【カイル視点】断頭台にいる君を奪いに来た
雨の香りがする。
雨上がりの土の匂いも、処刑場に漂う下俗な民衆の熱気も、すべてがその錆びついた赤色の匂いに塗りつぶされていた。
視界の先、断頭台の刃が落ちた瞬間、俺の時間は永遠に止まった。
「……あ」
声にもならない音が喉の奥で潰れる。
俺が、そのために国を売り、泥を啜り、狂皇子と蔑まれながらも積み上げてきたすべての策動が、無残な音を立てて崩れ去った。
守りたかった。ただ、笑っていてほしかった。それだけだったのに。
駆け寄った俺の腕の中に落ちてきたのは、温もりを失い始めたリリアーヌの、あまりにも無惨な末路だった。
泥にまみれた金糸の髪。絶望に染まったまま固まった、琥珀色の瞳。
俺は彼女を抱きしめた。白かったドレスが、俺の軍服と同じ忌々しい赤に染まっていく。
「リリアーヌ……ああ、リリアーヌ。なぜだ。なぜ、あんな男を選んだ。なぜ、俺の手を取ってくれなかった……!」
返事はない。彼女を裏切り、死へと追いやった元婚約者の第一王子や、高みの見物を決め込む聖女どもの顔が、俺の脳内で醜く歪む。
怒りではない。それは、この世界そのものを消し炭にしても収まらないほどの、虚無だった。
神などいない。もしいるのなら、今すぐ引きずり下ろして殺してやる。
俺は彼女の冷え切った頬を撫で、その唇に最期の口づけを落とした。
「……待っていろ。すぐに、この世界を地獄に変えてから追いかける」
その時だった。
俺の心臓が、内側から爆ぜるような衝撃に襲われたのは。
目が覚めると、そこは戦場の天幕の中だった。
汗に濡れた肌。激しい動悸。
狂ったように周囲を見渡す。そこにあるのは、三年前に俺が指揮していたはずの陣営だった。
「戻った……のか?」
信じられなかった。だが、手に残るあの冷たい感触が、悪夢ではないと告げている。
笑いが込み上げた。腹の底から、どろりとした漆黒の歓喜が溢れ出す。
神が慈悲を与えたのではない。俺の執念が、運命の歯車を無理やり逆回転させたのだ。
今度の人生は、正しく狂ってみせよう。
リリアーヌ。君を傷つけるすべてを、俺がこの手で掃除する。
君を裏切る王子も、君を嘲笑う聖女も、君を救えなかったこの世界も。
そして何より。
二度と、君を俺の視界から逃がしはしない。
馬を飛ばし、リリアーヌの屋敷へと向かう。
冷徹な暴君としての仮面を被りながら、胸の内では心臓がうるさいほどに警鐘を鳴らしていた。
怖いのだ。もし、扉を開けた先に彼女がいなかったら。もし、またあの赤い景色が広がっていたら。
リリアーヌの部屋の前に立つ。
警備の兵など、俺の殺気だけで退いた。
震える手で、重厚な扉を押し開ける。
――そこに、彼女がいた。
ベッドの上で、怯えたように肩を震わせているリリアーヌ。
まだ生きている。息をしている。あの琥珀色の瞳が、絶望に濁ることなく俺を見ている。
「……リリアーヌ」
声を出すのが精一杯だった。
今すぐ駆け寄って、その細い首に腕を回し、二度と離れないように鎖で繋いでしまいたい。
俺以外の誰も見ることができない、深い地の底の檻へ閉じ込めて、一生俺の愛だけで満たしてやりたい。
だが、今の彼女にとって俺は「敵国の不気味な皇子」でしかないはずだ。
俺は必死で、溢れ出そうになる狂気を理性という檻に閉じ込めた。
跪き、彼女の震える手を取る。
「……お迎えに上がりました、我が姫」
嘘だ。迎えになどという、生易しい言葉では足りない。
俺は君を奪いに来た。
君を裏切った世界から。そして、君自身からも。
リリアーヌ。君の瞳に映るあの処刑場の赤を、俺がすべて塗りつぶしてやる。
たとえ君が、俺を憎むことになったとしても。
この二度目の人生、君のすべては俺のものだ。




