5 エリフィスの悩み
エリフィスは真剣に悩んでいた。
ラース侯爵家にて使用人として働くエリフィスは、元は平民である。それも、平民の中でも特に貧しい最下層の出身で、自分の名さえ知らなかった。
とある事件を切っ掛けにラース侯爵家に拾われることになり、ようやく人並みに暮らせるようになったが、彼はこの幸運に甘んじることなく、日々、努力を続けている。
侯爵領邸に来たばかりのエリフィスは、ガリガリにやせ細り、顔色も悪くマナーの一つも知らなかったが、栄養が行き届き、規則正しい生活と教育を受けるようになると、生来の顔の良さと優秀さも相まって、あっという間に洗練された紳士に生まれ変わった。魔術の才能に恵まれているのにそれを鼻にかける事無く謙虚で控えめな性格は、老若男女を問わず好かれていた。
そんなエリフィスが悩まし気に溜息を吐くものだから、領主邸のメイドや侍女たちは色めき立った。免疫のない年若いメイドの中には、エリフィスの色香に当てられて、気を失う者まで出る始末だ。
「おい、エリフィス。何をそんなに悩まし気なため息ばかりついているんだ」
見かねた同僚のトムが、呆れたようにエリフィスに声を掛ける。トムはエリフィスが侯爵領邸に来たばかりの頃、彼の指導員として世話をしていたため、他の使用人に比べて気安い仲である。ちなみに、指導員はエリフィスが優秀過ぎてあっという間に必要なくなったのだが。
「トムさん……」
エリフィスの翡翠の瞳がトムをじっと見つめる。まだ青年というには線の細いエリフィスに潤んだ瞳で見つめられ、トムは一瞬、身体が妙に高ぶるのを感じて目を逸らした。自分を見失いそうになって、慌てて首を振って正気を取り戻す。いくらエリフィスが綺麗な顔をしているからって、トキメクのはおかしいだろう。
「その妙な色気をしまえ! これ以上被害者を増やすんじゃねぇよ!」
「……?」
こてんと首を傾げるエリフィスに、どこからともなく声にならない悲鳴が聞こえた。大方、隠れてのぞき見をしている使用人たちのものだろう。
「悩みはなんだ? 聞いてやるからさっさと白状しろ。そしてさっさと元の無表情に戻れ!」
いつもはもっと愛想よくしろとか、他の使用人とも積極的に交流しろと口うるさいトムにそんな事を言われ、エリフィスはますます首を傾げたが、人付き合いの得意なトムならエリフィスの悩みも解決できるかもしれないと、素直に相談することにした。
「実は、エリスお嬢様の事で……」
「ちょっとまて! その話題はヤバイ。万が一にもお前の恋愛相談にのったなんてバレたら、あの人に殺される」
トムは驚くほどの素早さでエリフィスの口を塞ぎ、早口でまくし立てた。その間も、目は忙しなく周囲に向けられている。もちろん、お嬢様に全てを捧げ切っている自称専属執事を警戒しての事だった。
だがエリフィスはは、そんなトムを安心させるように微笑んだ。
「駄犬の事など気にする必要はありませんよ。問題があれば私が始末します」
「筆頭執事様も同じことを仰っていたけど、怖いからやめて。俺はまだ世界の終わりなんてみたくない!」
トムの必死の願いに、エリフィスは渋々引き下がった。先手必勝でこちらから仕掛けて殺ることも想定していたのに、残念でならない。
「……恋愛相談ではありませんよ。私が悩んでいるのは、エリスお嬢様をどうお呼びしたらよろしいのか悩んでいたんです」
「……エリスお嬢様でいいんじゃねぇか?」
使用人の身からすれば逆にそれ以外の呼び方などあるのだろうかとトムは首を傾げるが、いろいろと拗らせたエリフィスには、その答えでは足りなかったようだ。
「そんな誰もが安易に思いつく平凡極まりない呼び名はあの方に相応しくありません。あの方は私にとって女神と同格、いえ、それ以上の存在。何よりも軽々しくも名をお呼びするなど、私には恐れ多くっ」
平凡極まりない呼び方で悪かったなと思いながらも、トムにはエリフィスの言う事が、なんとなくわかる気がした。トムはさほど関りがないが、それでもエリスお嬢様の話は嫌というほど耳に入る。このラース侯爵領邸のクソ厳しい教師陣が、口を揃えて天才だと評し、幼くしてほぼ必要な教育を身に着け、最近では侯爵領の仕事にも携わっているとか。見た目は可愛らしい子どもだというのに、やることなすこと規格外だとか。
エリスの兄ハリーも同じく天才だとか鬼才だとか絶賛されていたので、さすが侯爵家の血筋とは優秀なものだと、凡人のトムは思ったものだ。
そんなラース侯爵家の非凡さを考えれば、エリフィスの気持ちは分からないでもないが、物事を深く考えるのは苦手なトムは早々に面倒臭くなった。
「女神様とか、ご主人様とか呼べばいいじゃないか」
「『女神様』とお呼びするのは、神殿に対して不敬だからとエリスお嬢様に直々に禁止されました。同じく『ご主人様』も、本来ならばラース侯爵様を指す言葉だと……」
もうエリス様本人に提案して却下されているのかよとか、じゃあやっぱりエリスお嬢様でいいじゃないかとか、トムは本格的に面倒になったが、心底悩んでいる様子のエリフィスを突き放すのは非情といえるだろう。一応、元指導員なのだ。悩める後輩には先輩として手を差し伸べてやらねばならない。
「それじゃあ、うーん。あ、ほら、図書室のじーさんなら物知りだから、何かいい案があるかもしれないぞ」
トムはあっさりと相談役を放棄した。いや、これは放棄ではない。より良い相談相手を紹介したのだ。図書館のじーさんならこんな面倒な相談事にはうってつけだ。適材適所である。
「確かに。モルト老なら良い案があるかもしれませんね」
後輩の目が冷えているのを、トムは全力で気づかないふりをした。だって面倒だし。
◇◇◇
ラース侯爵領邸の図書室は名物が二つある。
一つはその蔵書量。王都の侯爵領邸には劣るものの、地方の領地にしては品ぞろえが充実しており、その蔵書量は国立の図書館にも匹敵する。ラース侯爵家は人材育成に力を入れているため、教育に必要な設備への投資は金を惜しまないためというのが表向きの理由であるが、実際は代々研究者気質のラース家の者たちが、好き勝手に本を買い漁ったためにこの膨大な本の量になったと言われている。地位や名誉どころか豪奢な生活にも興味のないラース侯爵家であるが、『研究』への浪費は惜しみないのだ。その浪費を上回る『成果』を齎すのだから、誰からも文句が出た事は無い。
そんな、代々の当主が無計画に収集した本たちは、図書室で管理されているのだが、侯爵家で働く使用人たち同様、図書館で働く者も優秀だ。その際たるは図書室の管理を一手に任されているモルト老である。いつもニコニコと笑っている老人だが、図書室の膨大な本を全て把握しており、教師たちからの課題に苦しむ若人をそっと手助けしてくれる。実は人間ではなく図書館の精霊ではとささやかれるほど慈悲深く優しい老人なのだが、本を粗雑に扱う輩には容赦がない。
昔、書架の上の棚にあった本を梯子を使って取り、ぽいっと机に向かって投げ置いた者がいたそうだ。モルト老は本を投げ置いた者を殴り倒し、足首を縄で括って侯爵領邸の3階の窓から吊るした。投げ置かれた本の恐怖を味わえと、いつものニコニコ顔で告げた姿は大層恐ろしく、目撃した誰もがモルト老を止める事は出来なかったという。『図書室の妖精は、決して怒らせてはいけない』という教訓を皆に植え付けた出来事だった。
そんな、図書室の名物の一つであるモルト老に、エリフィスは素直に自分の悩みを相談した。
図書室はもちろん飲食厳禁であるが、図書室内に設えられたモルト老の執務室には、甘党のモルト老のためにお菓子がふんだんに準備されている。それをどうぞどうぞと勧められて、甘いジュースも振舞われているうちに、気づけば色々と溜め込んでいた感情をするすると話していた。
「ほほぉ。なるほどなるほど。たしかに、エリスお嬢様には近寄りがたい神々しさがありますからなぁ。エリフィス君がお嬢様を敬うお気持ちも分かる」
「そうなんです! ですから私の様な者がお嬢様と軽々しくお呼びするのはおこがましくて……」
モルト老は顎髭を撫でながら、好々爺の笑みでエリフィスに相槌をうつ。
「うむうむ。だがなぁ、エリスお嬢様はお子様らしい一面も十分感じられますぞ。この爺などにも、可愛らしく甘えてくださる。ワシの秘蔵のお菓子がこの机に隠されているのを知っていて、膝に乗って強請ってきますからなぁ。ワシはアレには勝てなくて、すぐにお嬢様にお菓子を渡してしまうのだよ」
ほっほっほとモルト老が笑いながら告げるエピソードに、エリフィスは頷いた。確かに、エリスにも年相応な所があってお菓子には目がないのだ。しかもおねだりが上手で、侯爵邸の大人たちは誰一人そのおねだりに抗えないのだ。
「儂はお嬢様を神々しく感じる時もあるが、可愛らしい所も知っている。だからお嬢様を女神と崇めることはせず、主家のお嬢様として仕えておる。エリフィス君がお嬢様の名を恐れ多くて呼べぬというのは、お嬢様ではなく、エリフィス君の心の在り様が現れておるのではないのかな?」
「心の在り様……」
「さよう。エリフィス君はお嬢様にとって、どういう存在でありたいと思っているのかな? 女神を崇める信徒の様に、女神の御威光にひれ伏す存在でありたいのか。もしくは、主人に仕える従僕の様に、主の意に従い、手足の様に働く存在でありたいのか」
そう穏やかに問われ、エリフィスは考えた。
女神を讃える信徒。主人の意に従う従僕。
どちらもエリスに対する気持ちの一面ではあるが、しっくりと当てはまらない。エリフィスはエリスを讃えるだけでも、その意にただ従うだけにもなりたくない。エリフィスが目指しているのは。
「エリスお嬢様を深く敬愛し、その御意思に従い、その御身をお守りしたい。私の全てで」
「ほっほっほ。まるでこの本に出てくる騎士のようだのぅ」
すっとモルト老から差し出されたのは、ちょっとくたびれた、可愛らしい装丁の本だった。
「古い恋愛小説なのだが、なかなか逸品でな。読んでみてはいかがかな?」
エリフィスは眉を顰め、モルト老と本を見比べた。エリフィスも知っているほど有名な本だ。恋愛小説は女性の読むものという先入観があって、読んだことは無かったが。
本当にこの本を読むことで、エリフィスの悩みが解決するのだろうか。
結局、ニコニコと笑うモルト老に押されるように、エリフィスはその本を受け取ったのだ。
温かい紅茶をお供に、エリフィスはモルト老に勧められた本を読んだ。
初めは気が進まないまま、ぱらりぱらりとページをめくっていたが。いつしかエリフィスは、夢中になって本を読んでいた。紅茶が冷め、日が落ちて辺りが暗くなり始めた頃、エリフィスは本を読み終えた。ほうっと、深いため息を吐く。
「確かに、良い本だ……」
本のタイトルは『偽りの主人と忠誠の騎士』。
主人公は、ある貴族家の令嬢。令嬢を生んだ時、病弱だった母は出産に耐えられず亡くなり、母親を深く愛していた父親は、母の命を奪って生まれた令嬢を許せなかった。また、母親以外の妻を娶る気がなかった父親によって、令嬢は貴族家を継ぐため、男として育てられる。
そんな令嬢の秘密を知っているのは、生まれた時から令嬢に仕える護衛騎士だけだ。女の身で厳しい当主教育に耐え、細い腕で剣を奮う令嬢を影日向になって支える。父親の愛情が得たくて、必死に男として生きる令嬢に、護衛騎士はいつしか主従を越えた気持ちを持つが、決して口には出さずに仕えた。そんな護衛騎士を、令嬢もいつしか心の支えにしていた。令嬢は父親から男の名を与えられていたが、その名を呼ばれることを嫌っていた。護衛騎士は令嬢の気持ちを慮って名を呼ばず、『我が君』と呼んでいた。
そんな令嬢と護衛騎士の秘めやかな恋は、隣国との戦争を機に悲劇へと進んでいく。
貴族の務めとして出征した令嬢を庇い、護衛騎士は敵の剣に掛かって命を落とす。
『我が身、我が心、我が献身。その全てを、愛する我が君に捧げます』
そう言い残し、愛し気に微笑んで、護衛騎士は息を引き取る。
戦が終わり、国に戻った令嬢は、父親に訴える。女の身に戻り、修道院で生涯、護衛騎士を弔いたいと。愛する者を亡くした絶望に震える娘に、父親はかつての自分を重ね、ようやく娘を受け入れる。父娘は和解し、爵位は娘が戦死したと偽って返上し、娘は望み通り修道院で生涯を過ごした。
「我が君……」
ふわりと、エリフィスの中にその言葉が落ちてきた。物語の中で騎士が、心にひっそりと愛を秘め、主人に呼び掛けていた言葉。主人を守って戦い、命が尽きる時、満足そうに笑って、最後に口にした言葉。
エリスに向ける気持ちは、まさにこの護衛騎士と同じものだと、エリフィスは自然と思った。
最期まで口にできなくても、エリスへの想いを胸に、あの人を守って逝きたい。
「すごいな、モルト老は」
自分でも表現出来なかった気持ちを示されたようで、エリフィスは深い息を吐く。これが、年の功というものだろうか。
「トムさんとは、全然違う……」
屋敷のどこかで、トムは盛大なくしゃみをしていた。
◇◇◇
「あら。エリフィス、どうしたの?」
風が心地いいガゼボで、エリスは読書をしていた。
エリスの側に居るのは侍女が数名のみだった。珍しくも駄犬執事の姿がない。多分、筆頭執事であるシュウに妨害され、どこかに満身創痍で転がっているのだろう。
エリスが侯爵領邸に滞在する時には、本邸から必ずシュウが付き従っているため、ぼろ雑巾の様に転がる駄犬執事の姿はよく見られる光景だった。
「昨日は図書室にいったのでしょう? エリフィスも本をさがしていたのかしら?」
にこにこと笑ってエリスがモルト老に勧められたという本を見せてくれた。年季の入った分厚い魔術書は、専門家さえ読み解くのは難解なものだ。おおよそ子ども向きとは思えなかったが、エリスは楽しそうに目をキラキラさせてエリフィスに本の素晴らしさを語っている。さすがモルト老が勧めるだけはあると、エリフィスは素直に感心した。
「あら。エリフィスがもっているのは『偽りの主人と忠誠の騎士』ね。わたくしも大好きな本よ。モルト老にすすめられたのかしら?」
無邪気にエリスにそう問われ、エリスは緊張で口がからからになった。
この思いが、エリスに否定されてしまったらどうしよう。
エリフィスは煩い心臓の音を抑え込むように胸に手を置き、エリスの目の前に膝を突く。
「我が身、我が心、我が献身。その全てを、敬愛する『我が君』に捧げます」
この言葉に全てを籠めて、頭を下げた。なんの装飾もない、エリフィスの心そのものだ。どうか、エリスに受け取って欲しい。
「『忠誠の騎士』の、ちかいのことばね」
エリスの静かな声が聞こえた。頭を下げたままのエリフィスにはエリスがどんな顔をしているのか分からない。
「わたくしは、お前の主人として、ふさわしいのかしら……」
そう呟いたエリスの声に憂いが含まれているようで。エリフィスは慌てて顔を上げた。
エリフィスの勝手な想いが、エリスを困らせてしまったのかと、不安になったのだ。
だが、そこには穏やかに微笑むエリスがあるだけで。エリフィスは気のせいかと、ホッと胸を撫でおろす。
「『其方の心、確かに受け取った』」
その言葉は、本の中で令嬢が護衛騎士に最期に掛けた言葉だ。
エリフィスの胸が、温かくなる。エリフィスの想いを、受け取ってもらえたのだ。
エリスの小さな手が、エリフィスの頬を優しく撫でた。
「だけど、『忠誠の騎士』みたいに、私を置いて死んではダメよ、エリフィス。それは許さないわ」
エリスの笑みが、冷ややかに咲き誇る。
「私の為に、生きなさい、エリフィス。みっともなくあがいても、最後まで」
抗いようのない言葉に、エリフィスは喜びを胸に刻む。
「仰せのままに。我が君」
春の花が咲き誇る庭先で、エリフィスは幼い主人に忠誠を誓うのだった。




