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太陽との邂逅 前編


 

 形のないものに命が芽吹く瞬間があるとしたら、名前を得た時だろう。

 

 記憶、感情、思念。

 そういう朧げで、煙が立つまでもなく消えてしまうものが、名前を手に入れた瞬間に熱を(みなぎ)らせて動き出す。光あれと名を与えれば世界に光が溢れ、同種の生物に生じた形質の違いを雌雄(しゆう)と区別すれば、命の営みが生まれるのだ。名は力であり、役目であり、命なのだろう。

 

 ギンダの場合、『心学部附属書庫 哲学科 宗教思想研究室 司書』という、何とも仰々しい名前が役目であった。

 

 しかし、今はそんな名前なんてどうでもいい。

 ギンダは暇を持て余していた。古びた書庫にて、頭上の高窓から机の上に舞い落ちる雪の影を眺めて、はや数分。時間が過ぎるのは早いものだ。

 

 ああ、暇である。

 厳密に言えば暇ではないが、()なのだ。暇だと思いたい。そう思わなければやっていられなかった。それもこれも、ギンダの目の前に積み上がった本が原因である。

 どの本も埃や屑、繊維の切れ端だらけ。誰がどう扱えばこのような有り様になるのか、叶うならば小一時間問い詰めたい。今か今かと修繕を待っている本をチラリと横目で見ては溜め息が止まらなかった。こんなに傷んでいても、新しい献本なのだ。やるせない。

 

 だが、この書庫ではいつものことであった。無人の書庫に並べられた本はどれも継ぎ接ぎや()みだらけで、綺麗なものはない。今回もやはり強敵なのだろうと、ギンダは山の一番上に積まれた本を恐る恐る開いたが、案の定落書きや正体不明の()みを見つけてしまい、思わず重苦しい息を吐いた。

 

「はぁ——人手が足りない」

 

 天井に潜んでいた埃が、嫌味なほどにほろほろと舞い落ちる。

 世界一の学術都市であるこの街——ベトルグロッサでは、司書の仕事が尽きることはない。書庫の管理はもちろん、研究や公衆への周知など、やることは星の数だけあると言っても過言ではなく、立派な書庫で司書があくせく働くというのがベトルグロッサのよくある景色である。

 だが、ギンダの書庫は、いや、ギンダのいる書庫()()はどこも埃を被って閑散としており、ギンダの仕事もまた献本の修繕だけであった。唯一、毎日使っている机は埃と無縁であったが、それもまた年季のせいか、廃材にしか見えぬほど薄汚れている。目の端に散らつく(くす)んだ銀髪も相まって、煤、埃、煙と、ギンダの世界はモノクロであった。

 

「……信じるものは誰だって違うのに、どうしてこんなに世界が違うんだろう」

 

 ポツリと呟いた言葉は、思いの外大きく響いた。

 空気に溶けて消えてしまえばよかったのに、埃のせいかよく馴染まなかった。


 ************


 世界一の学術都市、ベトルグロッサ。

 

 世界中どこを探しても、この名を知らない者はいないだろう。その特異な由来と、脈々と伝わる知識の遺産ゆえに、国を問わず重要視され、誰もがこの地を知っていた。

 

 ベトルグロッサの由来は天地創造まで(さかのぼ)る。

 天地創造——それは、人が知恵を用いて世界に広がり、ありとあらゆる学問が発展してもなお、興味を惹きつける事象である。

 この空と大地は、どこから来たのか。

 生物が享受しているこの恵みや、命を容赦なく奪う災害は、何がもたらしているのか。

 無から有は生まれない。何か源流となる存在があるはずだと、人が考えだすのはそう遅くはなかった。そして、大いなる存在——『神』が世界の存在証明に必要であると、人は結論付けたのだ。

 

 この世界は全て、『神』の創り賜うし楽園である。

 海や大地の肥沃さや、刻々と移ろう空、生物の生き死にすら、人の理解の範疇(はんちゅう)を超えて美しい。そんな美しいものたちが時代を経るごとに変遷(へんせん)し、空に劣らぬ移ろいを見せるとしたら、これほど儚く惜しいものはない。

 神がいないとしたら、我々は何を信じて生きれば良いのだろう。

 

 そして、人は神を信じた。神を讃えた。神の創りし世界を愛した。信じ愛するものを讃え、保存するものを建造しようと欲したのだ。

 塔の先が天まで届き、神と神の創りしものを讃える、塔を作ろう——

 その塔が完成したのかどうかは、誰も知らない。だが、雪深い岩山から天を貫くように生え、空の果てまで続いて天辺の見えぬ塔を眺める限りでは、失敗もしていないのだろう。そして、生き物が生きるには険しい地ながら、いつしか塔を囲むように都市が築かれた。

 これこそが、ベトルグロッサの起源であり、特別な扱いをされる所以(ゆえん)であった。

 

 人が大地に広がって幾多の国に分たれ、学問が進んだ今もなお、塔は神の住まう地として崇められ、禁足地として管理されている。当然、世界の文明全てを保存することを主命としたベトルグロッサもまた、唯一無二の学術都市として人々を魅了した。ベトルグロッサに据え置かれた五つの学部――言語や歴史を司る史学、科学や工学を司る技学、情報や政を司る法学、音楽など芸事を司る芸学、そして教育や心理を司る心学――のいずれかにおいて研究することこそ、知識人の(ほまれ)であった。

 神は誰にも縛られない。ゆえに、ベトルグロッサは世界のどの国の領土にも属さない。独自の法の下に独自の経済を回すおかげで、終始研究費の工面に頭を悩まされる他の学府と比べ、(いささ)か過剰な程の資金力を有していることもまた、魅力の一つかもしれない。

 

 しかし、あらゆる意味で世界一の学府であっても、やはり好まれやすい学問というものがあり、好まれるどころか、社会的に淘汰(とうた)されつつあるのがギンダのいる宗教思想研究であった。そもそも、神の存在が当たり前に信じられているこの世界において、神の意思や存在を理論立てて追求する宗教思想研究なんてものは、本来あってはならない学問なのである。異端中の異端である。

 ゆえに、宗教思想研究室の人員はギンダ以外に数名しかいなかった。とはいえ、手伝いと称して保存すべき書物を落丁させる輩しかいないから、ゴーストの方がマシなのかもしれない。

 

 彼らにとって、神を研究する者は異端者であり、憎悪の対象なのだ。


 ************


 一枚、また一枚と、ギンダは慎重に(ぺーじ)を捲る。

 

 端の欠けた(ぺーじ)()みは何とか修繕できるが、落丁なんてあった時には新たに本を取り寄せなければならない。道中の事故による破損はもちろん、人為的なものもまた当然のようにある。パズルのピースのように同じ本を数冊突き合わせ、なんとか一冊の本を造り上げることなどよくあることで、今や驚きもしない。それでもやるせない気持ちはどうしても(くすぶ)るのだ。

 ギンダの修繕技術が磨かれたのは当然の帰結であったが、皮肉とも言えるだろう。他学部から依頼がくるほどの腕前に、何度ため息をついたことか。まあ、書庫に依頼者が来たことはないのだが。

 

 『宗教思想なぞ、悪魔の学問である。そんなものが存在するなど許せるわけがない。だが、確かに修繕技術は素晴らしい。その技術、活かしてあげてもいい。書物は大事だ、報酬はたんまりと出そうじゃないか。君のところでは到底手に入れることができないのだろう?』

 

 そんな調子で依頼してくるのだから、実に腹立たしい。初めて言われた時には目を丸くした。

 

 確かに、嫌われ者の宗教思想研究室の予算は雀の涙である。他の学府では予算すら与えられず潰れていくことが常だから、予算が当てられるだけ助かったが、困っていることに変わりはない。

 金がなければ、研究どころか生きることも難しいのだ。なんとも世知辛い世の中である。皮肉と嫌味のかわりに金がもらえるなら、どんなに邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)な依頼主であろうと我慢せざるを得なかった。

 

「本当、嫌なヤツら……」

「ふぅん、ソレをずたずたに壊したから?」

 

 不意に頭上から声が降ってきた。ギンダ以外無人の書庫、しかも壁を背にして机に掛けているギンダの上である。

 

 呆気に取られて見上げると、灰混じりの長い黒髪を一本の三つ編みにまとめて肩に垂らした少年が、窓に頬杖をついてこちらを眺めていた。

 相当高い位置に窓があるはずだが、自力で登ったのだろうか。雪国ではあまり見ない薄茶の健康的な肌が霜焼けで赤く染まり、着込んだ厚手のコートに霜がついて固まっている。だが、窓まで登った手段や少年の容姿よりも、ギンダは彼の瞳に釘付けにされた。

 

 ベトルグロッサで生きる者ならばほとんど見る機会のない蒼天(そうてん)に、ぽっかりと浮かぶ金の穴。

 まるで太陽のような瞳が、頭上に浮かんでいたのだ。

 

「は——」

「あ、ちょっと待って。ここだと聞こえにくいから降りるわ」

 

 いつの間にか開けられていた頭上の窓を器用に超え、少年は音もなく書庫の床に着地する。彼の背負い袋の方が煩かったぐらいだ。彼はぐいと腰を伸ばすと、ギンダのそばに置かれた椅子を指差し、「座っていい?」と尋ねてきた。

 

「あ、うん、どうぞ……」

「助かる、外寒くてさ。足も限界がきていたんだ。雪国っていうのは厳しい場所なんだな」

「慣れたら、案外気にならない」

「へえ」と少年は目を丸くし、ギンダの上から下までじろじろと眺めた。

「確かにアンタ、雪の精みたいだもんな」

 

 覗き込むようにぐいと近づいてきた太陽の瞳に、ギンダの顔が映りこむ。

 白い肌、顎下で切り揃えた癖のある銀髪、灰褐色の瞳等と彩度の低い少年の顔は、太陽に照らされたせいか幾分か血色よく見えた。

 しかし、そんなことより、少年は何を言ったのか。

 雪の精。

 そんな——

 

「そんな摩訶不思議生命体——」

 

 今まで受けたことのない言葉にギンダは面食らった。

 ギンダは宗教思想研究室にいなくとも、雪のような見た目のせいで見失われやすく、疎まれがちであった。

 雪の白に溶け込みすぎるのだ。

 雪山で見失ってしまえば、ギンダも捜索者も死にかねない。誰も自分を犠牲にしてまで誰かと共にいたいわけではないのだ。見た目も、研究領域も疎ましいとくれば、好き好んでギンダに近付くような変人はいなかった。

 

 そのギンダが、恐らく褒められた。

 褒められ慣れていないギンダは、慌てた。それはもう、初めて破損した本を目にした時以上に慌てた。

 

 人間、慌てると突拍子もないことをするものである。

 ギンダの場合、頭の中で最も手前にあった引き出しを漁り、言葉を投げつけるという反応に収まったのは不幸中の幸いだったのだろう。しかし、その引き出しの中身が問題であった。世界が憎む宗教思想、ひいてはギンダの個人的見解しか詰まっていなかったのだ。

 

 きっと途轍もない罵詈雑言が返ってくる。どんなに穏やかな人でも豹変(ひょうへん)するのだ。手が出なければ良い方だが、ギンダの経験上それはあり得なかった。

 素早く目を伏せる。耐えていればいつか終わる。ギンダは静かに待っていたが、降って来たのは予想だにしない言葉であった。

 

「そう! 不思議な存在なんだよ! ()()()絶対面白い!」

「は——」

 

 頬を染め、わが意を得たりと少年は目を輝かせた。

 

「皆、神や天使、精霊を信じて讃えているのに、身近なものとして考えようとしないんだ。世界が違うとか、次元が違うとか……」

「……それは、そうだよ。神サマは、絶対的な存在。僕らのような小さな生き物と同じだなんて、不敬でしょ」

 

 普段頭ごなしに言われている他学部の主張をギンダは一句一句、丁寧に吐き出した。二度目は引き出しを間違えなかった。だが、いつもであれば心の隅をちくりと(つね)るような痛みが走るのに対して、今日はざわざわとした不快感が喉に引っかかる。少年の言葉が信じられないせいだろう。まるで、神を信じていながら、自然に向き合うような身軽さを持ち合わせていた。むしろ信じていないのかもしれない。それほどに身軽であった。

 

 だが、この世界はそんな考え方で生きていけるほど寛容ではない。

 出る杭は打たれ、異端はすり潰される。陰で生きていても、無理矢理()き出されては(あぶ)られるのだ。異端に属する者は何人(なんぴと)も影を(まと)わずにはいられない。それほどまでに多数者の正義というものは陰湿なのだ。

 それなのに、少年の言葉には影がないことが不思議で仕方ない。

 

「そうかなぁ」と少年はぽそりと呟いた。ギンダの手元の本を触れた彼の手はささくれや焦跡が目立ち、コートに隠れていた手首には傷跡も見える。

 この少年もまた、すり潰される側なのに。

 

「そんなに心が狭いヒトじゃないと思うけど――」

 

 ヒト。

 ギンダは唖然(あぜん)とした。

 超常的存在をヒトと表すなんて、この世界では異端中の異端である。それこそ、宗教思想研究以上に。すり潰される彼が、すり潰されてもなお主張することに信じられなかった。

 

「君……」

「あっ、いけね。配達の途中だったの忘れてた。ここ、宗教思想研究室だろ? これ、アンタ宛」

 

 ふと気付いたのか、少年は慌てたように背負い袋を漁る。多くはない持ち物の中から少年が取り出した物は、若干薄汚れてはいるものの比較的綺麗な数冊の本であった。

 

「これ、保存用の献本だろ? (ぺーじ)を破こうとしている奴がいたから、代わったんだ!」

 

 歯を出して笑った少年はすっと立ち上がり、書庫の扉へ駆け寄る。

 

「またな!」

 

 重苦しい扉が狭く開いては閉じ、ギンダはまた書庫に一人残された。

 夕立のような少年であった。

 手の中には少年から受け取った本があり、まだ暖かい。本を開くと、破れかけた(ぺーじ)が数枚あり、汚れは目立つものの、どの本も一冊で修繕が事足りるものばかりである。

 

「なるほど、だから……」

 

『ふぅん、ソレをずたずたに壊したから?』

 

 少年の真っ直ぐな太陽の瞳を思い出し、ギンダは本の背表紙を撫でた。

 もう出会うことはないかもしれない。

 この街は広く、人の数は桁違いである。定職についていても、どこかに所属していても、顔と名前が一致する人は少ない。

 だが、またどこかで会えることを期待する自分がいることに、ギンダは(ほの)かな暖かさを覚えていた。



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