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沈黙の産声

一九八一年(昭和五十六年)八月三日(月)。

朝から、暑い。

暑い、というより――東京が、最初からこちらを睨んでいる。

時田涼子は洗面所で水を顔に叩きつけ、タオルで乱暴に拭いた。

前髪が言うことを聞かない。

昨日の夜、ちゃんと乾かしたはずなのに。

「……もう」

小さく舌打ちして、指で押さえつける。

鏡の中の自分は、ちゃんと“社会人の顔”をしている。

している、つもりだ。

ブラウスの襟を整える。

ボタンを留める指先が汗で滑る。

この国の夏は、容赦がない。人の準備を待ってくれない。


地下鉄は冷房が効いている――はずだった。

冷房の効きが甘い営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線の車内は、汗をかいたワイシャツの袖が触れ合う、むせ返るような空間だった。

吊革にぶら下がる腕と腕がぶつかる。

革靴の先が踏まれる。

誰も謝らない。謝る余裕がない。

霞ケ関駅で降り、地上へ出る。

灰色の建物が並ぶ。

どれも同じ顔をして、同じ重さで立っている。

二十四歳。東京大学医学部を卒業し、厚生省(現在の厚生労働省)に医系技官として入省して二年目。

白いブラウスの下で、背筋を伸ばす。

ここでは姿勢が、そのまま値踏みになる。

まだ「女性のキャリア」という言葉に、羨望よりも好奇の目が向けられる時代だった。

「東大?」

「医者にならなかったの?」

「女の子なのに大変だね」

悪気のない声。

悪気のない視線。

悪気がないからこそ、逃げ場がない。

涼子は歩く。

パンプスの音を、一定に保ちながら。

ここで足音を乱すと、弱いと見なされる。

そういう空気を、もう知っている。


厚生省の廊下は、冷えている。

冷えているのに、どこか湿っている。

紙の匂いと、ワックスと、煙草。

それから――人が言葉にしなかった疲れの匂い。

「おはようございます」

挨拶は反射だ。

返事も反射だ。

その反射が、ここでは“秩序”になる。

涼子の席は、部屋の奥。

国際通信の端末が置かれた隅。

窓際、と言えば聞こえはいい。

でも実際は、だいたい“後回しにできる仕事”が集まってくる場所だ。

――後回しにできる、って誰が決めたの?

机の上の書類を整えながら、涼子は一瞬だけ眉を寄せた。

すぐに戻す。

ここでは顔に出すと面倒だ。まだ学んだばかりの処世術。

午前十時。

テレックス端末が、突然うなり声を上げた。

金属が喉を鳴らすみたいな音。

紙が吐き出される音。

その音は、部屋の雑音を一瞬だけ切り裂く。

誰かが「またか」と呟く。

誰かが椅子をきしませる。

でも、みんなすぐ自分の書類に戻る。

海外からの電信なんて、どうせ定型の注意喚起だ、と。

涼子は紙を受け取った。

薄い紙。

なのに、指先が妙に冷える。

差出は英国。

件名に“急ぎ”の表示。

涼子は、目を走らせた。

――原因不明の免疫系の崩れ。

――急速に悪化する肺炎。

――短期間で重症化する例。

――そして、偏り。

「……男性に?」

声が、喉の奥で止まった。

“現時点では男性に限られている可能性が高い”

そんな曖昧な言い方のくせに、文字だけは刺さる。

偏り。

そんな言葉で片づけていいものなのか。

偏り、って――人が死ぬ話だ。

涼子は紙を二度、三度読み返した。

読み返すたび、胸の中で何かが小さく跳ねる。

恐怖なのか、怒りなのか、興奮なのか、自分でも判別がつかない。

背後から、課長の声が飛んできた。

「また外国の話か。こっちはコレラと赤痢で手一杯だぞ」

笑いが起きる。

軽い笑い。

“怖いものを軽くしてしまう”ための笑い。

涼子は笑えなかった。

笑うタイミングを計ってしまう自分が嫌で、なおさら笑えなかった。

(……これ、誰に見せる)

この課の係長に?

課長に?

それとも、もっと上に?

上に上げたら、たぶんこう言われる。

「確証がない」

「症例数が少ない」

「向こうの騒ぎだ」

「日本には関係ない」

――関係ない、って、誰が決めるの?

涼子は唇を噛み、紙をきれいに揃えた。

折り目を付ける。

胸ポケットへ滑り込ませる。

この薄い紙が、変に熱い。

熱いのは、紙じゃない。たぶん自分だ。

窓の外では、ネクタイの群れが、いつもの速度で横断歩道を渡っている。

車が流れる。信号が変わる。

夏の光が、石の壁を白く照らす。

国家は、まだ普通の顔をしている。

だからこそ、余計に怖い。

普通の顔のまま、何かがすり抜けていくのが。

涼子は椅子に座り直し、机の上の次の書類に手を伸ばした。

表情だけを、いつも通りに戻して。

胸ポケットの中で、紙が小さく擦れた。

その音が、やけに大きく聞こえた。

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