壊れゆく世界
ミアを「生ける標本」として調教し始めてから、数ヶ月。王宮の地下深くには、太陽の光すら届かない、静謐で退廃的な迷宮が完成していた。『漆黒の檻』と呼ばれるその最深部は、カイルがリリアーヌを外界のあらゆる視線や悪意から守り、同時に彼女という猛毒をただ一人で独占するために魔力で塗り固められた監獄であった。
部屋の壁は、音を一切漏らさない厚い黒曜石で覆われ、天井には魔力で灯る紫の炎が揺らめいている。
そこには、リリアーヌが心ゆくまで毒の研究に没頭できる調薬設備と、暴君が彼女を愛でるための、滑らかなシルクの寝具が揃っていた。
室内には、リリアーヌが禁忌の術式を用いて開発した「感覚同期」の魔法が、霧のように立ち込めている。これは首元に嵌められた紅い石のネックレスを媒介とし、二人の神経を結合させる呪術だった。
カイルが遥か地上の執務室で政敵の処刑を命じ、その断頭台から血が噴き出せば、地下にいるリリアーヌはその血の生暖かい温度と鉄の臭いを肌で感じることができた。逆に、リリアーヌが檻の中で未知の毒草をすり潰し、その成分がもたらす陶酔感に頬を染めれば、カイルの強靭な心臓もまた、狂おしく、激しく打ち鳴らされるのだ。
「……カイル様、お帰りなさい。今日は一段と、貴方の鼓動が激しいですわね。地上の空気は、そんなに貴方を苛立たせたのかしら?」
重厚な扉が開くと同時に、リリアーヌは豪華な寝椅子に身を預けていたカイルへと歩み寄った。
彼女は彼の膝の間に割り込むように跪き、外套のボタンを一つずつ、儀式のように解いていく。
カイルは漆黒の外套を脱ぎ捨てると、リリアーヌの細い腰を抱き寄せ、その白い首筋に顔を埋めた。
「……エドワードの国の残党が、卑しくも連合軍を組み、君を奪おうと国境を越えた。救出だ、奪還だ……そんな汚らわしい思考の断片が、ネックレスを通じて私の脳裏に流れ込んでくるたびに、世界をすべて焼き尽くしてしまいたくなる。君に触れていいのは、私だけだ。君の名前を呼んでいいのも、私だけだ」
カイルは、独占欲という、救いようのない病に冒されていた。
かつての冷徹な顔は消え、そこにあるのは愛する女を檻に閉じ込め、その毒に自らも侵されることを望む狂人の貌だった。
リリアーヌは彼の漆黒の髪を細い指で梳き、耳元で蜜のように甘い声を漏らす。
「ならば、焼き尽くせばよろしいでしょう? カイル様。……ちょうど、良い『薬』が完成しましたの。私の作った『精神を蝕む霧』を、貴方の黒騎士軍に持たせてください。それを吸い込んだ兵たちは、死ぬことすら許されず、一生、貴方と私の恐怖を夢に見続ける廃人となるでしょう。肉体は生きたまま、魂だけを永遠の迷宮へ閉じ込めるのです。救いなど、どこにもない暗黒の底へ」
カイルはリリアーヌの提案に酔いしれながら、貪るように唇を落とす。
「君の毒は、私の魔力よりも残酷で、そして美しい。……ああ、リリアーヌ。君に壊されるのならば、私は喜んで自分を捨てよう。」
カイルは自ら、リリアーヌの作業台から銀の毒針を手に取った。それは神経を強制的に興奮させ、激痛と快楽を同時に脳へ刻み込むための猛毒。彼は迷うことなく、自らの太い腕にその針を突き立てた。
ドクン、とネックレスが強く発光する。カイルの瞳が紅く燃え上がり、荒い吐息がリリアーヌの肌を撫でる。その異常な感覚は、魔法の共鳴を通じてリリアーヌの背筋にも突き刺さった。
「あ……っ、カイル様……。素晴らしいわ。貴方の狂気が、私の背中をこんなにも熱く焦がす。貴方の怒りが、私の指先をこんなにも震わせる……。愛していますわ、世界で唯一の、私の共犯者様」
二人は、外界で起きている悲劇を、まるで遠い国の物語のように享受する。カイルの軍勢が毒霧を撒き散らし、焦土と化す隣国。
愛する家族の名を叫びながら、その記憶すらも毒によって溶かされ、這いつくばる数万の民。それらすべては、二人の濃密な時間を彩るための、最高のご馳走に過ぎなかった。もはや彼らにとって、世界は自分たちの歪な愛を盛り上げるための、血塗られた舞台装置であった。
部屋の隅では、銀の鎖で繋がれ、自我を完全に喪失したミアが、虚ろな瞳で二人の情事を眺めている。
そして今は主人の指示に従って薬草を運ぶだけの「動く家具」と化していた。
リリアーヌはカイルの胸に抱かれたまま、ミアに冷ややかな視線を向け、残酷な微笑みを浮かべた。
「見て、ミア。前世で貴女がエドワード様から望んだ、あの空っぽな『幸せ』よりも、ずっと濃密で、ずっと純粋で残酷でしょう? 」
不敵な笑い声が、光の届かない地下深く、黒曜石の壁に反響し続ける。
二人の絆は、誰も解くことのできない、呪いのように重なり合っていた。




