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物資の防波堤

九月中旬。


涼子は石本次官の「密命」を抱えたまま、厚生省の廊下を歩き始めた。


表向きの名目は、来年度の感染症対策物資の見直し。

結核。院内感染。海外渡航者の増加。

“もっともらしい理由”を何枚も重ねる。


本当の理由を一言でも混ぜたら、予算の言葉にされる。

予算の論理で潰される。


それが、涼子がこの数か月で覚えた霞が関の作法だった。


まず向かったのは薬務局。


「この数量、例年より多いですね。何かあるんですか?」


係長が眼鏡の奥で眉をひそめる。

「若い女が数字をいじっている」という違和感も、眉間の皺に混ざっていた。


涼子は呼吸を浅くして、声を平らにする。


「海外渡航者が増えていますから。重症肺炎の備えとして、念のためです」


淡々と。

感情を混ぜない。混ぜると、そこだけ突かれる。


係長は納得していない顔のまま、「ふうん」と言って資料をめくった。

その“ふうん”の中には、官僚同士の礼儀と、疑いと、面倒くささが全部入っている。


(ここで言い返したら負けだ)


涼子は資料の端を指で押さえるだけにした。


「調達ルート、ここが一本なんですね。代替は?」


「あるにはあるが、普段は動かさない」


「動かす手順だけ確認させてください。……“いざ”の時、手順で止まるのが一番困りますから」


係長が、ほんの少しだけ表情を変えた。

“手順で止まる”――それは役所の痛点だ。誰もが一度は経験している。


次は、製薬会社。


涼子の引き出しには、国内大手数社の担当者名が並んでいる。

一九八一年、製薬会社と厚生省の繋がりは密だ。

密だからこそ、言葉を間違えると火がつく。


電話口で、涼子は一番安全な形に切り分けた。


「最近、海外で重症肺炎の報告が増えているようですね。供給体制はどうなっていますか?」


相手は、すぐには答えない。

“何を知っているのか”を先に測ってくる沈黙。


『……ええ。一部では需要が跳ね上がっていると聞いています。通常用途なら問題ありませんが、もし“想定外”の事態が起きれば……』


“想定外”という言葉が出た時点で、十分だった。

彼らも匂いを嗅いでいる。


「想定外が起きた時に慌てないための確認です。厚生省としても、無理をお願いするつもりはありません。……今は、まだ」


“今は、まだ”


言外の意味は、相手に届く。

届いてしまう。


電話を切った後、涼子は受話器を置いたまま、しばらく手を離せなかった。


汗で手のひらが滑る。

背中にシャツが貼り付く。


(……やってること、正しいのか)


正しい。

でも、正しさだけで動けば、役所は正しさを“形式”に変えて止める。


その夜。


次官室の灯りは遅くまで点いていて、窓の外の街だけが静かだった。


石本は涼子に言った。


「薬はね、足りなくなってからでは遅いの。正式な患者数が出て、新聞が騒ぎ始めたら――もう奪い合いになる」


涼子は頷いた。想像できる。


現場が混乱し、誰かが責められ、紙の上で責任の椅子取りが始まる。

そして最後に、現場だけが残る。


石本は続ける。声が少しだけ掠れた。


「そうなれば、現場の看護婦たちは、患者に『何もできない』と言わなければならなくなるわ」


石本は、ほんのわずかに目を伏せた。


「……私、あの光景だけは二度と見たくないのよ」


一瞬、次官室の空気が変わった。


ここにいるのは政治家じゃない。

戦地の夜を知っている、元看護師の女だ。


ウイルスはまだ正体を現していない。

世界のどこかで、男たちが倒れているという“偏り”だけが、断片として積もっていく。


名前もない。原因もない。治し方もない。


だからこそ――

霞が関の片隅で、「物資の防波堤」だけが先に築かれ始めていた。


涼子は机の引き出しの奥にしまった感熱紙の束を思い出す。

薄い紙。薄いのに、国の未来より重い気がする紙。


彼女はペンを握り直した。

震えそうになる指を、机の角に一度だけ押し付けて止める。


若いから、じゃない。

必要だから、やる。


防波堤は、見えない波の前にしか作れない。

波が見えてからでは――間に合わない。

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