3.いざ、神殿へ
――翌日。
俺たちは神殿を目の前にして、そのあまりの荘厳さに恐れ慄いていた。
「神殿って……思ってたよりずっと広いんだな」
「そうだね。僕もこんなに近くで見るのは初めてだから」
「わたしも……何だかすごく緊張してきましたわ。どうしましょう……お兄さま」
リル神殿――別名“水の要塞”は、王都北側の切り立った山の中腹に位置している。
女神リル神の住まうリル湖を取り囲むような形で造られたリル神殿。
その敷地面積は、街一つがすっぽり入ってしまうほど広大だ。
加えて、水の要塞と呼ばれるほどの強固な守りは見事という他ない。
敷地の北の絶壁からは高さ四十メートルのところから滝がざあざあと流れ落ち、東と西側は湖から流れ出た巨大な川が取り囲む。
その川幅はなんと二十メートルにも及び、さらに川向こうには高さ三階建てに匹敵する堅牢な外壁がそびえ立つ。
出入口は南側に一つしかないため、許可の無い者が立ち入ることはもちろん、中の様子を知ることすら不可能だ。
それがこの国の国教の頂点に君臨するリル神殿。女神リル神が住まう聖域。
そして国中の教会、そしてそこに仕える神官や神父、修道女たちの母なる場所だ。
――そんな神殿に繋がる石橋の前に、今俺たちは立っていた。
「だ――大丈夫だ、リリアーナ。俺とユリシーズがついてるから」
「でもお兄さま。わたし、神殿がこんなに立派なところだなんて知りませんでしたわ。お兄さまもいなくて、ひとりでやっていけるかしら。もし聖下が怖い方だったら……粗相をしたらどうしましょう」
「リリアーナ……大丈夫だ、そんな顔するな。ほんとに、きっと大丈夫だから。聖下って呼ばれるからには優しい方に違いない。多少の粗相は許してくれるはずだ。だからそんなに心配しなくていい」
俺は内心テンパりながらも、必死にリリアーナを励まそうとする。――が、言ってしまって気が付いた。
これでは、リリアーナが失敗すると言っているようなものだ、と。
実際、リリアーナは俺の言葉にショックを受けたようで、カァっと顔を赤くすると、俺から顔を背けてしまう。
(ああ……しまった。今のは俺が悪い)
だが言ってしまったものはしょうがない。とにかく挽回しなければ。
そうは思ったが、俺には何が正解かわからなかった。
するとそんな俺を見かねたのか、ユリシーズが助け舟を出してくれる。
「落ち着いて、リリアーナ。君は神殿から招かれて来たんだ。言わばお客様だよ。堂々としてればいいんだ。――大丈夫。僕は君がとっても頑張りやさんだってことを知ってるよ」
「でも、お兄さまは……」
「君が粗相をするかもって? いいじゃないか、失敗したって。君はまだ十五だ。聖下だって承知のはずさ。言い方は悪いけど、君に完璧を求めてはいないよ。気楽にやったらいいんだ」
「……そう、かしら」
「そうだよ。僕らは一緒に行ってあげられないけど、心はいつも君と共にある。だから、ね? いつもの笑顔を、アレクに見せてあげよう?」
ユリシーズの言葉は、ともすれば逆効果になり得る内容に聞こえた。
けれど何の誤魔化しもない心が通じたのか、リリアーナはすんなりと納得を見せる。
先ほどまでの不安な顔が嘘のように、リリアーナはいつもの笑顔を取り戻したのだ。
(ユリシーズは凄いな。俺よりよっぽどリリアーナを理解してるみたいだ)
というより、ユリシーズは昔から人付き合い全般――特に女性の扱いが上手いような気がする。
生まれも育ちも由緒正しき伯爵家。
その三男ともなれば、親や兄たちから女性の扱い方を自然と学ぶものだろうか。
ちなみに俺アレクも伯爵家の生まれだが、記憶の中のアレクはユリシーズのように穏やかで人当たりのいいタイプではない。
どちらかと言えば無愛想で口数が少なく、いざというときは頼りになるが、どこか気取った一匹狼タイプだった。今の俺とはまるで別人だ。
それでもリリアーナは、俺を兄と慕い続けてくれる。それは、いったいどんな気持ちで……。
そんなことを考えていると、ユリシーズに小声で問いかけられた。
「ところでアレク、本当にここで待つ気? どうせ中には入れてもらえないよ?」
「わかってる。中に入ろうなんてこれっぽっちも思ってない。でもリリアーナが世話になるんだ。せめて挨拶くらいしないとだろ」
「挨拶? 誰に? まさか聖下じゃないよね?」
「違う、迎えの神官だよ。ここまで来てくれるって話だったろ?」
「ああ、そうだよね。でも本当に気を付けてよ。その橋は神殿の所有物。もし一歩でも超えようものなら、すぐさま門番が斬りかかってくると思うから」
「……そういうこと言うなよ。怖いだろ」
確かに先ほどからずっと、長い槍を持った門番二人に睨みつけられているが……。
(こいつが言うと、冗談に聞こえないんだよな……)
――と、そのときだ。
約束の時間より十分早く、橋の向こうの門が開き、一人の神官が現れた。
くるぶしまで隠れる黒いローブのような服と、短い烏帽子のような帽子を被り眼鏡をかけた、二十歳そこそこの生真面目そうな神官だ。
彼はどうやら俺たちの到着を既に知っていたようで、焦る素振りもなく橋を渡り切り、俺たちの前に立つ。
そしてルーファスと名乗ると、俺たちが挨拶を返すより早く、リリアーナの荷物ケースを持ち上げた。
「どうぞ、中へ」
無表情にそう言って、彼はくるりと踵を返す。
俺はそのあまりにも無愛想な態度に驚き、咄嗟に彼を呼び止めた。
「――えっ、ちょ、待てよ! ルーファス……さん」
「……何か?」
「いや、あの……俺、アレクって言うんですが……妹がこれからお世話になるので、せめて挨拶をと」
「…………」
すると彼は煩わしそうに眉をひそめ、はぁ、と小さく息を吐く。
(え? ――何だこいつ。態度悪すぎやしないか?)
瞬間、俺は思わず声を上げそうになった。
けれど、その気持ちをぐっと堪える。神官に悪い印象を持たれては、リリアーナの待遇に関わるからだ。
――けれどそう思ったのも束の間、ルーファスさんから返ってきたのは予想外の言葉で……。
「存じてます。ローズベリー家のご嫡男でしょう? そして隣は、ハミルトン家のユリシーズ様」
「――え。俺たちのこと知ってるんですか?」
「当然でしょう。リリアーナ様のご家族と大切なご友人ですから。それにお二方とも、リリアーナ様と共に国境に赴いてくださるとか。貴族でそのような方は大変珍しいですよ。聖下含め私たち神官一同、感謝申し上げねばならない立場です」
「あ……、そう……なんですね」
その割には、俺たちのことが気に入らない態度だが。
――という俺の感情が伝わってしまったのか、ルーファスさんは再び溜め息をつく。
「最初にお詫びしておきますが、私は誰にでもこうなのです。別にあなた方が気に入らないというわけではない。それと、私のことはルーファスとお呼びください。この神殿であなた方が敬わねばならない方は聖下ただお一人。他の者のことは何と呼んでいただいても構いません」
「……え。――それって、どういう意味……」
何だか話が嚙み合っていない気がした俺は、思わず聞き返す。
するとルーファスさん――もといルーファスは、三度目の溜め息をついた。
「皆まで言わねばわかりませんか? 挨拶は中で、と言っているんです」
「つまり……俺とユリシーズも中に入れてもらえると?」
「さっきからそう言っているでしょう」
「…………」
(いや、多分、言われてない)
この男、態度が悪いだけではなくどうやら言葉も足りないらしい。
そんなことを思いつつユリシーズを見やると、彼は困惑を通り越し不安げな顔をしていた。
どうして自分たちが入殿を許されるのか、不思議でたまらないという様子だった。
――が、せっかく入れてくれると言っているのだ。乗らない選択肢はない。
俺はリリアーナの右手を取り、しっかりと握りしめる。
「リリアーナ、聞いたか? 俺たちも中に入れてもらえるって。これでまだしばらく一緒にいられるな」
そう言うと、パアッと向日葵のような笑顔を咲かせるリリアーナ。
「わたし、とても嬉しいですわ、お兄さま!」
――とまぁこんな経緯で、俺たちは仲良く三人で中に入ることを許されたわけだが……。
なんという失態か。
ものの数分、俺が神殿内の景色や建造物の美しさに気を取られている間に、リリアーナが姿を消してしまったのだ。
――そう、つまり迷子である。
しかも気付いたのは謁見室の目前。
先頭を歩くルーファスと宗教談義をしていたユリシーズが不意にこちらを振り向いて、リリアーナの不在に気が付いた。
つまり、これは全て俺一人の責任だ。前を歩いていた二人は何も悪くない。
リリアーナがいないことに気付かなかった俺を、責めるような二人の顔。
ルーファスの冷ややかな視線と、呆れかえったユリシーズの眼差しに耐えられなくなった俺は、本能的に後ずさる。
「いや、あの……申し訳ない! 俺、リリアーナを探してくる! すぐに戻ってくるから待っててくれ!」
俺はそれだけを言い残し、何かを言いかける二人を置いて、元来た方へと駆け出した。