3 領地に行こう 前
「今日はハルはいないの?」
朝からハルの姿が見えないことに気づいたエリスが、シュウに問いかける。
「はっ。愚息めは、本日よりしばらくの間、領地にさがらせております」
にこりと柔和に微笑むシュウに、エリスは「そうなの」と小首を傾げた。自称、エリスの専属執事のハルは、意外と執事としての役割は弁えており、エリスにむやみやたらに話しかけたり構ったりということはなかったが、四六時中、エリスの後を付き従っていたので、居ないとなんとなく不思議な気持ちがした。
実はハルの領地行きは、あまりにエリスにべったりなハルを危惧したシュウが、領地からの人手が足りないという要請にこれ幸いとハルを赴かせた経緯がある。ハルは全力で抵抗していたが、筆頭執事の命令(物理)に逆らうことはできずに、渋々領地に向かったのだ。
「りょうち。そういえばしばらく行ってないわね」
エリスのお気に入りである、エリフィスの顔も見ていない。そう思ったら、急に会いたくなった。
「わたくしもりょうちに行くわ」
エリスが、両手を合わせて宣言する。ピクリとシュウの顔が僅かに引き攣った。
折角、執事見習いをお嬢様から引き剥がしたというのに、エリスが領地に行ってしまえば、シュウの計画は水の泡だ。
だがシュウにとって主君の命は絶対。まだ幼いエリスとて、ラース侯爵家の立派な一員である。その意には、よっぽどのことがない限り、シュウが逆らえる筈がない。
「……私めも、お供いたします」
妥協案として、シュウは即座にそうエリスに申し出ていた。自分の息子に絶対の不信を抱くシュウに取って、自分の目の届かない遠く離れた領地でハルとエリスを2人きりにするなど、言語道断であった。
「あら、シュウも? ハルもいないのに、シュウまで本邸を空けてもいいのかしら?」
「数日私がいないぐらいで邸内のことが滞ることはございません。私もお供いたします」
もしもの時は愚息を葬り去ればいい。
忠義一筋のシュウは、柔和な笑顔の奥で、そんな物騒な考えを持ちながら、幼き主君に頭を下げたのだった。
◇◇◇
「エリス様? こ、これは恋しさが見せた幻覚か? ああ、是非とも直に触れて確かめなくては……」
転移魔術でエリスがラース侯爵領内にある領邸に辿り着くと。
濁り切った虚な目のハルが、エリスを見た途端、ふらふらと手を伸ばしながら近づいてきた。エリスと離れたために、なんらかの良くない禁断症状が出たようだ。
「まあ、ハル。今日もとても気持ち悪いわ」
エリスは笑みを浮かべて軽やかにハルの手を避けると、後方で静かに控えていたエリフィスに歩み寄った。
「エリフィス、久しぶりね。まぁ、また背が伸びたのではなくて?」
「我が君……。お会いできて嬉しいです」
頬を染めたエリフィスは、エリスが髪を撫でるのをくすぐったそうに受け入れる。エリフィスの方がエリスよりも年上なのだが、2人の様子はまるで姉と弟、下手すると母と息子のように見える。
「冷酷無比のエリフィスが笑っている……」
「魔術以外には全く興味を持たないあのエリフィスが笑っているぞ……。槍が降るんじゃないか?」
遠巻きにエリス達を見守る領邸の使用人たちが、いつものエリフィスとのあまりの違いに恐れ慄く。身寄りのないエリフィスは領邸内で使用人として暮らしているのだが、物静かな性質で他の使用人たちと話すことは滅多になかった。寡黙、無表情、無関心ではあるが、魔術の腕はピカイチで仕事も出来て器量も良く、女性使用人たちの間では将来の有望株としてかなり人気があるのだが、本人は全く色恋沙汰に興味を示す様子はなかった。
多くの使用人たちがエリフィスの嬉しそうな顔に衝撃を受ける中、それどころではない者がいた。
「そこへ直れ、野良犬。専属執事の私を差し置いて、お前ごときがなぜエリス様に撫でられるのだ! 洗脳魔術でも使ったのか!」
「うるさい、駄犬。お前はただの執事見習いだろうが。我が君が私を撫でてくださるのは、私の事を可愛がってくださっているからだ。よしんば洗脳魔術を使っていたとしても、我が君に私如きの魔術が効くはずがないだろう」
ハルが怒りに震えながらエリフィスにつかみかかれば、エリフィスは冷静にハルを叩き伏せる。いつものように喧嘩を始める2人に、使用人たちは慌てて周囲に結界魔術を張り巡らせた。水と油の2人は、よると触ると喧嘩ばかりしている。そして熱くなると周囲が見えなくなってしまうのだ。
「まぁ。ハルとエリフィスは仲がいいのね」
2人の間に大規模な攻撃魔術が飛び交い、使用人たちが必死に結界魔術を張るなか、エリスはのほほんと笑った。
「主人を忘れて決闘に没頭するなど、ラース侯爵家の使用人としては失格でございます」
シュウは冷徹な目でハルとエリフィスを見据える。シュウの中で彼らの査定は物凄い勢いで降下していた。
「シュウ、わたくし、久しぶりに森を散策してくるわね」
エリスはにっこりと微笑んで、シュウに告げる。
「あの2人。攻撃力は強いけど、パターンがたんちょう過ぎるわ。もうちょっと、応用がきくようにきたえた方がいいのではないかしら」
チラリとハルとエリフィスに視線を向けて、エリスはため息をつく。どれほど威力が強くても、予想が付く攻撃など手練れの相手には難なく躱されてしまうだろう。
「は……。領地に滞在中に、私めが鍛え直します」
シュウは忸怩たる思いで戦闘中の2人を睨みつけた。主人に不備を指摘されるなど、一流の使用人としてあってはならない事だ。
「それじゃあ、あとはおねがいね」
朗らかに笑って、エリスの姿はその場から掻き消えた。