4 領地に行こう 後
ラース領の東の森。
女神より賜ったと言われるその神秘の森は、女神の威光を慮り、手付かずの森となっている。誰1人として中に入る事は許されず、よしんば森に入ったとしても、恐ろしくも強い魔獣たちにあっという間に蹂躙されてしまうだろう。
そんな鬱蒼とした森の中を、楽しげに散策する少女。森の中の魔獣たちはもちろん、その異質な少女の姿に気づいてはいるけれど、決して近寄る事は無かった。魔獣という者は常に弱肉強食の世界に生きている。本能的に、関わっていけないモノには敏感なのだ。
「しばらくこない間に、ずいぶんと魔獣のかずがへっているわね?」
ここ、ラース領の東の森は、女神に賜った森として禁足地となっているが、その実はラース侯爵家の実験場だ。エリスの伯父アレンが魔獣の変異を研究するために定期的に魔力を注ぎこんでいるので、森の魔獣たちは他所と比べ物にならないぐらい凶悪なものに変異している。以前までは数多の魔獣たちの気配が感じられていたのに、今日の森は妙に魔獣の気配が減っている気がする。
「げんいんは……。ああ、ずいぶんと大きな子がいるのね」
森の深部に巨大な魔力の塊を感じて、エリスは顔を綻ばせた。
伯父は可愛い魔獣を幾つか飼っている。エリスも前々から、自分だけの魔獣が欲しいと思っていたのだ。
エリスはその巨大な魔力の塊を目掛けて、軽やかに駆けだした。
◇◇◇
「お座り!」
ぐうっと魔力の圧に押さえ込まれ、魔獣は耐え切れずに地に伏した。
屈辱だった。この森で生き抜いて早数年、どんな相手にも服従したことなどなかったのに。
だがこの暴力の様な魔力の塊の前に、魔獣は成す術もなく伏せるしかなかった。久しく感じなかった感情、恐怖が魔獣を襲っていた。誇り高き狼である筈の自分が、尻尾を丸めガタガタと震えるしかできなかった。
「まあ、おまえ。それは『伏せ』でしょう。お座りよ、お座り」
ぎゅうぎゅうと魔力の塊で押しながら、目の前の少女は腰に手を当ててプリプリと怒っている。魔獣は喉の奥でキューンと鳴き、余りに情けない声に自分で驚いた。
「あら。おまえ、起き上がれないの? ごめんなさい、力加減を間違えたわ。それじゃあ『伏せ』しか出来ないのは仕方ないわね」
ふっと、魔獣の身体に掛かる圧が消える。その瞬間、魔獣は素早い動きで身を起こし、少女に対して威嚇の咆哮を上げ……ようとして、再び恐怖に身を竦ませた。
「お座り」
魔獣を見据える少女の目が、信じられない程冷えている。このまま指示に従わないのなら、消し去ってやろうと言わんばかりに。虫けらでも見る様なその視線に、魔獣は反射的に尻を地面につけ、良い姿勢のお座りを披露した。生まれて初めて背中を流れるのが冷や汗を感じたが、それも気にならないぐらい恐ろしかった。
「まぁ! できたのね。とてもいい子ね」
少女の表情が春の陽だまりの様に朗らかになり、小さな手が魔獣の頭を撫でた。長い金の毛並みを優しく撫でられ、込められた魔力の心地よさに魔獣はついついウットリとなった。撫でられた頭から染み入る魔力が隅々に行き渡り、身体がメキメキと凄まじく進化したのを感じる。
「……!」
力が全身にみなぎっている。今の魔獣ならば、この森の全ての魔獣を従える事が出来るだろう。
だがそれでも、目の前の少女に勝てる気はしなかった。数段の強さを手に入れたはずなのに、魔獣の尻尾は小さく丸められたままだ。
「つぎはね、お手よ」
少女が魔獣の前足をとり、少女の手に乗せる。賢い魔獣は、すぐにその動作がお手であると察し、少女の命令通りに前足を少女の手に乗せる。そうしてあっという間に、『お代わり』『伏せ』『お回り』まで体得した。命が掛かっていたので、覚えるのも必死だ。
「うふふ、可愛い! そうだ、おまえをわたくしのペットにしてあげる。そうね、名前はビールドよ」
すっかり魔獣を気に入った少女が、そんな事を言いだした。これなら伯父のペットにも負けないはずだ。少女は魔力を固定して首輪の様に首に巻き、これまた魔力を縄状にして手綱の様に繋ぐ。
すっかり飼い犬扱いされた魔獣は、もちろん抵抗せずに必死に尻尾を振って『嬉しい』アピールをした。死にたくなかったので。
こうして、散策に出ただけの筈だったエリスが、何やら物騒な魔獣をペットにして連れて帰ったことで、ラース侯爵領邸は大騒ぎになった。あまりに物騒な気配を漂わせる魔獣に、屋敷と主人の警備に不安を抱いたシュウが再三『森に還しましょう』とエリスを説得したのだが……。
「まあ、シュウ。ビールドはとてもおりこうさんなのよ。ちゃんとわたくしの指示にしたがうわ。ほら。お座り、お手、お代わり、伏せ、お回り! ね、かんぺきでしょう?」
楽しそうに魔獣を手懐けるエリスに、シュウは早々に無理だと悟った。エリスが名前を付けてしまった。つまり、エリスの魔力がふんだんに感じられるこの恐ろしい魔獣は、エリスのものなのだ。
「手練れの者を集めなさい。精鋭でチームを編成して、あの魔獣の世話係とする」
シュウの命令により、侯爵領邸の選びに選び抜かれた精鋭たちが『ビールド』のお世話係となった。
エリスの前では可愛いペットでも、それ以外の者には虎視眈々とその喉笛に噛みついてやろうと企む賢い魔獣相手に、精鋭たちは日々命の危険と隣り合わせの毎日を送り、ますます強さに磨きがかかったという。
こうして、領主邸の獣舎には、新たな魔獣、ビールドが加わったのであった。