毒の華咲く、永遠の庭園にて
世界は、白く、静寂に包まれていた。
黒曜石の塔の最上階。リリアーヌは、窓辺に置かれた椅子に深く腰掛け、終わりのない雪景色を眺めていた。
彼女の膝には、かつて復讐の道具として手に取った「致死性の毒草」ではなく、カイルが大陸中から集めさせた稀少な花々の図鑑が広げられている。
「……リリアーヌ。今夜は、一段と月が美しい」
背後から、低く甘い声でカイルが囁く。
彼はリリアーヌの元へそっと歩み寄る。そして、彼女の細い首に腕を回し、深い愛着を込めてその項に顔を埋めた。
「君の動脈が、いつもより穏やかだ。……何か、良い夢でも見ていたのか」
カイルの瞳に宿るは、かつての「狂皇子」としての殺気ではなく、彼女の髪一本が抜けることすら恐れる、敬虔な信者のような独占欲だ。
彼女の視線が自分以外に向けられるだけで、足元から崩れ落ちそうなるほどに。
リリアーヌは小さく笑みをこぼし、カイルの大きな掌を、自分の頬へと優しく導いた。
「ええ、カイル様。とても良い夢を見ていましたわ。……忘れかけていた、懐かしい夢を」
彼女の琥珀色の瞳は、遠い過去の情景を映すように、微かに揺らめいていた。
カイルは、そんな彼女の視線の先に、微かな違和感を覚える。それは、塔の窓から遥か遠く、雪に埋もれてかすかに見える、白亜の廃墟。かつて二人が初めて出会った、あの王宮の秘密の庭園の跡地だった。
「……あの場所か」
カイルの声が、低く響く。
リリアーヌは小さく頷いた。
「私、もう一度あそこへ行きたいのです。……貴方と出会った、あの毒の庭へ」
その言葉に、カイルの紅い瞳に、一瞬、狂気じみた光が宿った。
彼はリリアーヌを抱き上げ、まるで壊れやすい宝物を扱うように、そして何よりも重い枷を嵌めるように、強く、深く抱きしめた。
「……許す。だが、君を連れて行くのは、私だけだ。誰も寄せ付けない、二人だけの庭園へと、私が変えてやろう」
カイルが指を鳴らすと、黒曜石の塔の窓の外に、彼の魔力によって作られた漆黒の軍馬が姿を現した。雪を蹴散らし、空を駆けるその姿は、かつて断頭台に乱入した狂皇子そのものだった。
凍てつく空気を切り裂き、二人は故郷の王都へと向かった。
廃墟と化した王宮は、雪に埋もれて骨組みだけを残し、かつての栄華を無残に晒している。その一角、カイルが記憶の奥底に刻みつけていた「秘密の庭園」の跡地だけが、魔力によって雪に閉ざされることなく、かろうじてその姿を留めていた。
降り立った二人の足元には、朽ちた石造りのベンチと、枯れたツタに覆われた古木がある。
カイルが幼きリリアーヌと出会い、その「毒」に魅せられた場所。
「……懐かしいわね。このベンチに座って、私、貴方に毒の話を聞かせたわ」
リリアーヌは、そっとベンチの石に触れた。その指先が、まだ見ぬ熱を求めるように微かに震える。
カイルは、リリアーヌをベンチに座らせると、その膝に自らの頭を乗せた。幼い頃、彼女が「毒草学大系」を読んでいた時と同じ体勢だ。
リリアーヌは、カイルの漆黒の髪を梳きながら、昔を懐かしむように語り始める。
「私、あの時、貴方の紅い瞳に、私が読み耽っていたトリカブトの花と同じ『美しさ』を感じたのよ。……怖くなかった。むしろ、貴方という毒を、この身体に取り込みたいと、純粋に願った」
カイルは、目を閉じたまま、その言葉に深く息を吸い込んだ。
彼にとって、リリアーヌとの出会いは、泥の中で見つけた一輪の毒の花だった。その毒に魅せられ、世界を裏切り、彼女だけを求めてきた人生。
「……私のすべては、あの時から君のものだ。君を閉じ込める檻も、君に捧げる毒も、君を愛するこの心も。……君は、私の魂そのものに『呪い』をかけたのだ」
カイルの言葉は、懺悔のようであり、究極の愛の告白でもあった。
リリアーヌは、カイルの頬を撫でる。その指先が、彼の紅い瞳の奥に、かつて自分が見た「孤独」と、今は自分への「狂愛」だけが満ちていることを感じ取っていた。
「ええ。貴方は、私の最も甘美な呪い。そして私も、貴方の最も抗えない毒。……この場所で、私たちは『毒』に恋をした。だから、最期もこの場所で」
リリアーヌは、懐から小さなガラスの小瓶を取り出した。中には、真珠のように白く輝く液体。それは、彼女が「永遠」を求めて調合し続けた、究極の毒薬だった。
肉体は朽ちても魂を絡め取り、二人の狂愛を永遠に紡ぎ続けるための。
「カイル様。これを飲めば、私たちの意識は、この庭に、この毒に、そして互いの魂に、永遠に溶け込むでしょう。……もう、誰にも邪魔されない。誰にも見つけられない、二人だけの庭園で、永遠に」
カイルは目を開け、その紅い瞳で小瓶を見つめた後、迷うことなくリリアーヌの指からそれを受け取った。
「……私の毒妃。君が望むなら、私は喜んで、この毒に侵されよう」
彼は小瓶の中の液体を一気に飲み干すと、そのままリリアーヌの唇を奪った。
甘く、しかし痺れるような毒の味が、二人の口の中で混ざり合う。
リリアーヌもまた、残りの毒を飲み干し、カイルの首に腕を回した。
二人の首元で、赤い石のネックレスが、最後の力を振り絞るように、激しく、脈動するように輝きを放った。
カイルの魔力が庭園全体に広がり、朽ちた木々や枯れた草花が、まるで時が巻き戻されたかのように、再び生命を宿し始める。だが、それは自然な「生」ではない。リリアーヌが愛した、あの「トリカブト」や「ベラドンナ」といった、美しくも猛毒の植物だけが、庭園いっぱいに咲き乱れていく。
「……カイル様。見て。私たちの庭が、毒の華で満たされていくわ」
リリアーヌは、最後の力を振り絞り、カイルの頬を撫でた。
「ああ……。君が望む、永遠の庭だ。……君の瞳に、もう二度と絶望の色は映させない。私だけを、永遠に見ていろ」
カイルは、リリアーヌを強く抱きしめたまま、その毒の花々に囲まれたベンチの上で、ゆっくりと意識を閉じていった。
二人の身体は、徐々に硬質化し、まるで宝石のように輝きを放ち始める。
そして、毒の華が咲き乱れる永遠の庭園の中心で、抱き合ったままの二人の姿は、やがて朽ちることのない、美しい「琥珀の像」へと変貌していった。
空からは穏やかな月光が降り注ぐ。
毒の華が咲き誇るその庭園だけが、世界から忘れ去られたまま、永遠に時を刻み続ける。
そこは、誰も辿り着けない、二人だけの楽園。
初恋の毒に魅せられた暴君と毒妃の、最も甘美で、最も狂おしい、永遠の終着点だった。
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