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おばけの話

人食いおばけ

作者: 遠野なつめ

深夜のアパートの一室。

住人の篠田は、布団に横たわって暗い天井をぼんやり眺めていた。

最後に穏やかに眠れたのは、もうずいぶん前のことだ。目を閉じてもなかなか眠れず、うとうとしたと思えば悪夢を見て跳び起きる。目の下には濃いくまができていた。


何度目かの寝返りを打って、枕元の端末に手を伸ばす。ニュースアプリから他県の交通事故の通知が1件届いていた。画面をタップして、轢き逃げの記事を流し読みしたとき。


玄関の扉を叩くような音がした。

何かがぶつかったのかもしれないし、こんな夜中に人が訪ねてくるのは悪戯の類かもしれない。訝しく思いながら顔だけを玄関に向けていると、さっきと同じ音がした。


こんこん、と音が鳴る。

少し遅れてインターホンが鳴った。


篠田は起き上がって布団を出ると、裸足にサンダルを引っ掛けて玄関に立った。ドアを細く開けて様子を確かめる。年端もいかぬ少女が一人で立っていて、ドアを開けた篠田に挨拶をした。


「こんばんは」


背丈は篠田の胸のあたり。おろした黒髪に、膝丈までのワンピースを着て、足元は黒い靴を履いている。服装は整っていたが、夜中に知らない子どもが訪ねてくるのは奇妙だった。


篠田は訝しみながらドアを開け、目の前の少女に話しかけた。


「どうしたの、こんな時間に」


少女は黒目がちの瞳で篠田を見上げた。


「はじめまして。おなかがすいたので、あなたを食べにきました」

「僕を?」

「はい」


「どこから来たの? おうちの人は?」


篠田は腰をかがめて問いかける。警察とはあまり関わり合いたくないが、状況によっては警察に保護してもらうべきだろう。少女は考えるように首をかしげてから「わかんない」と答えた。


「君の名前は?」

「名前。わたしは人食いおばけです」


少女は玄関で靴を脱いで揃えると、室内へと足を運んだ。


「おじゃまします」

「いやちょっと待って……」


勝手に部屋に上がった少女を追って、篠田は部屋に引き返した。礼儀正しいのか無礼なのか分からないが、どこか浮世離れした振る舞いだった。人の家に勝手に上がってはいけないという常識が無効化されて、何か別の法則が適用されているように思えた。


部屋から玄関に目をやると、そこにあるのは自分のスニーカーだけだった。少女が脱いだはずのローファーが見当たらない。若干の疑問が湧いたものの、篠田の意識に上らず沈んでいった。脱いだ靴のことよりも、目の前の少女のほうが優先順位が高い。


小さな玄関の脇に洗面台とユニットバスがあり、その先に洋室が一部屋。

趣味や娯楽の品は少なく、布団の周りに畳んだ服が積まれている。座卓の上には書類が重なっていた。


篠田は服を端に寄せ、書類を床に下ろして場所を空けた。


座卓を挟んで少女と篠田が向かい合う。少女は足を器用に折り畳んで女の子座りをした。


篠田は彼女の体をさりげなく確かめる。顔色が少し悪いようだが、服から出ている範囲に傷やアザは見当たらない。


「今さっき、君は人食いおばけだと言ったね。僕のことを食べに来たとか」

「うん。長いこと食べてなくておなかがすいてるの。お兄さんを食べてもいいですか?」

「……お腹空いてるなら何か用意するけど」


そうはいっても、部屋にあるのは期限切れの食パンぐらいだった。

篠田の提案に、少女は首を横に振った。


「ううん。それならあなたが食べて。なんか元気ないし、ちゃんとごはん食べてないのかなって」

「お金ないし、食欲もないんだ」


人食いおばけと名乗る少女は、しょうがないなあと言いたげな顔をする。


「そんなのだからおばけがくるんだよ」


篠田はその言葉を頭の中で繰り返す。おばけが人間を取って食うのなら、確かに自分は食われる側だろう。自分は過ちを犯したのだから。


午前11時過ぎ。終業式を終えた児童が、帰り道で車にはねられて命を落とす事故があった。

運転手は住宅街を直進している最中に、曲がり角から出てくる子どもを見落としたのだ。


被害者は佐藤大地、10歳の男の子だった。

篠田は彼の命を奪った側だ。


蛍光灯の明かりの下。篠田は少年の顔写真を取り出して示した。眼鏡をかけた子だった。

少女に促されて、小さい声で出来事を語り始めた。


遺族に謝罪の手紙を送ったら、弁護士を通して「読むのがつらいから送らないでほしい」と要望があったこと。ものを食べても味が分からず、布団に入ると事故の夢を見るようになったこと。篠田の名前が報じられ、自営業をしている故郷の家族に嫌がらせの電話が届いて、経済的にも支障が出ていること。


雇用主は篠田に「君はまだ若い」「心身をゆっくり休めてから再出発するといい」と話して、退職と精神科の受診を勧めた。


故意じゃないとはいえ、メディアで報じられている死亡事故の加害者を雇い続けるわけにはいかない。


家にいるようになった篠田は、身辺を整理する傍ら、処方された薬を手元に貯めた。


「遺書を書いて、数十錠をまとめて飲んだ。量は調べたし、もう目が覚めないはずだったんだけど」

「うん」

「次の日の晩に床で目が覚めた。錠剤が混ざったゲロまみれでさ。僕は失敗したんだ」


少女はうなずいて、穏やかな声で返事をした。


「そうか。でも、お兄さん生きててよかった」

「なんでだよ」

「お兄さんが死んじゃっても、その子が生き返るわけじゃないからね」


分かり切った事実を指摘されて、篠田は顔をしかめた。


「……僕自身が逃げたいだけ。死にたくない子が一瞬で死んでしまって、死にたい奴がこんなにしぶとく生きてるのはおかしいと思う」


少女は「そこでわたしの出番です」と口にした。


篠田は座卓に肘をついて目を伏せていたが、顔を上げて少女を見やった。


「人食いおばけって、死神みたいなものか?」

「似てるけど違う。わたしは死神に会ったことはないんだけど、死神に連れていかれた人は死んじゃうよね。わたしは“存在”を食べるの」


目の前の存在は、自分がどのようなものかを話し始めた。


篠田は多少の関心を抱いて、彼女の話を頭の中で整理する。自分だってつまらない身の上話を聞かせてしまったんだから、真偽はさておき少女の話も聞いてみよう。警察に引き渡すのはその後でもいいか、と思った。


彼女は旅をしながら、季節が巡るごとに人間を食べている。春夏秋冬で一人ずつ。一年に四人。


人間を食べるのは、空腹を満たして生きていくため。それ以外の食べ物や動植物からエネルギーを得ることはない。食事自体は可能だが、食べても栄養源にはならないらしい。


「世の中には君以外にもおばけがいるのか?」

「んー、会ったことないから分からない。人食いおばけってのも“猫”とか“たんぽぽ”みたいに決まった種を指す名前じゃないんだ。わたしが勝手にそう名乗ってるだけ」


中学生のときに、理科の授業で生態ピラミッドを習ったのをぼんやり思い出した。上位の捕食者ほど個体数が少なく、図で表せばピラミッドの頂点に近いところにいる。


他の個体に会ったことがないのなら、数は相当少ないんだろう。頂点捕食者というやつだろうか。


「しかし、人間を食べるなんて、みんなに知られたら大騒ぎだろう」

「それは大丈夫。わたしが食べたら、その人が存在したっていう証拠が消えるから。周りの人の記憶もなくなって、きれいに消えてしまう」


最初から存在しなかった者。

篠田は息を呑んだ。そんなことが起き得るのか。


「信じられない」

「証拠を見せられないのが残念だけど、信じてくれるとうれしい。たとえ話をするね」


少女はひとつの例を挙げた。


「兄弟がいて、わたしが弟のほうを食べたとしたら、兄のほうは一人っ子になる。弟が死んだとか行方不明になったとかじゃなくて、初めから弟はいなかったことになるから、悲しんだり探し回ったりもしない。お父さんお母さんも一緒」


ちょうど、篠田にも兄が一人いた。家業を手伝っている兄。この話が事実なら、篠田家に自分はそもそもいなかったことになるらしい。


「もし僕が君に食べられたとして、大地はどうなる」

「元々存在しないから、車を運転することもない。あなたが事故を起こすことはなくなるよ」

「……そうか」


あなたを食べてもいいかな、と少女は問い直す。


──本物だ、と悟った。


警察に通報しようとはもう思えない。これは少女と自分の問題で、第三者が挟まるべきではないのだ。


自分がここで捕食されれば、佐藤大地は死なずに済み、互いの家族が苦しむこともなく、目の前の少女の空腹を満たすこともできる。ずいぶん好条件だった。


はいを言おうとして、息が苦しくなった。

体が震えて、承諾とも拒否ともつかないうめき声が漏れた。少女から目を反らして、片手で口を覆う。吐き気がした。


大丈夫かと問われて、黙って首を縦に振った。

少女は彼に言葉をかけた。気遣うようでもあり、ゆるやかな脅しのようでもあった。


「無理にとはいわない。すぐ出ていって、だれか他の人を食べに行くよ」

「……いや」


嘔吐はしない。喉元につっかえた言葉を吐いた。


「行かないで、僕を食ってほしい。でも、正直怖いんだ。自分が消えてしまうのもそうだし、おばけに食われるのは痛いんだろうなって」


人の命を奪っておきながら、自分が受ける恐怖や痛みばかり気にするなんて浅ましいと思う。


彼の反応を見た少女は、軽蔑する様子もなく「正直でよろしい」と言った。誰かの言葉を真似たような口ぶりだった。


「情けないとか弱いとか、そういうのじゃないと思う。薬の件も、今のその反応も、あなたを生かすために体が精一杯動いてるってだけのこと」


ちょっと聴いてと口にして、少女はなにかの歌を口ずさんだ。

どこの言葉かは分からない。異国の言葉で、風が吹き渡るような響きの歌を歌った。歌に耳を傾けながら、篠田は呼吸のリズムを取り戻す。きりのいいところまで歌い終えて、少女は説明を加えた。もっと聴いていたいと思う。


「だいぶ前に、わたしはある人を食べたんだ。その人が好きだった歌が、わたしにも歌えるようになった。誰かを食べることで、相手の経験や能力の一部が流れ込むの」


自分という形を失っても、完全に消えることはない。目の前の存在の一部になって、これからも旅を続けるのだ。体の震えはもう治まっていた。


「手を握ってるから。一緒に行こう」


篠田は承諾した。

電灯の紐を引いて、照明を落として床にあおむけになる。

少女は横にひざまずいて、小さな手で篠田の手を握った。ほのかな温かみが伝わってくる。


篠田は口元に笑みを浮かべて、目を閉じた。

いただきます、と少女は呟く。


少女の姿がほどけて、無数の触手が篠田の身体を覆った。腕ほどの太さの触手に胸を貫かれて、体が一度大きく跳ねる。人の手指を象った黒い触手が、最後まで篠田の手に絡んでいた。



アパートの一室。

人食いおばけは捕食を終えて、少女の姿に戻っていた。先と同じ黒髪に膝丈のワンピース。

先と違うのは、久しぶりの食事を終えて頬に健康的な赤みがさしたことだ。


先ほどまで篠田が暮らしていた部屋からは、生活の形跡が消えていた。布団も家具もない空き部屋。

窓にはカーテンもなく、朝の光がフローリングの床を照らしていた。


篠田を捕食しているとき、おばけの頭にいくつかの風景が流れ込んだ。

女学生に交ざって看護学校に通い、教室でノートを取った。実習で指導教員から熱心な指導を受けていた。注射を怖がる子どもに声をかけて、大丈夫だと手を握ったりした。そして、夜勤明けに車で帰宅していて、住宅街で小学生を跳ね飛ばした。顔色を変えて駆け寄る篠田。


おばけは学校に通ったことはなかったが、人体の仕組みや看護の手技が継承された。


「看護師さん、だったんだね。ごちそうさま」


表札のない部屋を出て、朝の道を歩き始めた。



それから少し経った日のこと。


篠田が暮らしていた隣の町で、おばけは図書館を訪ねていた。

図書館はおばけに優しい場所だ。座っているだけなら身分証明書はいらないし、周りの人も「子どもが本を読んでる」としか思わず、それ以上の注意を払うことはない。文字を読み書きできるようになってからは、おばけは少女の姿で図書館に行き、本を読むことを楽しんだ。


多くの人間が世の中で動き回って色々なことを書き残している、という事実が面白い。もしかしたら同種のおばけについての情報に出会えるのでは、と淡い期待もあった。


棚から何冊かの本を取って席に座るとき、自治体の広報誌のラックが目に留まる。ご自由にお持ちくださいと表示があった。


席について広報誌を開くと、表紙をめくったところに大きな写真があった。

小学生の自由研究のコンクールがあって、記事では授賞式を特集していた。眼鏡をかけた少年が、檀上で照れるような笑みを見せている。


どこかで知った顔だなと思って、いつかの夜にアパートを訪ねたことを思い出した。

確か、男の人と話をして、そこで久しぶりに食事をしたのだ。食べた人間の名前をわざわざ思い返したりはしないが、コンクールの受賞者には見覚えがある。


写真の下には学校名とともに「佐藤大地」と名前があった。

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