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太陽との邂逅 中編



 太陽の瞳を持った奇妙な少年と出会ってから、数日後のこと。

 

 献本が絶えることはなく、今日も今日とて宗教思想研究室にはぼろぼろの本が納められている。もちろん、破損のない綺麗な本はゼロである。彼が手ずから持って来た例の本だけが唯一()()で、修繕が終わった今もなお、ギンダの机に置かれていた。

 

 そもそも、宗教思想研究室に配達物が直接来ることはない。他の研究室には必ず来る配達員が、わざと避けているのだ。だから、外部からの配達物を一手に集める郵便局にギンダ自身がいかなければ本を受け取ることすらできない。

 世界一の学術都市なら職務怠慢はあってはならないのでは、と思ったこともあったが、人の数にも知名度にも関係なく、忖度(そんたく)は存在するようだ。

 

 職務怠慢どころか仕事の妨害すらする局員、局員の怠慢を見て見ぬふりをする郵便局――ギンダが無碍(むげ)にされることに慣れるのはあっという間であった。それでも、やはり思うところはある。ギンダだって人間だ。

 だから、例の彼からもらった本は、真っ白なキャンバスに鮮やかな色を落としたように、ギンダの世界でしばらく輝いていた。

 

 いつも通り郵便局で本を受け取って書庫に戻る道すがら、ギンダは嘲る視線を思い出す。胸に抱いたぼろぼろの新しい献本はずしりと重かったが、胸に宿した色彩のおかげでいつもより身体が軽い。通りすがりの通行人に何度も侮蔑の目を向けられるものの、それすら気にならなかった。

 

 年中雪に包まれたベトルグロッサの街は、人の往来が絶えることはなく、ギンダが出歩くだけでも、人目についてしまう。狭い岩場に増築を重ね、箱が乱雑に積み上がったような奇妙な建物が建ち並ぶ通りが本棚のようでなければ、きっと外を歩くことすら嫌になっていただろう。そこかしこで人が溢れ、商売や研究、論に勤しむ様は、まさに学術都市の名を冠するだけあった。(わず)かに開いた扉の隙間からは立派な書庫が垣間見え、棚に並べられた本の美しい背表紙が誇らしげに輝いている。ギンダは時折聞こえる歓声や規則正しい掛け声に耳を澄ませ、そっと人の波を避けてはその場を離れた。

 

 岩山に生えた塔に合わせて無理矢理建てられたこの街は、登ったり降ったり、橋を渡ったりと、とにかく歩きにくい。塔を中心に、五芒星のように区画が分かれてはいるものの、神の座す地を整地するなど許されることではない。自然を間借りするように建物を建築してなんとか神の地で生きていけるようになったが、人が多いせいか、狭い岩山で事故の起きない日はなかった。ギンダなんてよく転ぶ。そのせいで、疎ましげな目も倍増である。いつしか人の波を避け、人の目につかないように歩くようになっていた。

 

 だが、人の波を避けて書庫への道を歩いているはずなのに、今日は声がいよいよ近づいてきている。

 どうやら五芒星の中心、各学部の区画に繋がる広場に人が集まっているようだ。徐々に人が増え、歩くどころか立ち止まる人すらいる。人が多ければ多いほどギンダを疎む目は増えるのに、必ず通らなければいけない場所に人が集まっているとは、一体何が起こっているというのだろうか。

 

 人の壁をなんとかすり抜け、広場の端にある崖の淵に足を進めたギンガは、ようやく見えたものに目をすわらせた。

 

「我らの神以外は悪魔であるッ! 即刻その身を清め、我らの神に平伏せよォッ!」

「我が信仰を愚弄するかッ! 貴様らこそ悪魔の集団ではないか!」

「神を信じよ、神を信じよ――」

 

 この街ではなんてことない、ただの宗教戦争の欠片が落ちていただけであった。

 

 国が違えば信じるモノも違う。当然である。誰もが同じモノを信じているわけではなく、縋るモノも、その深さも、千差万別なのだから。

 

 神は唯一でありながら、世界で唯一の存在ではない。

 救いは万人に与えられながら、万人に救いとは認められない。

 

 人にとって当たり前のように存在する矛盾が、神という超常的存在にも存在するのは、人が見出した存在故だろうか。だが、矛盾のせいか、その在り方のせいか、はたまた己の信じる神が存在することを切に願う人の祈りのせいか、異なる信仰の間で争いが起こることも当然の成り行きであった。

 

 そんな世界に、神の座す地があるのだ。どんな人間であろうと、この地だけは()が座すのだと、直感的に理解できる。見れば分かる。天を貫く塔は人間の所業ではない。ギンダですら、()()がいる、()()があったのだと確信している。何かは分からない。だが、そういうものに信仰が集まるのも事実である。

 結果として、信仰の争いもまた、この地に集まっていた。

 

 とはいえ、厄介な状況である。

 このままでは書庫に戻れない。人の波を逃れようとも広場のどこにも隙間はなく、進めば弾かれて崖から落ちてしまうだろう。例の少年のような身軽さがあれば、人の合間を()って広場から出られたかもしれないが、生憎(あいにく)ギンダは彼と比べるまでもなく鈍臭かった。彼の真似をすれば、崖下に真っ逆さまに落下するに違いない。

 

 ふと彼を想って緩んだ唇が、冷たい呼気でかさついた。この街で笑うことなど数えるほどもなかったから頬を(つね)り、夢か(うつつ)か確かめる。(うつつ)だったことに自分でも驚き、(おもむろ)に天を仰いだ。

 

「あ」

「……え、この前の」

 

 偶然という言葉では聞こえがいい。太陽を宿した少年がモノクロの空を背負い、広場に建つ柱の上に座っていたのだ。これは己の願望なのではないか。そう思うほどに、再会は鮮烈であった。

 

 だが、やはり状況が悪かった。

 幾重もの人の波が集まる広場で崖の淵に立っていたギンダは、一瞬たりとも気を緩めてはいけなかったのだ。

 

 始まりは、とん、という軽い音であった。

 それが何の音か、ギンダはふわりと身体が宙に浮いてから気付いた。誰かの身体がぶつかったのだ。気を抜いたギンダの身体はあっけなく傾き、いつの間にか崖に放り出されている。内臓が揺れ、肺を満たしていた空気が口から細切れに(こぼ)れていく。身体の自由が奪われ、重しをつけたように頭が重かった。

 

「――ッ」

 

 ああ、落下しているのか。

 見開かれた彼の瞳孔を見て、ギンダはどこか他人事のように思った。

 最早(もはや)、彼の声すら聞こえない。伸ばされた手を握る余裕もなく、ギンダは落ちていた。

 

 お礼くらい、言いたかったな。

 

 ギンダはふと浮かんだ感情に目を細めた。

 だが、次の瞬間目を見開くことになる。彼は伸ばした手が握られないと知るがいなや、柱からギンダの下へ飛び降りたのだ。

 

 ありえない。死ぬ気なのか。

 

 声も出ない口がぱくぱくと閉じては開き、彼に訴えかける。それでも、空を切った手は今度こそしっかりと結ばれ、同じ目線に落ちてきた太陽は死を目前にしても輝いていた。

 どうしてと問う間もない。崖に生えた木々や茂みが目前に迫る。重力をいなし、鋭い枝から身体を必死で守った。傷だらけになりながら転がり、吹き飛ばされ、行き着いた先は小さな池。いつの間にか水の中に落とされ、意外にも深いのだなと思った時にようやく、まだ自分が生きていることに気付いた。(よど)みに目を凝らせば、崩れて穴の開いた何かの壁面が見える。

 藻が散り、暗く冷たい水の中、眠るのも悪くない――だが、襟首を誰かに掴まれて水の中から引き上げられたら、そんな気はどこかに消えてしまった。

 

「おい、大丈夫か⁉︎」

「げほっ……だ、大丈夫」

「待ってろ、すぐ火を起こすから。それから手当だ。枝が刺さらなくてよかったが、このままだと凍傷になるな――」

 

 彼が目の前で矢継ぎ早に言葉を紡いでいる。

 ああ、彼もまた生きているのだ。よかった――

 気づけば、ギンダは無我夢中で薪になる枝葉を探していた。




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