18.人喰い大蛇
俺は眠っているユリシーズを背負い、出口へと引き返した。
けれどところどころ壁が崩れてしまっているせいで、灯りのほとんどが消えてしまっている。
行きにグレンから渡されたランプはあるが、せいぜい五、六メートル先が見える程度で、どうしても距離感覚が掴みづらい。
自分がどこを歩いているのか、わからなくなってしまいそうだった。
(落ち着け……。大丈夫だ、行きはほぼ一本道だった。途中何度か脇道はあったが、どれも先は行き止まりの細道。まず迷うことはない。それに、俺は一度ここの地図を覚えたんだ)
昨夜グレンに叩き込まれた鉱山の地形と坑道の地図。
俺はそれを必死に脳内に思い描く。
見るのと実際とでは全然違うが、それでも、知っているか知らないかでは大きな違いがある――それは、多少なりともアドバンテージになるはずだ。
(……大丈夫、大丈夫だ)
俺は五感を研ぎ澄ませながら、慎重に、だが確実に足を進めた。
けれど五分ほど歩いたところで、急に息が上がってくる。
(……くっそ。想像以上に傾斜がキツい。行きは緩やかな下り坂だと思ったのに)
大人一人を背負っているのだから当然とも言えるが、予想より足への負担が大きい。
重力が――強い。――身体が、重い。
「……っ」
更に悪いことに、さっきから右足がズキズキと疼くのだ。
崩落現場で倒れたときに捻ったのだろう。捻挫とまではいかないが、右足を踏み出すたびに鈍い痛みに襲われる。
(この痛み……懐かしいな。……中学以来か)
――中二の夏。部活の練習中に右足を痛めた俺は、約二ヵ月を棒に振った。
きっかけは覚えていないが、最初は今と同じくらいの痛みだった。
けれどバカだった俺は無理をして悪化させ、チームメイト全員に迷惑をかけたのだ。
あのとき俺は、二度と無理をしないと学んだのに……。
「……今は、そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよな」
正直、足は痛い。すごく痛い。
このまま負荷をかけ続ければ、あのときの二の舞になるのは確実だ。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。――そもそも、俺の足が使えなくなったところで困る奴なんて誰もいないわけだし。
それに魔法があるこの世界なら、その魔法の恩恵に預かることさえできれれば、怪我なんて一瞬で治してもらえるわけで……。
つまり、こんなことを考えること自体が不毛。そんなことはわかってる。
――でも、だからこそ。
「俺……何でこんなところにいるんだろうな、ユリシーズ」
リリアーナが心配だった。自分がラスボスにならないために現場を見ておきたかった。
そう思って付いてきた末の、この結果。
あっさりとシナリオの外側に放り出され、何もできずに逃げ帰る自分。
役立たずなだけならまだいい。
それがまさかユリシーズに怪我をさせるって……俺、いったい何やってるんだよ。こんなことになるなら、俺が怪我した方が百倍マシだった。
情けない自分に……本当に腹が立つ。
――だが、今はそんなことを考えている場合じゃないということもわかっている。
俺が今やらなければならないことは、自分を責めることではない。ユリシーズを守ることだ。
それだけは絶対に、絶対に忘れてはならない。
(しっかりしろ、俺。今はユリシーズのことだけ考えろ)
ゆっくりと肺から息を吐きだして――今度は、大きく吸い込む。
空気は悪いが、それでも、脳に目一杯の酸素を送り込む。
そして気合いを入れ直し、脳内で出口までの距離をはじき出した。
――入口から崩落場所までにかかった時間はおよそ二十分。
だが、うち半分以上は魔物との戦闘に費やした。
ということは、実際に歩いた時間は長くて十分。歩行速度は分速八十メートル……だが、実際はもっと遅かっただろうし、立ち止まったりもした。それを考慮すると、分速六十メートルくらいだろうか。
――となると……。
(せいぜい六百メートルってところか。だが既に半分は過ぎているはず。つまり残りは三百メートル。……ハッ、楽勝だ)
こうやって数値に表すと、漠然とした不安が消える気がする。
データは希望にも絶望にもなり得るが、出口があるとわかっている今は希望の方だ。
このまま魔物と遭遇しなければ、五分後にはマリアのところに辿り着けるのだから。
――だがそう思ったのも束の間、俺は直感的に足を止めた。
前方から、何かが忍び寄る気配がする。
「とうとう来たか……」
俺は背中からユリシーズを下ろし、地面に横たえた。
グレンは逃げてもいいと言ったが、この狭い坑道で、迫りくる魔物から逃げきるなど不可能に近い。
たとえ逃げたとしても、今の右足の状態ではすぐに追いつかれるに決まっている。
つまり、倒す以外の選択肢は――ない。
「俺だって、やるときはやるんだよ」
俺は自身を鼓舞するように呟いて、聖剣を引き抜いた。
正面で構え、近づいてくる敵の様子を伺う。
そして数秒の後、暗闇から姿を現したのは、瘴気をたっぷり吸いこんだであろう巨大な蛇だった。
「……っ」
(――でかい)
長さは十メートル近く。大きな顎に鋭い牙、魔物特有の赤い瞳。
食事の後なのか、胴がいびつな形に盛り上がっている。
そのシルエットに、俺はどうしようもなく勘づいてしまった。
「……こいつ、まさか……」
(人間を……喰ってやがる……!)
ここに入ったときから違和感は感じていた。
マリアは遺体が放置されていると言ったのに、実際は誰一人見当たらないことに。
俺はその理由が、ここが入口付近だからだと思っていた。
けれど違ったのだ。この蛇が、人間の身体を丸呑みにしていたからなのだ。
「――っ」
ああ……駄目だ。怖い。怖くて……足がすくんでしまう。
魔物は人を襲う。それはグレイウルフと戦って、よく理解していたはずなのに。
ユリシーズが隣にいないことが、自分一人で戦わなければならないことが、こんなにも恐ろしいことだったなんて……。
――でも……。
「……来いよ」
ユリシーズは俺を守ってくれた。だから今度は、俺がユリシーズを守る番だ。
それに、俺が手にしているのは聖剣。天下の大神官、サミュエルの聖剣だ。蛇ごときに負けるはずがない。
俺は大蛇を見据え、剣先を向ける。
「お前は俺が倒す。これは決定事項だ」
魔物に人間の言葉がわかるわけがない。まして蛇だ。犬や猫ではなく、蛇。
そんな奴に、何を言ったって無駄。そんなことは百も承知だ。
けれどそれでも、俺は言わずにはいられなかった。
殺さなければ、殺される。
そんな状況で、俺はそうでも言わなければ、今にも逃げ出したくなる気持ちを抑えてはいられなかった。
「殺ってやる」
こいつは俺がここで殺す。
それ以外に、俺たちが生き延びる方法はないのだから。
俺は蛇と睨み合う。
そして数秒の後――蛇が動きだすと同時に――俺は一気に間合いへと踏み込んだ。