炎の章 第一部 ―紅蓮の誓い―
「火を操る者たちの誇りと、戦乱の大地。
焔の剣士と王国の興亡を描く序章。」
それが、この物語の始まりである。
辺境の村に生まれた少年――カイは、生まれながらに炎を操る力を宿していた。
しかしその力は「災厄」と恐れられ、村を救ったにもかかわらず追放の憂き目に遭う。孤独の放浪の中で、老剣士ガルドと出会ったカイは、「力は破壊のためではなく、守るためにある」と教えられ、炎を剣に宿す術を磨いていく。
大陸は今、王国の継承争いと外敵の侵攻によって揺れ動いていた。
その渦中でカイは、滅びた旧王国の生き残りである王女リィナと邂逅し、「炎の契約」にまつわる伝承と、王国再興の願いを託される。
やがて、廃墟に眠る火竜ヴァルゼルの試練を乗り越えたカイは、紅蓮の炎を剣に宿す「竜炎剣」を授かり、焔の剣士として立ち上がる。
だがその前に立ちはだかるのは、闇の魔導師カルマ。
炎を憎み、七つの属性を戦乱へと導こうとするカルマとの戦いの中で、カイは仲間を失い、炎の暴走に呑まれかけ、幾度も絶望に沈む。
それでも彼は炎を呪いではなく「誓いの証」と信じ、立ち上がる。
そして、王国の命運を賭けた最終決戦。
カイは焔の誇りを胸に、紅蓮の炎を振るい、戦乱の大地に新たな未来を切り拓く。
やがてその名は、人々の記憶に刻まれる――。
**「紅蓮の英雄カイ」**として。
それは、七つの属性が交錯し、世界を揺るがす長き戦いの物語。
大いなる伝説の最初の炎が灯された、まさに序章であった。
その子は、生まれながらにして炎を宿していた。
まだ乳飲み子の頃から、掌に小さな紅い光が浮かぶことがあった。泣き声に合わせるように光はゆらぎ、やがて火花となって宙を舞った。布団の上に散った火はすぐに消えたが、それを見た村人たちは顔を青ざめさせた。
「炎の子だ……」
「神が授けたのか、それとも呪いか」
人々のささやきは幼いカイを取り巻き、成長するほどに濃くなっていった。
父の名はレオン。かつて王国軍に仕えた剣士であり、戦場で幾度も武勲を立てたが、血と鉄の匂いに疲れ果て、辺境の小さな村で静かに暮らす道を選んだ男だった。
母の名はセラ。神殿に仕える巫女であり、村人の祈りを導く清らかな存在だった。彼女は村に嫁いでからも、いつも白い衣をまとい、静かに人々に祈りを捧げていた。
そんな二人から生まれた子が、カイ。
村人は祝福と畏れの入り混じった眼差しで彼を見つめた。だが幸福な日々は長くは続かなかった。
カイが五つの年を迎える前に、父は戦で負った古傷がもとで倒れ、母は村で流行した病に命を落とした。二人は相次いで世を去り、残されたのは炎を宿した幼子だけだった。
「忌まわしき炎が、両親までも奪ったのだ」
そう囁く者もいた。
村はカイを孤児として引き取った。表向きは「皆で育てる」と言いながら、実際には冷たい扱いが続いた。
家は与えられたが、食事は残り物ばかり。冬は薪を分けてもらえず、息を白くしながら布切れ一枚で耐えることもあった。
子どもたちは彼を避けた。
「近づくな。火が移る」
そう言って石を投げる者すらいた。
けれどカイは泣かなかった。父が残した古びた剣を倉庫から見つけ出し、錆び付いた刃を振り続けた。
夜明け前のまだ暗い畑の片隅で、誰にも見られないように剣を振る。倒れそうなほど痩せた体で、ただひたすらに剣を振り下ろし、振り上げ、構え直す。その姿は幼いながらに孤独な狼のようだった。
村の大人たちは「無駄なことを」と笑った。
「剣を振っても、あの子は災いを呼ぶだけだ」
だがカイはやめなかった。剣を振るたびに、父の声が耳に蘇る気がしたからだ。
――剣は人を守るためにある。
――振るうのは怒りや憎しみのためではない。
その言葉を信じて、彼は剣を振った。
やがて十歳を迎えるころ、彼の炎は次第に制御を得るようになった。掌に小さな火を灯し、消すことができるようになった。
だがその力は村人をさらに遠ざける。
ある日、畑で火を使って雑草を燃やしていたときのことだった。カイの炎が風に煽られ、隣の畑の干草を焦がしてしまったのだ。すぐに水をかけて火は消えたが、畑の主は怒り狂った。
「やはり災いの子だ!」
「今すぐ村から追い出せ!」
怒号が広がり、子どもたちは泣き叫び、大人たちは武器を手にしようとした。その場を収めたのは、老いた村長だった。
「まだ幼いのだ。追い出すことは許さぬ。ただし、これ以上炎を使うな」
その一言でカイは生き延びたが、村での立場はますます孤独になった。
夜、藁の寝床に横たわりながら、カイは天井を見上げて呟いた。
「この炎は、本当に呪いなのか……?」
答える者は誰もいない。闇の中、ただ小さな火が彼の掌にともり、すぐに消えていった。
――その炎が、彼の運命を切り開く刃となることを、この時のカイはまだ知らなかった。
その夜は、不思議なほどに月が赤かった。
村の上空に浮かぶ満月が血を垂らしたように濁り、風は生ぬるく、木々のざわめきはどこか怯えを含んでいた。
カイは藁の寝床から身を起こし、外へ出た。胸騒ぎがしたのだ。
遠くの森から獣のうなり声が響いてくる。普段聞く狼の声とは違う。もっと低く、もっと重く、まるで大地の奥底から響くような声だった。
「……来る」
その瞬間だった。森の奥から黒い影が溢れ出した。
月光を浴びて浮かび上がったのは、体毛が煤のように黒く、牙は鉄をも噛み砕くほどに長い、異形の狼たち。
ただの獣ではない。魔に蝕まれた魔獣――〈黒牙狼〉。
群れは一斉に村へ突進してきた。
「魔獣だ! 逃げろ!」
「鐘を鳴らせ!」
村は一瞬にして阿鼻叫喚に包まれた。
男たちは斧や槍を手にしたが、魔獣の群れは人の背丈をはるかに超える巨体で、眼は紅く光り、突進するだけで家屋を吹き飛ばす。
木造の家々が軋み、炎に包まれるのは時間の問題だった。
カイも叫んだ。
「逃げるんだ!」
だが村人たちは彼を見ると恐怖を露わにした。
「お前の炎が呼んだんだろう!」
「呪いの子が魔を招いたのだ!」
その言葉に胸をえぐられながらも、カイは走った。倒れた老人を背負い、泣き叫ぶ子を抱え、必死に安全な場所へ運んだ。
しかし群れは止まらない。次々と家を焼き、村人を飲み込んでいく。
やがて、広場の中央で、村長が捕らえられた。
黒牙狼の首領と思しき巨獣が爪で老人を押さえつけ、喉を狙う。
「やめろ!」
気づけばカイの掌に炎が生まれていた。小さな火種は瞬く間に大きくなり、腕を伝って燃え広がる。熱く、痛く、それでも離せなかった。
――剣よ、来い。
炎は渦を巻き、形を変え、やがて一振りの刃となった。
紅蓮に輝く剣。父の古びた鉄の剣が、炎と融合するかのように再生したのだ。
村人たちが息を呑む中、カイは走った。
炎剣を振るうと、魔獣の巨体が真っ二つに裂け、黒い血が噴き出した。灼熱の刃は夜を照らし、群れは怯え、吠えた。
「これが……俺の、力……」
だが歓喜は一瞬だった。あまりに多すぎた。群れは十頭、二十頭と押し寄せ、倒しても倒してもきりがない。
炎の剣は確かに強大だったが、未熟なカイの体は力に耐えられず、腕は焼けるように痛み、視界が赤に染まった。
それでも振るった。倒れるまで、喉が裂けるまで叫び、振るった。
――その時、背後で炎が爆ぜた。
村が、燃えていた。
家も、畑も、人も。
魔獣の牙だけでなく、カイ自身の炎が暴走し、村を包んでいた。
「いやだ……俺じゃない……!」
必死に否定しても、炎は止まらない。炎剣が叫び、暴れ、彼を引き裂こうとする。
村人の悲鳴が重なり、夜は地獄と化した。
カイは崩れ落ちた。
燃え盛る村を前に、ただ炎剣を握りしめたまま。
――こうして、故郷は滅びた。
生き残ったのは、燃え尽きるまで剣を振り続けた、一人の少年だけだった。
夜が明けても、村は炎に包まれていた。
赤黒い煙が空を覆い、灰が雪のように舞い落ちる。
カイは、焼け落ちた広場の片隅で膝を抱えていた。
喉は渇き、体は震えていた。それでも手から炎剣は離さなかった。
剣を手放せば、この地獄に呑み込まれる気がしたからだ。
だが、剣はもう燃えてはいなかった。あの紅蓮の輝きは消え、ただの錆びた鉄に戻っていた。
彼の中に残ったのは、焼け焦げた匂いと、血の味と、どうしようもない虚無だけだった。
「……俺のせいなのか」
低い声が喉から漏れる。
誰も答える者はいない。村人は皆、灰となった。
――いや。
微かな呻き声が聞こえた。
カイは立ち上がり、崩れた家屋の中へ駆け込んだ。
瓦礫を必死にかき分けると、そこには幼い少女がいた。煤だらけで、息も絶え絶えだったが、確かに生きている。
「大丈夫だ、今助ける!」
少女を抱きかかえ、近くの小川へと運ぶ。冷たい水を口元に含ませると、少女はかすかに目を開いた。
「……カイ、にい……」
村で唯一、彼を怖れずに接してくれた子だった。
だが、その瞳はすぐに閉じ、二度と開くことはなかった。
カイは声を上げることもできず、ただ彼女を抱いたまま、夜まで動けなかった。
――その後、彼は幾人かの生存者を見つけた。
腕を失った男、逃げ延びた老婆、そしてまだ息のある子ども。
だが誰もが彼を見ると、怯えたように目を逸らした。
「お前が……呼んだんだろう……」
「炎の子め……」
誰も感謝の言葉を口にしなかった。
むしろ、彼を呪った。
カイはそれ以上言い返さなかった。
胸の奥で、反論の火が燃え上がりかけたが、それを呑み込んだ。自分でも、真実が分からなかったからだ。
数日後、わずかな生存者たちは別の村を目指して旅立った。
彼らはカイに告げた。
「一緒に来るな」
「災いを呼ぶお前と歩けば、また死ぬ」
その言葉を聞いたとき、カイの心の奥に、氷のような静けさが広がった。
――もう、この村には居場所はない。
カイは、父が遺した錆びた剣を腰に差し、母が遺した布切れを胸に巻いた。荷物はそれだけだった。
焼け跡を振り返ると、灰に埋もれた家々が、まるで墓標のように並んでいた。
「必ず、強くなる」
カイは唇を噛み、炎のように赤い夕陽に向かって歩き出した。
足取りは重く、背中には絶望がのしかかっていた。だがその瞳の奥には、消えぬ光が宿っていた。
それは――この炎を呪いではなく、誇りへと変えるという誓い。
こうして、少年カイの長き旅が始まった。
村を出てから三日。
カイはただひたすらに歩き続けていた。道らしい道はなく、獣道を頼りに森を抜け、丘を越え、干からびたパンを齧りながら進んだ。
夜は冷え込み、野宿のたびに焚き火を囲んだ。炎は、彼にとって唯一の安らぎであり、同時に呪いを思い出させるものでもあった。
「……俺は、どこへ行く」
問いかけても答えはなく、ただ夜風が頬をなでるだけだった。
四日目の昼、丘を越えた先で、悲鳴が聞こえた。
「やめろ! 誰か助けて!」
声は若い娘のものだ。
カイは迷わず走った。
林を抜けると、そこには数人の盗賊がいた。粗末な鎧を着込み、刃を光らせ、馬車を襲っている。馬車の護衛はすでに倒れ、必死に抵抗しているのは弓を握った少女ひとりだけだった。
茶色の髪を一つに結び、汗に濡れた額に土がついている。だが、その瞳は鋭く、必死に矢を番えていた。
「弓を捨てろ、小娘!」
盗賊の一人が笑いながら迫る。
カイの足が自然と前に出た。
「やめろ!」
盗賊たちが一斉に振り向いた。
「なんだガキか」
「帰れ。殺されたくなけりゃな」
その瞬間、カイの掌に炎が走った。
紅蓮の光が集まり、剣となる。炎剣が現れると、盗賊たちの顔色が変わった。
「まさか、魔法剣……!」
「こいつ、ただの子供じゃねえ!」
カイは言葉もなく飛び込んだ。剣が弧を描くと、盗賊の刃は砕け、火花が散った。
恐怖に叫ぶ盗賊たち。だが一人が背後から斧を振り下ろす。
「危ない!」
弓の少女が叫び、矢が飛んだ。鋭い一撃が盗賊の肩を射抜き、動きを止める。
「今だ!」
カイは剣を振り抜き、残る盗賊をなぎ払った。炎の光に怯えた彼らは、次々と森の奥へ逃げていった。
静寂が戻る。
カイは荒い息をつき、剣を収めた。炎は消え、ただ焦げた草の匂いが漂った。
少女は矢筒を抱えたまま、じっと彼を見ていた。
「あなた……助けてくれたの?」
「……勝手に戦っただけだ」
ぶっきらぼうに答えるカイ。だが少女は微笑んだ。
「ありがとう。私はリナ。弓を使うの。あなたの名前は?」
「……カイ」
短く答えると、リナはにっこり笑った。
「カイ、か。いい名前だね」
その時、馬車の中から呻き声がした。
カイとリナが駆け寄ると、倒れていた護衛の一人がゆっくりと起き上がった。
大柄な男で、丸刈り頭に僧衣をまとい、額には古い傷跡がある。
「ふむ……まだ生きていたか」
重々しい声でそう呟くと、男は立ち上がった。
「私はオルグ。僧兵だ。盗賊にやられたが、どうやら君たちが助けてくれたらしいな」
リナが笑顔でうなずく。
「この人がいなかったら、私も終わりだった」
カイは少し視線を逸らした。助けたつもりはなかった。ただ、目の前で命が奪われるのを見たくなかっただけだ。
オルグはカイをじっと見つめた。
「その剣……炎を纏っていたな。君、何者だ?」
カイは答えず、ただ黙っていた。
リナが割って入る。
「いいじゃない。命の恩人だよ」
「……ふむ、確かに」
三人の間に、ぎこちない空気が漂った。だが不思議と、そこには温もりもあった。
誰かと共にいる――それはカイにとって初めての感覚だった。
その夜、三人は焚き火を囲んだ。
リナは矢羽根を整え、オルグは祈りを捧げ、カイは黙って火を見つめた。
炎が揺れるたびに、亡き村の記憶が蘇る。だが隣には、二人の声があった。
「カイ、これからどこへ行くの?」
「……決めてない」
「じゃあ、一緒に行かない? 私たちも旅の途中なんだ」
カイは迷った。人と関われば、また災いを呼ぶかもしれない。だが、胸の奥の孤独は、炎よりも冷たく彼を蝕んでいた。
「……好きにすればいい」
短い返事に、リナは嬉しそうに笑った。
「決まり!」
こうして、炎の少年カイは初めて仲間を得た。
紅蓮の刃が導く先には、まだ誰も知らぬ運命が待っている――。
初めての街の灯は、遠目にはまるで宝石のように輝いて見えた。
だが、門をくぐった瞬間、カイの鼻を刺したのは埃と獣の糞と、濁った酒の匂いだった。
「……すごい人」
リナが思わず呟いた。行き交う人々は肩をぶつけ合い、荷車の怒号、商人の値切り声、子供の泣き声が渦を巻いている。
オルグは腕を組み、静かに周囲を眺めた。
「表面だけは繁栄しているが……どこか淀んでいるな」
街の名は〈灰の街バルグ〉。かつて大火に見舞われ、多くの家が焼け落ちた歴史を持つ。その名残か、石造りの建物は煤けており、壁の隙間からは黒い煤が剥がれ落ちていた。
「まずは宿を探そう」
オルグの提案に、三人は中央広場を抜け、酒場兼宿屋に足を踏み入れた。
中は騒然としていた。酔っ払いが歌い、テーブルの上で喧嘩が始まりそうになり、油の匂いと笑い声が混ざり合う。
「ここなら情報は集まりそうね」
リナが目を輝かせ、さっそく耳を澄ませる。
カイは場の雰囲気に馴染めず、壁際に座って黙っていた。
炎の力を隠し通せるほど、ここは静かな場所ではない。
「……騒がしい」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
やがて、彼らのテーブルに影が落ちた。
「おい、お前ら。見ねぇ顔だな」
革鎧に身を包んだならず者風の男たちが数人、にやにや笑いながら立っていた。
「旅の子供にしては、ずいぶんいい剣を持ってるじゃねえか」
彼らの視線はカイの腰に注がれていた。炎剣そのものは隠しているが、ただの鍛錬用の短剣さえ、彼らには目の色を変えさせる。
オルグが低く警告した。
「下がれ。我々は揉め事を望んでいない」
「へっ、坊主風情が口出すな!」
拳が振り上がる。
瞬間、矢羽根の音が響き、テーブルに突き刺さった。
「それ以上やったら、次は額よ」
リナが弓を引き絞っていた。
男たちの顔から血の気が引いた。だがその中の一人がなおも毒づく。
「くそっ、覚えてやがれ!」
吐き捨てて去っていく背中を、酒場の客たちは冷ややかに笑った。
「……厄介を呼んだな」
カイが小さく呟くと、リナは肩をすくめた。
「放っておけば、もっと厄介になってたわ」
オルグは深くため息をつき、卓上の杯を傾けた。
「この街は、力を持つ者が狙われる。ましてや君のような若者はなおさらだ」
「俺は……」
言いかけて、カイは口をつぐんだ。力を持っているのは、短剣ではなく炎の剣だ。だがそれを打ち明けることはできない。
その夜、宿の部屋で三人は床に就いた。
窓の外では酔客の笑い声がまだ響いている。
「ねえカイ」
暗がりで、リナが声をひそめた。
「あなた、何か隠してるでしょ」
心臓が跳ねた。だが次の言葉は柔らかかった。
「無理に言わなくていい。……でも、仲間なんだから、いつかは教えてほしいな」
カイは答えなかった。ただ、胸の奥で炎が静かにざわめいた。
翌日、広場に出ると、街の空気はさらに濁っていた。
飢えた子供がパンをねだり、商人が金貨を奪い合い、兵士たちは賄賂を受け取っていた。
「……これが、この街の現実か」
オルグの声には怒りが滲んでいた。
その時、群衆の中から助けを求める叫びが上がった。
「やめて! 離して!」
見ると、粗末な服の少女が役人に腕を掴まれている。罪状は「無許可の物売り」。だが明らかに因縁をつけて金を巻き上げようとしていた。
カイの視線が鋭くなった。足が勝手に前へ出る。
「やめろ」
役人が振り返り、鼻で笑った。
「なんだ、小僧。正義ごっこなら余所でやれ」
その瞬間、カイの掌に熱が走った。
――いけない。
だが抑えきれず、炎がちらりと灯った。
群衆がざわめく。
「炎……?」
「まさか、あれは……!」
リナとオルグが即座にカイの前に立ちはだかった。
「もう十分だ! 彼女は私が引き取ろう!」
オルグが大声で言い、リナが役人を睨み据える。
渋々と役人は手を放したが、その目には不穏な光が宿っていた。
「……面白い。お上に報告させてもらうぞ」
去っていく背中を見送りながら、カイの胸は重く沈んだ。
力を隠すはずが、また表に出てしまった。
「俺のせいで……」
「違うよ」リナがきっぱりと言った。「あの子を救ったんだから」
オルグも頷いた。
「隠すことは難しいだろう。だが、使い方次第で、君の力は救いにもなる」
カイは拳を握った。炎の子としての運命から逃げられないのなら――せめて、誰かを守るために。
その決意の影で、街は静かにざわめきを広げていた。
「炎を纏う少年が現れた」と。
やがて、その噂は権力者の耳にも届こうとしていた。
翌朝、カイたちの宿に兵士が押しかけてきた。
「炎を操る少年がいると聞いた。市長が会いたがっている」
有無を言わせぬ態度に、三人はそのまま街の政庁へと連行された。
豪奢な椅子に座る市長は、肥え太った中年の男だった。指には金の指輪がいくつも輝き、背後には護衛が控えている。
「聞いたぞ。役人を退け、浮浪児を救ったとか。市民はお前を英雄と呼んでいる」
声は朗々としていたが、その眼差しには冷たい光があった。
「だが……英雄なら、英雄らしく働いてもらわねば困る」
市長は街の地下に広がる迷宮の存在を語った。
古代の遺構がそのまま放置され、近年は魔物の巣窟と化している。兵士たちが討伐を試みるも、多大な犠牲を出すばかり。
「だからこそ、お前たち旅人に白羽の矢を立てたのだ」
「つまり、我々を使い捨てにするつもりか」オルグの声が低く響く。
市長は笑った。「そう言うな。成功すれば褒賞を与えよう。失敗すれば……それまでだ」
カイの胸に怒りがこみ上げた。だがリナが袖を引いた。
「受けるしかない。拒めば、牢に入れられる」
こうして三人は、地下迷宮への探索を命じられた。
迷宮の入口は、街外れの石造りの建物の地下に口を開けていた。
中へ足を踏み入れた瞬間、冷気と腐臭が肌を撫でた。
「……嫌な気配だ」リナが弓を握り締める。
オルグは祈りの言葉を口にし、カイは深く息を吸った。
闇の中、無数の目が光った。
現れたのは、骨と皮ばかりの狼のような魔物だった。
「スケルトン・ハウンド!」リナの矢が唸り、魔物の頭蓋を貫く。
だが数は多い。四方から群れが襲いかかる。
オルグが前に出て棍棒を振るう。
「カイ、背を預けろ!」
カイは短剣で必死に応戦する。金属の擦れる音と咆哮が迷宮に反響した。
数分が永遠のように感じられた。汗が滴り落ち、腕が痺れる。
リナの矢筒はすぐに空になり、オルグの腕も傷だらけだった。
「このままじゃ……!」
カイの視界に、炎が揺らめいた。
心臓が早鐘を打つ。
使えば、また人々に恐れられるかもしれない。だが――仲間が死ぬ姿を見たくはない。
「……守るために!」
叫んだ瞬間、彼の剣に紅蓮の炎が灯った。
轟音と共に、炎が狼たちを薙ぎ払う。
闇を焦がす光に、リナとオルグは一瞬目を見張った。
「カイ……!」
狼たちは次々と灰となり、迷宮の床に崩れ落ちた。
静寂が訪れ、ただ剣先に燃える炎の音だけが響いていた。
カイは肩で息をしながら剣を収めた。炎はすぐに消え、再び暗闇が支配する。
沈黙を破ったのはリナだった。
「やっぱり……あなた、本当に炎を操れるのね」
カイは目を伏せた。「……怖いか?」
「怖くなんかない!」リナは即座に首を振った。「だって、その力で私たちを救ったんだから」
オルグも頷いた。「恐れるのは愚か者だけだ。我々は感謝すべきだろう」
カイの胸に、温かなものが広がった。
生まれて初めて、自分の力を肯定された気がした。
だが迷宮は、まだ奥へと続いている。
遠くから、何か巨大なものが這いずる音が聞こえていた。
試練は、まだ始まったばかりだった。
迷宮を進むほど、空気は重く淀んでいった。
壁に刻まれた古代文字は赤黒く光り、どこからともなく呻き声のような音が響く。
「気を抜くな……ここは試してくるぞ」
オルグの額には汗がにじんでいた。
突如、視界に母の面影が浮かんだ。
「カイ……どうして私を助けなかったの」
幻覚だと分かっていても、心臓が凍りつく。
炎が勝手に掌から溢れ、足元を焦がした。
「しっかりして!」
リナの声が幻を裂き、現実へと引き戻した。
「……ありがとう」カイは唇を噛んだ。
そして、最深部の扉を押し開けた瞬間――空気が変わった。
そこは広大な円形の空間で、床には魔法陣が幾重にも描かれていた。
中心に鎮座していたのは、漆黒の毛並みに覆われた獣。
赤い双眸は闇を裂き、口からは腐臭を帯びた息が漏れていた。
「……あれが《黒き獣》」
オルグが棍棒を構える。
獣は咆哮を上げた。鼓膜を裂くような音が空間を満たし、石壁に亀裂が走る。
次の瞬間、黒い瘴気が弾丸のように放たれた。
「下がって!」リナが矢を射ち、瘴気を裂く。だがすぐに次の波が襲い、三人は散開した。
オルグが前に飛び込み、棍棒で獣の脚を叩く。だが硬い毛皮が衝撃を吸収し、逆に弾き飛ばされた。
「ぐっ……!」
リナの矢も、黒い膜に弾かれて地に落ちた。
「矢が通らない!?」
カイの剣が震えていた。
――このままでは全滅する。
頭の中に、焼け落ちた村の景色がよみがえる。
今度こそ、仲間を失うわけにはいかない。
「……俺は、炎の子じゃない」
カイは呟き、剣を両手で握った。
「俺は……炎の剣士だ!」
炎が轟音と共に迸り、剣を包んだ。
ただ燃えるだけではない。炎は刃となり、渦を巻き、赤い翼のように広がった。
リナが目を見開いた。「……こんな炎、見たことない!」
オルグも呻く。「これが……真の力か」
カイは全身を焦がす熱に耐えながら、獣へと駆けた。
黒き瘴気が襲いかかるが、炎はそれを焼き尽くす。
「うおおおおっ!!」
炎剣が獣の胸を貫いた。
轟音と共に黒煙が爆ぜ、空間が震えた。
獣は最後の咆哮を上げ、やがて崩れ落ちた。
静寂。
炎が消え、ただ焦げた匂いだけが残った。
カイは膝をつき、荒い息を吐いた。
だが、仲間が駆け寄り肩を支えた。
「やった……勝ったのよ」リナの声は震えていた。
オルグは深く頷いた。「この勝利は、お前が導いた」
カイは力なく笑った。
――炎は、呪いじゃない。仲間と共にあれば、希望になる。
しかしその安堵の裏で、迷宮の奥の魔法陣が再び淡く光り始めていた。
黒き獣は倒れたが、その影を操っていた存在は別にいる。
そして、その噂はすぐに地上へ広まり、街を揺るがす火種となるのだった。
迷宮から戻った三人を待っていたのは、市民たちの歓声だった。
「黒き獣を倒した勇者だ!」
「炎の剣士!」
広場は熱狂に包まれ、子供たちがカイの名を叫んだ。
カイは困惑した。あの炎を恐れるはずの人々が、今は笑顔で称えている。
リナがそっと囁いた。「今だけよ。人は勝者には酔うけど、すぐに別の感情に変わる」
オルグは腕を組んで群衆を見渡した。「信じすぎるな。影は必ず光の後に伸びる」
その言葉通り、市庁舎では別の宴が始まっていた。
市長は豪華な席で三人を迎え、杯を掲げた。
「よくぞやった! 街は救われた。お前たちは英雄だ!」
だがその笑顔の裏に潜む計算を、カイは感じ取った。
市長の目は炎の剣に注がれていた。
「特にお前……炎を操る力、まさに神の賜物だ。街のため、いや、この国のために使うべきではないか?」
「国のため……?」カイが眉をひそめる。
市長は続けた。「王国は隣国と緊張状態にある。炎の剣士が一人加われば、勝利は揺るがぬ。英雄として軍に迎え入れよう」
リナがすぐに口を挟んだ。「待って。彼は兵器じゃないわ」
オルグも静かに言った。「力は持ち主の意思に従うもの。権力者の鎖に繋がれるべきではない」
市長の顔がわずかに歪んだ。
「ふむ……若い者は理想を語る。だが、理想だけでは街は守れぬ」
その場は笑顔で終わったが、三人は重苦しい気配を背に感じていた。
その夜。
宿の窓辺で、カイは遠くの広場を眺めていた。まだ人々の歌声が響いている。
「……俺がこの力を持って生まれたのは、やっぱり戦うためなのか」
リナが背後から声をかけた。「違う。あなたは人を救うために戦った。それだけで十分」
「でも、もし俺が兵士として戦えば、もっと多くを救えるかもしれない」
「同時に、多くを焼くことにもなる」リナはきっぱりと言った。「その違いを選ぶのは、あなたよ」
カイは言葉を失った。
オルグは黙って二人を見守り、やがて静かに告げた。
「市長はおそらく動き出す。お前を国に差し出すか、従わせるか。そのどちらかだ」
翌日、噂はさらに広がっていた。
「炎の剣士が王都へ送られるらしい」
「いや、市長が密かに取引していると聞いた」
街角には怪しげな影が増え、彼らを監視する視線をカイも感じ取った。
夜更け、宿の廊下に忍び寄る黒装束の影。
刃が閃いた瞬間、カイは反射的に炎を放った。
暗殺者は悲鳴を上げ、闇に消えた。
「やっぱり……利用するだけじゃなく、口封じも考えているのね」
リナが唇を噛む。
オルグは深く息を吐いた。「街そのものが牢獄になりつつある。早く決断せねばならん」
カイは拳を握った。
「俺は……操り人形にはならない」
その瞳には、再び紅蓮の炎が宿っていた。
だが同時に、街を覆う陰謀の網がじわじわと狭まっていくのを、三人はまだ知らなかった。
翌朝。
市庁舎の広間に呼び出されたカイたちは、重々しい空気に包まれていた。
豪奢な椅子に座る市長は、昨日までの柔和な笑顔を消し、冷たく告げる。
「決まった。炎の剣士カイを王都へ送り出す。これは街と国の未来のためだ」
広間に沈黙が落ちた。
カイは拳を握りしめた。
「俺の意思は関係ないのか?」
市長は目を細める。「英雄の意思など些末なものだ。民のため、国のために犠牲となれ」
リナが一歩前に出る。「それは強制よ。あなたたちは彼を利用するだけ」
オルグも低く唸った。「街を守るために戦った若者を、今度は国の戦に投げ込むか。恥を知れ」
その瞬間、広間の扉が重々しく閉ざされた。
四方から現れる兵士たち。鋼の鎧に身を包み、剣を構えている。
さらに、天井の梁から黒装束の影が滑り降りた。
市長の声が響く。
「従えば英雄、拒めば反逆者。選ぶがいい」
カイの中に熱が込み上げた。
「……だったら俺は反逆者でいい!」
紅蓮の炎が剣を包み、広間を照らした。
兵士たちがたじろぐ。
リナは即座に矢をつがえ、黒装束の腕を射抜いた。悲鳴が響く。
オルグは棍を振り下ろし、床を砕いて兵士を薙ぎ払った。
広間は戦場と化した。
炎の軌跡が舞い、矢が閃き、棍が骨を砕く。
だが数は圧倒的に敵が多い。
「カイ、出口へ!」リナが叫ぶ。
「うむ、ここは退くべき時だ!」オルグが道を切り開く。
三人は背を合わせ、少しずつ後退した。
だが市長は余裕の笑みを浮かべたまま、兵士を操る。
「逃がすと思うか? 街中に手を回してある。外はすでに包囲されているのだ」
カイの炎が大きく燃え上がった。
「だったら、俺たちは炎で道を作る!」
市庁舎の扉を蹴破ると、外には待ち構えた兵の列。
リナが矢を雨のように放ち、オルグが轟音とともに地面を打ち砕く。
その隙にカイが炎の奔流を放ち、兵の壁を焼き崩した。
「こっちだ!」
三人は裏路地へと駆け込んだ。
追撃の足音が響く。
黒装束の暗殺者が屋根から飛び降り、刃を振り下ろした。
カイは炎の剣で受け止め、火花を散らす。
「退けぇっ!」
剣が爆ぜ、暗殺者を吹き飛ばした。
夜の街を駆け抜け、城壁の影にたどり着いた。
兵士の松明が迫ってくる。
リナが弓を握り締めた。「ここで突破するしかない」
オルグは低く頷く。「壁を壊すぞ。カイ、力を貸せ」
カイは深く息を吸い込み、炎を剣に集中させた。
「紅蓮――解き放て!」
轟音とともに炎が壁を裂き、石が砕け散った。
風が流れ込み、夜空が広がる。
「行け!」
三人は瓦礫を飛び越え、闇の草原へと駆け出した。
背後から警鐘が鳴り響く。
街は炎と怒号に包まれていく。
走りながら、カイは振り返った。
人々の歓声に迎えられた街が、今や敵の牙を剥いている。
胸に重苦しい痛みが走る。
リナが並走しながら言った。
「後悔しないで。これは、あの人たちが選んだことよ」
オルグも叫ぶ。「道を誤るな、カイ! 炎はお前のものだ!」
カイは強く頷いた。
「俺は……俺の意志で、この炎を振るう!」
闇を裂いて駆ける三人の影。
それは新たな旅立ちの狼煙であり、街の陰謀からの決別だった。
荒野を駆け抜け、三人はようやく追手の気配を振り切った。
夜風が熱を冷まし、遠くで犬の遠吠えが響いている。
息を切らしながら崖下の洞窟に身を潜めると、ようやく静寂が訪れた。
カイは壁に背を預け、荒い呼吸を整えた。
「……あんな街だったなんて」
胸に浮かぶのは、市民の歓声と、市長の冷笑が交錯する光景だった。
リナが焚き火に小さな火を灯した。
「人は弱いの。だから力あるものに縋りつくし、同時に恐れる」
彼女の声は冷たさを含んでいたが、その瞳には憐れみがあった。
オルグは棍をそばに置き、静かに座った。
「カイ、お前は己を責めるな。街が選んだのは鎖に繋がれた未来だ。我らが選ぶのは、自由の炎だ」
火の揺らめきの中、三人はしばらく沈黙した。
やがてカイが口を開いた。
「……俺は、ずっと迷ってた。俺の炎は人を焼くだけの呪いじゃないかって」
リナが顔を上げた。
「違う。あなたは人を救った。あの迷宮で、あの街で、確かに命を救った」
オルグも低く響く声で言った。
「炎は刃にも灯火にもなる。選ぶのは己の意志だ」
カイは拳を握り、焚き火を見つめた。
「なら俺は、決める。俺の炎は兵器じゃない。誰かを縛るものでもない。俺は――守るためにこの炎を振るう!」
その言葉は、洞窟の石壁に反響し、炎が応えるように揺れた。
リナが微笑んだ。
「なら、私はその炎を支える矢になる。あなたの背を撃たせないために、私は放ち続ける」
オルグは大きな手を差し出した。
「そして我は盾となろう。炎が尽きぬよう、その身を張って守る」
カイは二人の手に自分の手を重ねた。
「……ありがとう。俺は一人じゃない」
三人の手が重なった瞬間、焚き火が紅蓮の光を放ち、洞窟の闇を照らし出した。
まるでその誓いに応えるように、夜空の彼方で流星がひとすじ走った。
夜が明け始めた。
洞窟を出ると、地平線が白み、朝日が荒野を染めていた。
冷たい風に頬を撫でられながら、三人は並んで立った。
カイが剣を掲げる。
「俺たちの旅は、ここから始まる」
リナが矢筒を叩いた。
「どんな敵が来ても撃ち抜くわ」
オルグが棍を担ぎ上げた。
「何度でも立ち塞がろう」
三人の影が、朝日に長く伸びていく。
紅蓮の炎に誓ったその決意は、まだ小さな灯火にすぎなかった。
だが、それはやがて大陸を揺るがす大いなる炎となる。
――こうして、「紅蓮の誓い」は結ばれた。
英雄譚の幕は、まだ始まったばかりだった。