7.グレイ・ウルフの群れ
”魔物が出た”――その言葉に、俺の頭は真っ白になる。
「――は? 魔物? そんな……だってここはまだ……」
「国境じゃないって? でも間違いないよ。僕もこの目で見たから」
「――ッ」
「僕、前に話したよね? 瘴気は聖下の加護で浄化されてるって。確かにこの辺りの川は運河に繋がってるけど、その水のほとんどは北の山脈から降りてきたものだんだ。つまり、リル湖の水はほとんど含まれていない。聖下の加護が直接及んでいないんだよ。普段は地方神官が浄化してくれているけど、今はその手も足りてない。いつ魔物が出てもおかしくない状況なんだ」
「ってことは……ほんとに魔物が出たってことなのか? しかも今、三人が戦ってるって?」
「だからそう言ってるだろ。しかも出たのはグレイウルフだ。グレンが言うには、元はハイイロオオカミだろうって。数は十五頭ほど。商隊に怪我人も出てる」
「――っ」
――グレイウルフとは、瘴気に当てられ魔物と化したオオカミの通称だ。
尚ハイイロオオカミとは、寒冷地の森林地帯や山岳地帯に生息している狼で、体長は一メートル五十センチほど。
狼の中では大人しい部類なのだが、瘴気を吸って凶暴化した……ということか。
(なんてことだ。俺が気絶している間に、そんなことになっていたなんて)
俺が茫然としていると、ユリシーズに肩を叩かれる。
「アレク、行くよ! 僕たちも戦わなきゃ」
「あ……ああ!」
とにかく、最善を尽くそう――。
俺は覚悟を決め、ユリシーズと共に先頭の馬車へと急いだ。
◇
現場に駆け付けると、そこには数名の負傷者とその手当をする隊員たち――そして、グレイウルフと戦うグレンがいた。
グレンは商隊を庇うように、こちらに背を向けた形で狼の群れと対峙している。
グレンの周りには既に十頭以上の狼の死骸があった。死骸の四肢の切断面が焼け焦げているのを見るに、倒したのはグレンで間違いない。
グレンの構える剣の色が赤く染まり、その周りの空気が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れている。
あれはかなりの高温だろう。
「グレン! 状況は!?」
「リリアーナとセシルはどこに……!?」
俺たちがグレンの背中に向けて叫ぶと、グレンは「遅い」と言いたげに舌打ちした。
「二人は森だ! 瘴気を浄化すると言って森の奥へ入っていった! 二分前のことだ! 早く二人を追え!」
「――森!? 森って……周り全部森だぞ! 方角は!?」
「東だ! リリアーナは東に強い瘴気を感じると言っていた! ――が、よく聞け! 殿下は剣の腕はからっきしなんだ! 接近戦になれば勝ち目はない! 俺が行くまでお前たちがフォローしろ!」
グレンの罵声にも近い声に、俺とユリシーズは頷き合う。
「わかった、任せろ!」
「グレンも、気をつけて……!」
こうして俺たちはグレンを残し、森の奥へと駆け出した。
◇
俺たちは森の中を、東に向かって全速力で駆け抜ける。
この森は針葉樹林だ。木の生え方はまばらで、太陽の日差しは十分すぎるほど。
つまり、比較的見通しがいいということだ。二人を見つけるのはそれほど難しくないだろう。
――と最初は思っていたのだが……。
五分ほど走ったところで、現実は甘くないことに気付く。
先に進むほど、何やら視界が暗くなってきたのだ。
「ユリシーズ……この黒い霧って……」
隣を走るユリシーズに同意を求めると、彼は「うん」と頷いた。
「瘴気だろうね。段々濃くなってる。お互いの姿を見失わないようにしないと」
「そうか。これが瘴気……。なんていうか、やっぱりちょっと不気味だな。吸っても大丈夫なんだっけ」
「うん、僕たちは普段からリル湖の水を接種しているからね。運河周辺に生息する動物たちが魔物化しにくいのも同じ理由だ。――でも、四大都市の外側に住む人たちはそうじゃない。商隊の人たちは都市を行き来しているから大丈夫だと思うけど、それだって確証はない」
ユリシーズの顔が暗くなる。
きっとユリシーズは、瘴気を吸った人間がどうなるのかを知っているのだろう。
「あの、さ。ユリシーズ……」
――それが気になった俺は、ユリシーズに尋ねようと口を開きかける。
が、そのときだった。
突然前方に何かの気配が現れ、俺たちは足を止める。
そして目を凝らすと、そこにはグレイウルフがいた。
先ほどグレンと対峙していた奴か、それとも別の個体か……。
わからないけれど、とにかく、グレイウルフは魔物の象徴ともいえる赤い瞳で、俺たちを強く威嚇している。
「――ユリシーズ……二頭いるぞ」
「ああ。わかってる」
さっきグレンが戦っていた数に比べれば圧倒的に少ないが――。
と思いながら周囲の様子を確認すると、前だけではない。なんと後ろにもいるではないか。それも、三頭も……。
(え? じゃあ合わせて五頭ってことか? いやいや……急に五頭とか無理だろ)
言っておくが、俺たちは正真正銘の戦闘初心者だ。ここまでだって特に戦闘なしで来てしまったし、ウサギ一匹殺したことはない。
それなのに、急に狼を相手にしろと? それも魔物化した?
(流石に荷が重すぎる……)
「……おい、どうするユリシーズ。俺、狼に勝てる自信、正直ないんだけど」
何か作戦はあるのか――俺はそう言いかけた。
けれどそれより先に、ユリシーズが俺の顔を凝視して――。
「構えて、アレク」
「……えっ?」
「剣を構えるんだ。――忘れたの? 君の剣は聖剣だ」
「――あ」
瞬間、俺はようやく思い出す。
そうだ、俺の腰にぶら下がるこれは、大神官サミュエルに賜った聖剣だった。
――それは王都を出発する前日のこと。
俺はサミュエルに呼び出され、一振りの剣を渡された。
そしてこんなことを言われた。
「アレク、お前も知っているだろう。魔物を倒すには魔力が不可欠だ。普通の剣ではかすり傷を負わせるのがやっと。つまり、魔法の才のないお前には魔物を倒すことはできない。が、流石にそれでは不憫だからな。俺の剣を貸してやる。――何、心配するな。属性魔法の使えないお前なら、この剣に込められた俺の光魔力に拒否反応を起こすことはないだろう。まぁ、とは言えこれが使えるのは、溜めた魔力が切れるまでの間だけだがな」――と。
それが俺が今持っている聖剣、”X”。サミュエルが二十四番目に作った聖剣――Xだ。
――正直俺は今の今まで、(サミュエルのあまりのネーミングセンスの悪さに)これが聖剣であることをすっかり忘れていた。
が、これは確かに聖剣であるはずなのだ。
相手が魔物であれば、剣先が触れるだけで倒してしまえるという、サミュエルの魔力がたっぷり注ぎ込まれたチートな剣。
ユリシーズは、それを使えと言っている。
「そうだったな、ユリシーズ。これは聖剣。つまり、魔物を倒すのは俺の役目だ」
「うん。……ごめんね、アレク。本当はあまり使わせたくないんだけど、実は僕、攻撃魔法のコントロールには自信がなくて……。その代わり防御は任せてほしい。君に傷一つつけさせやしないから」
「ああ、頼りにしてる、ユリシーズ」
こうして俺は覚悟を決め、聖剣の力とユリシーズの防御を頼りに、グレイウルフに突っ込んでいった。
戦いは混戦を極めた。
グレイウルフはとても素速い上に、視界はあまりに不明瞭で、なかなか攻撃を当てることができなかったからだ。
それでも俺たちは、十五分かけてなんとか全てを倒しきり――さらに瘴気の濃い方角――リリアーナとセシルのもとへ向かったのだった。