30.答え合わせとリリアーナの帰還
それから三日が経ったその日の午後、俺はバルコニーで双眼鏡を覗きこみ、ロイドと共に街の様子を監視していた。
なぜって、今日はリリアーナが帰ってくる日だからである。
「ああ……早くリリアーナに会いたい……」
俺はリリアーナレスに陥っていた。
この一週間は色々と忙しくしていたとはいえ、こんなに長くリリアーナと離れるのは学生時代以来初めてのことだからだ。
ときどき父親の領地経営の手伝いで数日屋敷を離れることはあっても、一週間もリリアーナと顔を合わせないなんてことはなかったし、おはようのキスも、おやすみのキスも欠かしたことはない。
そんなわけで、俺は早くリリアーナを抱きしめたくてソワソワしていた。
「ああ……早くリリアーナに会いたい」
俺は同じフレーズを繰り返す。
すると、いつの間にか背後に立っていたユリシーズが大きく溜息をついた。
「アレク。気持ちはわかるけど、君、もう一時間もこうしてるよ。せっかく風邪が治ったのに、ぶり返したらどうするの?」
「ユリシーズ……いつの間に」
「昨日だって止めたのに、急に伯父上と川釣りに出掛けたりして……僕は君が全然わからないよ」
「いや、だってそれは、お前の伯父さん釣りが趣味って言うから……。俺も釣りは結構好きだし、親睦を深めるのもアリかなぁと」
「…………」
俺の言葉に呆れたのか、ユリシーズは再び深く溜め息をつく。
そして今度はロイドに話しかけた。
バルコニーの手すりに腰かけ足をぶらぶらさせながら、キッチンからくすねたであろう菓子を次々に口に放り込んでいくロイド。
その横顔は、まるで幼い子供にしか見えない。
「ロイド、君も君だ。ここは二階だよ。そういう危ない座り方はやめてくれないかな? 下を通りがかった使用人が皆びっくりしているよ」
「え~? でも僕、落ちないし。落ちても平気だし。それより君もこれ食べる? クルミ入りのクッキー、おいしいよ」
「……いいよ、お腹空いてないから」
ロイドの返答に、ユリシーズは今度こそ毒気を抜かれたようだ。
ユリシーズは「はぁ」と脱力すると、バルコニーの手すりに背を預ける。
そのまま晴れ渡った大空を仰ぎ、「平和だな」と呟いた。
――平和。
それは、ここしばらくの俺たちとは無縁だった言葉。
王都を出てからまだたった三週間弱なのに、俺たちから遠く離れてしまっていた言葉。
ありふれた日常。少し前まで、信じて疑わなかったもの。
それが今は、とても特別でありがたいものだと感じられる。
「ほんと……平和だよな。俺たちちょっと前まで、毎日こんな感じで過ごしてたんだよな」
サミュエルの加護によって守られた王都はどこまでも平和で、たとえ戦争になろうと戦うのは職業軍人のこの世界。
人相手だろうと、魔物相手だろうと、王侯貴族の俺たちが戦わされることはない。
俺たちはそんな、享受された平和の中で生きてきた。その日常を信じて疑わなかった。
けれど今は、その平和を必死に守ってくれている人たちがいることを知った。
平和であることが、当たり前ではないことを知った。
ここがゲームの世界であろうとなかろうと、それは変わらない。
だから俺は、今このときだけかもしれない平和を噛みしめるのだ。
「なぁ、ユリシーズ」
「うん?」
「俺……本気で頑張ってみるわ」
「……え? 何を?」
魔力の循環が良くなったせいなのか、ここ数日の間に急激に思い出した前世の記憶。
妹に付き合って部分的にプレイしたゲームの内容。妹が俺に話して聞かせたシナリオの一部。
それから、アレクがラスボスとして殺される間際に放った最後の台詞。(妹談。脚色あり)
それらの情報と、アレクの置かれていた状況を勘案して導き出した答え――それは、アレクは何者かに嵌められてラスボスと化したのだということ。
真のラスボスは別にいるということだった。
つまり、そいつを見つけ出さない限り本当のハッピーエンドは有り得ない。
ゲームではアレクが殺されてハッピーエンドを迎えたが、それはあくまで恋愛ゲームとしてのハッピーエンドなだけであって、この世界のハッピーエンドというわけではないのだ。
(だから俺は、必ずそいつを見つけ出す。見つけ出して、全てを吐かせる)
俺は強く決意する。必ずこの世界にハッピーエンドを迎えてみせる、と――そのときだ。
俺は不意に思い出した。
そう言えば、ユリシーズに聞いておきたいことがあったのだ。
「なぁユリシーズ?」
「今度は何?」
「お前、先週露店を回った帰り、俺に何か怒ってただろ? あれ、理由はなんだったんだ? 考えたけど、どうしてもわからなかった」
尋ねると、ユリシーズは驚いたように目を見開いて「ああ、あれ」と気まずそうに呟く。
「大したことじゃないから気にしなくていいよ」
「そう言われると余計気になるだろ。教えてくれよ。俺が何か気に障ること言ったんだろ?」
「あー……気に障ることっていうか……なんて言えばいいのかな……。あのとき僕は、君が君じゃないような気がしたんだ。君があまりにも僕の知ってるアレクとは違ってて……別人のように感じちゃって……ごめんね」
「――!?」
申し訳なさそうに笑うユリシーズ。
けれど俺は、なんだか気が気ではなくなって……。
(いや……ここは俺が驚くところじゃないだろ。実際俺は、アレクとは全然別の人格なんだから)
「ちなみに……どの辺がお前の知ってるアレクと違ってたんだ……?」
俺は恐る恐る尋ねる。
聞いておかないと後々困るような気がしたからだ。
すると俺の問いに、ユリシーズはどこか寂しそうに眉を下げる。
そして次の瞬間ユリシーズの口から放たれた言葉は、あまりにも予想外のものだった。
「君が、鶏肉を食べたから」――と。
「は? ……鶏、肉????」
突然出てきた"鶏肉"というワードに俺は困惑を隠せない。確かに露店で鶏串は食べたけれど……。
ああ、これはもしやあれか。俺は鶏肉を食べられないとか……そういう、食の好みの問題だろうか。
混乱する俺に、ユリシーズは気まずそうに微笑んで……。
「ごめんね、アレク。リリアーナが蛇が駄目なことすら、今は覚えていないんだもんね。君自身のトラウマを覚えていなくても仕方がないのに」
「――えっ、いや……」
(トラウマ……? アレクが……鶏肉にトラウマ……?)
「ユリシーズ……その話、詳しく教えてくれないか?」
ここまで聞いたらもう、最後まで聞かねばなるまい。
俺はユリシーズに詳細を尋ねる。
するとユリシーズはちらりとロイドの様子を伺ってから、小声で話し出す。
「君、鶏肉が食べられなかったんだよ。子供の頃、厨房の裏で鳥の血抜きをするところを偶然見ちゃったらしくて……それ以来、鶏の触感がどうしても駄目になったって。……初等部のころ、食堂で僕に教えてくれた。だから鶏肉が出たときは、僕が代わりに食べていたんだ。残すのは許されなかったから」
「……そう……だったのか」
「うん。ひき肉にしても駄目でね、一度知らずに口にして戻しちゃったこともあるんだよ。そのときの君、本当に辛そうで……。でも――食べられるようになったなら良かった。露店を回ってたときは、君が僕との思い出も全部忘れてるんだってことに気付いてショックを受けたけど……今は、忘れるっていうのも悪いことばかりじゃないんだって思ってる」
「……っ」
ユリシーズの寂しそうな、それでいて嬉しそうな――形容しがたい表情に、俺は何と言ったらいいのかわからなくなった。
ありがとう、と言うべきなのか。忘れて悪かった、と伝えるべきか――どちらも何だか違う気がする。
なら、何と言ったらいい……?
言葉を探す俺に、ユリシーズは目を細める。
「いいよ、何も言わなくて」――と。
「君が僕との思い出を全部忘れてしまっていても、君は僕のことを親友だと思ってくれているんだろう? なら、それで十分だ」
「…………」
「本当に、それだけで十分なんだよ、アレク」
「……ユリシーズ」
――ああ、こいつは何てかっこいいんだろう。
俺だったら絶対に恥ずかしくて言えないような言葉を、こんなに真っすぐに伝えられるなんて。
俺はこいつのこういうところを、心底尊敬する。
俺は結局何も答えられず、けれどユリシーズは満足そうに微笑んだ。
すると丁度タイミングを見計らったかのように、ロイドが声を上げる。
「聖女さま、帰ってきたよ」――と。
その声に俺は眼下を見下ろした。
するとそこには確かに、ノーザンバリー辺境伯の紋の入った馬車があった。
――ああ、間違いない、リリアーナだ!
「俺、行ってくる!」
俺はユリシーズを顧みる。
すると、「うん、行ってらっしゃい」と言って、俺を送り出してくれるユリシーズ。
俺は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。
玄関ホールの扉を開け、広いロータリーを駆け抜ける。
そして、停車した馬車から降りるリリアーナを思いきり抱き締めた。
「リリアーナ……! 怪我はないか!? よく頑張ったな! 偉いぞ!」
すると突然のことに驚いたのか、リリアーナは目をぱちくりとさせる。
――驚いた顔も最高だ。
リリアーナは少しの間俺の腕の中で茫然としていたが、しばらくしてハッと顔を上げた。
「お兄さま……お身体は……お身体の具合は……?」
「手紙送ったろ? もう大丈夫だ、心配ない」
「……あぁ……でも、だってお兄さまのことだから……」
「お前を心配させないように、嘘をついてるかもって?」
「……っ」
「そんな嘘すぐばれるだろ。俺だってそこまで愚かじゃない。――それよりごめんな。出発までずっとお前が看病してくれてたって、ユリシーズから聞いた。見送りできなくて悪かった」
「……そんな……そんなこと……! お兄さまがご無事なだけで……、わたしは……」
――ああ、リリアーナ……。
セシルやグレン、マリアや他の使用人たちの前にもかかわらず、俺はリリアーナを強く抱きしめる。
二度とリリアーナを悲しませないと。二度とリリアーナを傷付けないと。
そう深く心に刻み込み、俺は痺れを切らしたセシルによってリリアーナと引き離されるまで、久しぶりのリリアーナの感触を堪能したのだった。