2.聖女リリアーナ
ユリシーズから協力を得られることになってから二週間。
俺は毎日のようにユリシーズと顔を合わせ、剣の稽古に励んでいた。
庭園の開けた場所で、基礎体力作りを含めて一日三時間は訓練を行う。
指導者のいない今の俺たちにできることはこれくらいだ。
ひとしきり打ち合いを終えた俺たちは、一息つこうと適当な場所に腰を下ろす。
「で、ユリシーズ。瘴気については他に何かわかったか? 瘴気が定期的に自然発生してることは理解した。でも、本当にその理由はわからないのか? 絶対に原因があるはずだろう?」
――あれからユリシーズに助言を求めわかったこと。
それは、瘴気の発生自体は珍しいことではないということだった。今このときもこの国の……いや、この大陸のどこかで自然に発生しているのだと。
だが、この国ではそれが今まで大きな問題になることはなかった。
なぜなら自然発生した瘴気のほとんどは、この国の守り神・水の女神リル神の加護を受けた、大神官サミュエルの偉大な光魔法によって浄化されているからだ。
とはいえ、その力は決して万能ではない。サミュエルの力は、水に付与して初めて効果を発揮するものだからである。
そのためこの国は、サミュエルの力が国中に及ぶように治水工事を行い水を巡らせている。
けれど今回のように先の戦争で手に入れた新しい土地には川がなく、加護が及ばないのである。
――つまり、妹の独り言の記憶しかない俺はすっかり勘違いしてしまっていたわけだが、今回の瘴気はそもそもアレクが発生させたものではなかったのだ。
(この瘴気の発生がゲームの強制力じゃないってことがわかったのは、まぁ良かったんだけど……)
それでも、誰一人として瘴気の原因を突き止めようとしないことには疑問が残る。
俺がそう尋ねると、ユリシーズは難しい顔をした。
「君の言いたいことはわかるよ。聖下の力でも、瘴気が広範囲だったりあまりに濃かったりすると、浄化が間に合わず動物たちは魔物と化してしまう。魔物は人を襲うし、普通の剣は通らないから犠牲も少なくない。――でもね、アレク。瘴気の発生は自然現象なんだよ。雨が降ったり風が吹くことと同じ。天候や天災は神の思し召しだ。だから、言及することはタブーとされてるんだよ」
「それはわかるんだけど。でも、お前はそれを知った上で俺に協力してくれるんだろ?」
「そうしたいのは山々だけど、僕はまさか君が、瘴気の原因を知りたいなんて言うと思ってなかったから。これ以上詳しいことを調べようと思ったら、神殿に行くしかないと思うな」
「神殿か。でも、神殿ってそう簡単に入れてもらえないだろう?」
「まぁ、そうだね。少なくとも僕は一度も入ったことないよ。あそこは治外法権だから、貴族だからって優遇してくれるわけでもないし」
「だよなぁ」
――とは言えここは乙女ゲームの世界。大神官サミュエルは攻略対象者だ。
リリアーナはこれから先頻繁に神殿に出入りするようになるだろうから、それに付いていくことができれば……。
俺がそんなことを考えていると、庭園の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
これはリリアーナの足音だ。
そう思うと同時に、こちらに駆けてくるリリアーナの姿が目に映る。
腰まである緩くカーブした金髪と、アーモンド型の碧色の瞳。
金髪碧眼なのは俺と同じなのに、目つきの鋭い俺とは似ても似つかない。とても愛らしい顔をしている。
これがヒロインってやつか……。そう思わせる何かが、リリアーナには確かにある。
「お兄さま、特訓はそろそろ終わりでしょう? 東屋にお茶の用意をしたの。今日はお兄さまの好きなプディングを焼いたのよ。とってもうまく焼けたから感想を聞かせてくれる?」
そう言って無邪気に微笑む彼女からは、少しもこの先に待ち受ける苦難を感じない。
神殿に召喚されることが決まったと聞かされたときも、彼女は顔色一つ変えなかった。
泣き崩れる母親を前にして「わたくし、少しも怖くありませんわ。だから泣かないで、お母さま」――そう言って笑ったのだ。
そんなリリアーナを見て、俺は正直不安になった。リリアーナは自分の役割を理解しているのだろうかと。
伯爵家の令嬢としてぬくぬくと育てられてきたリリアーナに、瘴気に当てられた魔物を見たことすらない妹に、瘴気を浄化するなどという大役が務まるものだろうか、と。
(まぁ、実際は務まるんだろうけどな。何せヒロインだし。――でも……俺はできるだけリリアーナを危険な目には合わせたくない。こんなに俺に懐いてくれているリリアーナに、ラスボスと化した俺を殺させるなんて嫌だし、殺されるのもまっぴらごめんだ)
「……お兄さま? 怖い顔してどうなさったの?」
「いや、何でもない。それよりリリアーナ。いくらユリシーズが勝手知ったる相手だからって、挨拶はおろそかにしたらいけないだろ。あと、走るのも駄目だ」
「あら、いけない。わたしったらつい」
リリアーナは顔を赤らめて、ユリシーズに向き直る。
「ごきげんよう、ユリシーズ様。今日もお兄さまのわがままに付き合ってくださってありがとう」
「うん。僕も君が健やかなようで嬉しいよ」
「ユリシーズ様、まだお時間ございますか? よろしければお茶をご一緒に。今日のプディングは自信作ですの。ユリシーズ様にもぜひ召し上がっていただきたいですわ」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になろうかな」
リリアーナの申し出に、さっきまでどことなく暗かったユリシーズの顔が明るくなる。
(若干気になるワードはあったが……流石リリアーナ。悪意なく聞こえるのは凄いな)
俺はそんなことを思いながら、二人と共に東屋へ向かった。
◇◇◇
「――ン。……うっま」
リリアーナの焼いたプディングを口に入れた俺は、そのあまりの美味しさに打ち震えた。
プディングとは、卵、牛乳、砂糖のみで作られたシンプルな菓子だが、だからこそ一切の誤魔化しがきかない。
それをここまで美味しく作るとなると、かなりの腕が求められるというもの。
(なんだこれ……プロかよ)
美味い。――美味すぎる。
どうやらリリアーナはまた腕を上げたらしい。前世母親が通っていた有名パティシエ店の味に匹敵するレベルだ。
ユリシーズもその出来に驚いたようで、「これ、本当に美味しいよ」と呟いて、二口目、三口目……と口に運んでいく。
マナーを重視し、食事中の会話を欠かさないユリシーズが無言で食べている様子を見るに、本当に感動しているのだろう。
(わかる。わかるぞ……。本当い美味いもんな、このプディング)
俺が小皿に乗った残りを二口でたいらげると、リリアーナは嬉しそに笑う。
「お気に召したようで何よりですわ。お兄さまのために沢山練習しましたの」
「ああ、本当に美味しいよ」
アレクの記憶の中のリリアーナの初めてのお菓子作りは過程も結果も散々だった。
オーブンから煙を出し火事だ何だと大騒ぎになり、出来上がったものは当然炭……どころか灰と化し、リリアーナはショックのあまり大泣き。慰めるのに五時間も要した。
(それがここまで上手くなるとは。本当に努力したんだな、リリアーナ)
プディングのおかわりを食べながら、俺は感傷に浸る。
――が、その時間は長く続かなかった。
何の前触れもなしに、リリアーナがこんなことを言ったからだ。
「次にお兄さまにプディングを食べてもらえるのは、いつになるかしら」――と。
そのあまりにもらしくない言葉に、俺は口の中のプディングを一気に飲み込んだ。これがプディングじゃなければ窒息していただろうというくらい、勢いよく。
「ぐっ――ゲェ、ッホ、――エホッ、エッホ……!」
「ちょ……アレク、大丈夫!?」
「まぁ、いけませんわ、お兄さま! さ、お茶を!」
むせまくる俺の背中をユリシーズがさすり、リリアーナがティーカップを差し出してくれる。
――が、このお茶がまた熱すぎて、俺はユリシーズの顔に思いきり噴き出してしまった。
「ちょ――っ、アレク!」
「まぁ! 申し訳ありませんお兄さま! このお茶入れたてでしたわ……!」
そう叫んで、今にも泣きだしそうになるリリアーナ。
俺は苦しいやら熱いやら何やらで、もう何が何だかわからなくなった。――が、必死に言葉を絞り出す。
「いや……大丈夫。ちょうどいい温度だったよ、リリアーナ。……それよりも、どうしたんだ。急におかしなことを言ったりして」
けれど、リリアーナは意味が分からないと首を傾げた。
「わたし、何か言ったかしら?」
「言っただろ。〝次に俺にプディングを食べてもらえるのはいつになるか”って……」
するとリリアーナは、ようやく合点が言ったという顔をする。
「申し訳ありません、お兄さま。肝心なことを伝えて忘れておりましたわ。わたし、明日神殿に参ることになりましたの」
「――!?」
「先ほど神殿から使いが参りまして、聖下のご予定が空いたから来てほしい、と。滞在期間がどれくらいになるかわからないから、よく準備をしておくように、とも言われましたわ」
「いや、何だよそれ!? 流石に明日は急すぎるだろう!? それに滞在期間不明って……。ユリシーズ、お前も何か言ってくれ!」
俺は半ばパニックになりながら、ユリシーズに助けを求める。
するとユリシーズは、やや顔をしかめてリリアーナを見つめた。
「なるほど。聖下は随分身勝手な方みたいだね。――それで、リリアーナ。君はその使いに、ただイエスと答えたのかい? 本来は君の成人まで待ってもらう話になっていたはずだろう?」
ユリシーズのいつもより少し低い声。
その声音に、びくりと肩を震わせるリリアーナ。そんな妹の様子に、俺は益々どうしたらいいかわからなくなる。
けれど今にも思考が爆発しそうになったそのとき、リリアーナが口を開いた。
「確かに少し早いとは思いましたが――」と。
リリアーナは続ける。
「お兄さまもユリシーズ様も、毎日わたしのために頑張って特訓してくださっている。でも、わたしは何もできていませんわ。――だったら一日も早く神殿に入って、少しでもこの力の扱い方を覚えておいた方が、お兄さまたちのためになるかと思いましたの」
「……リリアーナ」
その言葉に、俺はただ驚いた。まさかリリアーナからそんな大人びた言葉が出てくるとは思っていなかったから。
(俺が思っていたより、リリアーナはずっと大人になっていたんだな……)
ならば、ここは兄として応援してやらねばなるまい。
リリアーナ自身がそう望むのなら、ここは潔く送り出してやるのが兄の務めというもの。
それに、別にこれが今生の別れというわけでもないのだから。
俺はユリシーズと顔を見合わせ、頷きあう。
「わかった。頑張るんだぞ、リリアーナ」
「そういうことなら応援するよ。僕らも、君を守れるくらいもっと強くなるからね」
俺たちがそう言うと、リリアーナはいつものような笑顔を見せてくれる。
「はい、お兄さま!」
――こうして翌日、俺たちは神殿に向かうリリアーナを、屋敷の門から笑顔で見送った。
とはならず……。
心配のあまりリリアーナを神殿の前まで送り届けたら、なぜか俺たちまで中に招かれて――という展開になるのだが、それはまた次の話。
次回『いざ、神殿へ』