です。
隔離という言葉を使うかどうかは別にして、病院の運用を変える準備が要ります。
“出た後で考える”では、間に合いません」
室内に、息を呑む気配が走る。
誰もが“それ”を薄く思っていた。
だが口に出すと、現実になる。
石本が、机上の紙を一枚、自分の方へ引き寄せた。
「今日の結論は、決めない」
幹部が顔を上げる。
「決めないが、手は打つ。
――名前は付けない。表に出さない。
ただ、必要な資料は回す。必要な連絡線は作る。
それだけで、十分に“動き始める”」
涼子は、その言葉の怖さを理解した。
これは会議を立ち上げる宣言ではない。
制度を作る宣言でもない。
もっと小さい。
もっと現実的で、もっと止められない種類の動きだ。
“制度の外で、制度を支える”――その入口。
涼子は、席の端で頷いた。
誰にも見えないところで、霞が関は、少しだけ形を変える。
まだ夏の熱は残っている。
だが、今年の秋は、いつもより早く来る。
涼子はそう確信しながら、紙の束を抱え直した。




