エピソード1 エリスと狂犬執事
ふと、エリスは目を覚ました。
辺りには夜の闇が広がっている。闇の深さから判ずるに、夜半を過ぎた頃か。
どうしてこんな時間に目が覚めたのか。ごしごしと目を擦り、五感を研ぎ澄ましても、何も感じない。ただ静寂が広がるばかり。
まだ幼いエリスの身体は、再び睡魔に襲われる。だが、何故目が覚めたのか分からないまま再び眠りに沈むのは、どこか気持ちが悪い。
起きようかどうしようかと逡巡している間に、良く知る魔力を感知する。
その馴染みの魔力に安堵したエリスは、身体の力を抜いて寝台に潜り込んだ。温かな寝床は、たちまちエリスの意識を甘い眠りの中に誘ってくれる。
眠りに落ちる瞬間、エリスは薄っすらと微笑んだ。
ラース侯爵家最強の筆頭執事が出張ったからには、何も心配する必要はないのだ。
◇◇◇
「ねぇ、シュウ」
おやつのパンケーキを楽しみながら、エリスは給仕を務めるシュウに声を掛けた。
「なんでございましょう。エリス様」
本来は食事中に使用人に声を掛けるなど、マナー的によろしくない。だがラース侯爵は『外でちゃんと出来るなら、家の中では多少大目にみてもいいんじゃない』と、マナーには寛容だ。ラース侯爵自身が家の中では怠惰の塊なので、子どもにも強く言えないというのが実情かもしれない。
そんな侯爵の意に従い、シュウもついついエリスには甘くなってしまう。まだ10の歳にも満たないエリスだが、抜きん出た才能を示している。偶に気を抜いたからといって、誰が咎められようか。
「さいきん、なんだか騒がしいみたいだけど。なにかあったのかしら?」
エリスの問いに、シュウが僅かに目を見開く。だが瞬きの間には、再び柔和な笑みを浮かべていた。
「申し訳ありません。エリス様の眠りを妨げてしまうなど……。気を引き締めなくてはいけませんね」
「だいじょうぶ。ちょっとだけ目がさめちゃっただけだもの。シュウが出ていると分かったら、安心してすぐにねちゃうのよ。でも、このところ、まいばん続いているみたいだから……」
こてりと首を傾げる小さな淑女に、シュウは目じりを下げる。無邪気に信頼を寄せて貰えることに、素直に嬉しく思ったのだ。
「少々、しつこいネズミが侵入を繰り返しておりますが。私が居りますからには、絶対に中にはいれません」
シュウが居住まいを正し、恭しく頭を下げると、エリスはニコリと微笑んだ。
「わかっているわ。シュウがいるから、わたくし、なんのしんぱいもしていないのよ。頑張ってね」
「御意」
小さな主人と筆頭家令は、目を合わせて微笑みあうのだった。
◇◇◇
それから、数か月後の事。
「本日より、執事見習いとしてラース侯爵家に上がります。息子のハルです」
シュウによく似た面立ちの、しかしシュウよりは鋭い目つきのハルが、以前よりは身に馴染んだ執事服姿で、エリスの眼前に立っていた。
「ハル・イジーと申します。エリス様の専属執事となるため、馳せ参じてまいりました。今後とも末永くよろしくお願い致します」
ほんのりと目元を赤く染め、興奮の押さえきれない様子で、ハルはエリスの傍らに跪く。シュウに首根っこを押さえられなければ、そのままエリスの足元にひれ伏してしまいそうな熱意だった。
「お前の様な未熟者が、エリス様の専属執事などと気が早い。お前はあくまで執事見習い。下っ端の下っ端だ。身の程を知れ」
エリスには終ぞ見せた事もないような恐ろしい表情で、シュウはハルの頭に重い一撃を加える。
「申し訳ありません、エリス様。愚息は二度とエリス様のお目に触れないようにしますので、ご容赦くださいませ」
「ラース侯爵様にはお許しを頂いています!」
殴られた頭を押さえながら、ハルが必死に叫ぶが、シュウは冷ややかに切り捨てる。
「『ラース侯爵家の使用人たちが相応しいと認めたら』と仰っていただろうが! 領地から来たばかりの新参者が、エリス様の専属執事などと、片腹痛いわ」
ポンポンと元気よく交わされる言葉に、目を丸くしていたエリスだが。ハルを見て柔らかな表情になる。
「ああ。ハル。シュウのむすこのハルね。覚えているわ。前にりょうちに行った時に、エリフィスと引き分けた子でしょう? もうこちらにもどってきたの?」
久しぶりに領地にエリフィスに会いに行った際、エリフィスとハルは模擬戦を行っていた。子どもとは思えないような魔術の応酬の果てに、演習場をクレーター化させたあげく、2人は相打ちで倒れたのだ。優秀なエリフィスと同等に渡り合うハルの実力に、エリスも興味を覚えた。
「名をっ……! 覚えて頂けたっ……!」
エリスに初めて名を呼ばれたハルは、感激のあまり滂沱の涙を流す。
ああ、ようやく名を覚えて頂けた。エリス様に名を呼んでいただけるなんて、なんて甘美なご褒美なのだろうか。このままエリス様の寵愛を頂けるようになれば、ずっとお側にいられる。ずっとずっとエリス様のお側に。一瞬たりとも離れたくない。
ハルが恍惚とした表情で、じっとりとした目でエリスを見つめる。その姿は、壮絶な色気を放っているのだが……。
「まぁ。なんだかきもちわるいわ、ハル」
エリスが困った様に眉を顰めると、途端にハルの意識は現実に引き戻された。
「申し訳ありません! つい願望が駄々洩れてしまいました。以後、漏れないように気を付けます」
「……かんがえない様に、ではないのね」
エリスは複雑な顔で、とりあえず頷いた。
「分かったわ。とりあえず、ハルはしつじ見習いとしてはたらくのね?」
「大変遺憾ですが……。領地の方から、『動機はともかく、能力は一流。合格点に達した』ということでしたので、本人の希望通り、こちらに移すことになりました。なんとか阻止したかったのですが、残念です」
シュウは眉間の皺を揉み解しながら、ため息を吐く。
「私の課した課題も、こなしてしまいましたので。はぁ……」
シュウにしては珍しく、歯切れが悪い。よっぽど、ハルをラース侯爵邸に入れたくなかったようだ。実の息子なのに。
不思議に思っていたエリスだが、その時ふと、覚えのある魔力に気づく。
それは、目の前のハルから感じた魔力だった。
「あら。よなかのネズミ。あれは、ハルだったのね?」
驚くエリスに、ハルが『ネズミ?』と首を傾げる。
「忌々しいネズミにございます」
シュウの課したハルがラース侯爵邸で働くための課題。
それは、ラース侯爵邸に侵入する事だった。ラース侯爵家で働きたいのならば、強者の使用人たちの目を掻い潜り屋敷内に侵入するぐらい、出来なくては認められないと。
最初は、ラース侯爵邸の使用人たちに簡単にあしらわれていたハルだったが、鍛錬を重ねて徐々に力と知恵を付け、順々に使用人たちを攻略していったようだ。
結局、最後の砦の攻略はままならず、ラース侯爵家に侵入は出来なかったが、シュウ以外の使用人は全て倒せたので、合格となった。他の使用人たちの間では、『筆頭執事を出し抜ける人材など、この世にいない』というのは当たり前で、シュウを倒せなかったからいう理由で不合格にしては、ラース侯爵家で働ける人材が居なくなると意見が一致しているようだ。
「まぁ。がんばったのね、ハル」
エリスが微笑んでハルの頭を撫でる。面白いぐらい顔が赤くなるハルに、エリスはくすくすと笑いを漏らす。
「かんげいするわ、ハル。ようこそ、ラース侯爵邸へ」
ハルの温かな日差しの中。柔らかな主人の笑みに見惚れる狂犬執事が誕生した瞬間だった。