死神。
洋風のベッドに寝転がり、いつも聴いてる曲を聴く。一通り聞いた後部屋の電気を消すため、リモコンを手に取る。ピッと音がして部屋の明かりがやがて暗闇へと変わる。窓から見える夜の空は妙に明るく見えて、部屋はシーンと静寂に包まれる。この時間になるといつも暗い考えが脳をほとばしる。いつも考えてしまう。このまま生きていたらどうなるんだろうかと。「面白いことは何にもない」と私の好きな曲の歌詞は唄うが、私もそう思う。わたしも嘆いている。別に面白いと思うことはあるが、それは一時的なものに過ぎなくて、儚くて、そしてその思い出は今では過去になって、昔は楽しかったという過去形になる。そして妙にそれが繰り返されると楽しかったことも、楽しくなくなる。そして、変に感情が薄れていく。中学から時を共にしていた友と話してもここ最近は、あまり楽しくないと感じてしまう。そう、周りと話していても、「品性のない会話。どうでも良い情報を吐き捨てる」これも私の好きな曲の歌詞だが、わたしも同感だ。皆、上っ面な会話をしているようにしか思えない。相手の表情を見て会話している人、他の人に嫌われないように立ち回る人、横暴な態度で自己中心的な人、いろいろな人がいるけれど、皆、浅ましい会話ばかりしている。そしてその中の1人に過ぎない自分に嫌気がさす。所詮この考えが独りよがりだと言われたらそこまでだ。だがあまりにも私は言葉に過敏で相手のことを身勝手に考えて、うまく話そうと話を合わせる。結局人に上っ面な会話だと、言ってるくせに自分はもっとペラペラな会話をしている。そこにまた自己嫌悪がくる。世の中にはコミュニケーション障害というものがあるが私はおそらくコミニュケーション障害の一塊なのだろう。だが、人とうまく喋れないのが問題だとは思えない。会話をしていて何かつまらないと感じてしまう。別に趣味趣向が合わないとかそういう問題ではなく。単につまらないと感じてしまう。どの人と話しても。だが、「何処がつまらないの?」と聞かれても形容がし難い。物事をする時にはいつも何かしらの理由や意志が付きまとうが、このつまらないという感情は何処か形容し難いもので、でも確かに存在して、私を苦しませる。自分の趣味の時間にも、この形容し難いつまらなさ、或いは退屈さ、とでも言い表そうか。とにかくその退屈さがが付きまとう。それは何処となく不透明でぼんやりしていて、今一度言うが、確かに私の心の中に、存在しているのだ。それの退屈さ、つまらなさが、ここ最近は激しい。何をしようにも付きまとってくる。それはまるで、死に際の老い人に付きまとう死神のように。
どうやら自分は人生に飽きてきたのかと思うようになってきた。私は高校生だが、勉強を必死にしていい大学に入って、その後も努力して、いい企業に入って、、と考えていたが、その後は?
生活が安定してくるのは良くて、三十代や四十代頃だろう。その頃には老いに悩まされ、責任という足枷を纏い、仕事をこなし、夜家に帰る。よく幼い頃に抱いた、「大人は自由」という妄言が、所詮は机上の空論でしかなり得ないことであることに気づくだろう。「自由」ではなく、「不自由な自由」とでも言おうか。そしてまた昔は楽しかったと暗闇の寝室でベッドに寝転がり想いに耽る夜が来るのだろう。今の状況と変わらないじゃないか。結局どうあがいても愚者は愚者であり、賢者にはどう足掻いてもなれない。賢者とは愚者が抱いた理想であってそれこそ机上の空論であるに違いない。ああ、人生とは、あまりにも先が見据得ることができて、その先には絶望しかなく、まだ、予測不可能な死後の世界の方が私は楽しみかもしれない。死人に口無しとはよく言ったものだと私は思う。だからこそ死後の世界が楽しみで仕方がない。ああ、この人生に付きまとう形容し難い退屈さという死神よ、君はどんな姿をしているのか。私に見せてくれないか?。




