シュセンド・2
惑星アクラム、競争国家であるペリウドキングダムでは、言葉の通りに争いが絶えなかった。
それもそのはず、ペリウド民のその生まれ持った性質は、物ごとに優劣や勝敗をつけたがるものである。人より抜きん出るか、力で屈服させるのか、遅れ油断する者には死、あるのみか……安らぎからは、程遠い国家である。
そこから逃げるようにして船に飛び込み、今はアーノルドに拠点を移住しているガタイの大きい男がいた、名を直人といった。幼少時、まだアクラムにいた頃は寺に預けられ鍛えられていたのだが、気がつけば脱走していた。外見からの体格の割には、逃げという事実の弱みがある……それが彼の、常時の悩みだった。
「今朝は風が気持ちいいな……」
少し伸びて襟足にまでかかっている真っ黒の髪の隙間から、汗が噴き出ていて光っていた。洗濯された物を干しながら、狭く老朽化したベランダで青い空を眩しそうに見上げていた。
もう何年、十何年と住む傾きかけた古いアパートでの彼は非常にカタブツで真面目で、朝は4時起床、夜は9時就寝、3日に一度の身体測定、健康診断、自己補正ときっちり習慣づけていた。元々『休む』という概念の乏しい彼だが、休むと決めると思いきり羽をのばしている面もある。
一部が崩れかけている屋根を持ち、あまり大音を出すにはよろしくない危険環境なのだが全くおかまいなしで、元気な明るい声が下の階の住民から響いてきていた。
「直兄ちゃあん、おかあちゃんがお昼一緒にどおですかあ、ってえー」
呼びかけてきていたのは、まだ4歳くらいの子どもである。直人は洗濯物の空になったカゴを部屋のなかへ入れて片付けて、それからベランダ越しに下の方へと返事をした。
「いつもすみません、すぐ行きます」
余裕を持った口調で返していたのを勢いで押す子どもの声が、また響いていた。「ああんいいよお、そんな遠慮してないで、早く来てえー」子どもは身を乗り出して欄干にもたれ、顔を覗かせていた。「わかったから待て、すぐに行く」直人は子どもに危ないからと、注意を喚起していた。
言われて子どもが引っ込んだ後は空中からトカゲのような細胞組織を持つシオマキトンボが飛んで来て、ベランダや壁に何匹と張り付いてしまってそれからは動かなかった。此処ではよく見る光景だったが、容姿の面ではあまり好まれる生物ではなく、むしろ害虫扱いされている地域もあった、直人はすでにそれを充分に承知していた。
(無駄な殺生など、せぬゆえ……)
直人という男は誠実で、優しい男である。毒性を持つなどといった、たとえ害ある対象だったのだとしても、むやみに壊そうという気はなかなか起きない、そっと摘んで外の世界に出してやりたい、害ある物でも壊さない――いつかそれが、自分に災いとなって降りかかり襲い訪れる日がやって来るのだろうと……直人はすでに予想し終えて、頭のなかの何処か片隅に物わびしくも置いていたのだった。
下の階の住人たちと和気あいあい、食事を終えた直人は、自分の部屋へと戻る時にドアポケットから数枚のビラを抜き取りつつ目を通していった。そのなかの一枚に、ピタとめくる指が止まっている。「ほう……」『並木公園にて大サーカス来たる』と大見出しで書かれていたそれに、直人は関心を持っていた。
「セイラを連れて行ってみるか、きっと喜ぶだろう」
今後の予定を決めて直人は、ビラを折りたたんでカラーボックスの上に置いていた。横には飾り気のない、シンプルな木製ツートンカラーの写真立てが置いてあり、白いモコモコとした毛の犬を抱えていた女性が直人と並び、微笑んで写っていた。
翌日のことである。シャット・アンド・セット[拡大/縮小制限ON/OFF切替可能]装置を内蔵したメディアツール『携帯こみゅ』シリーズのうちのひとつ、装着していたメンズ用腕時計から直人の脳へと送られてくる情報のなかで、『トキノ会長、殺害さる』と事は大きく報道されていた。
それによると、競売にかけられた“禁じられた壺”は、せっかく落札されたにも関わらず新しい持ち主を失い、行き場を失くしかけていた。所有の期限が近日で切れるため、代わりの保管者を決めなければならないという。討議の結果、アーノルド取引委員会により、壷は次点であるクルミモダカ副理事長が繰り上げ落札するに落ち着き、渡ることになった。
主な報道内容はどれも同じように見え特に変わった所はなく、各マスメディアから発信されて、我いち先にと急ぎ伝えられていた。だがしかし世間の関心を集め目が向けられるのは『落札者が殺害された』という事実の方ばかりで、媒介が紙面であっても、端に寄せられていたたった一行だけの小さな事実には、誰も注目はしなかったのだった。
“トキノ会長の左小指、不明”――と。
……
……闇取引市場、ラッカルド。本拠地を知る者はいないか、口を絶対に割らないという暗黙の契りがあった。万が一の裏切りには、それ相当の制裁が待っているため覚悟を要している。
神出鬼没で行動する『ゼニ屋』と呼ばれた者たちのことを総括してラッカルと呼ぶ。また、分派ごとの総長にあたる者を指してラッカルともいう。ラッカルの集まる場所が、ラッカルドである。
ゼニ屋は、有力な政治家、人望のある権力者、スポーツ界のヒーロー、神と呼ばれた芸術家、など、優秀で明るい未来と期待、現行を保っている光の者の首に唾をつけ懸賞金をかけていた。ラッカルと密会し、自分の取り分を算段、交渉して金額を決定、そして施行する。光の者が重役、重要なほどことさら金額は上昇し桁が全く違ってくるという。需要の数と量に応じて供給が必要となるのだとすれば、ラッカルは、実質に答えただけである。
法が無かった。
無法地帯は領域を余す所なく広げていき、星の大気圏を超えていっていた。
「やあ」
まずは、挨拶が決まりだった。礼儀の欠ける者とは誠実な取引はしないというのもラッカルドの掟である。「やあ……お早うございます」
頭を垂れて、真也はPP袋に入ったゴミのようなそれを袋ごとゼニ屋である相手に引き渡していた。2人が面会した場は見晴らしのよい大庭園、先日にも訪れた、有緑公園である。時はまだ早朝、辺りには人影もなく、小動物たちもぼそぼそと活動し始めた頃合いだった。
手から手へと手渡しで受け取った相手は袋を開けて中身を確認することはなかったが、「確かに」と相槌を打っていた。
薄く笑った口元しか見せず、心中は想像し難かった。一部しか肌を露出させていない重装甲の服[パーフェクト・スーツ]は、相手の自然的な動きからでは非常に軽く見え、不便など皆無だろうと思えていた。
「確かに受け取った。これからシカンへ運んで行って、検証してこよう。もし、これがあのトキノ本人のものだと照合一致で決が出たら、また連絡する……3日と約束しよう。3日待て、ええと君は……君の名は……」
指の関節や爪の先にまで細部に宛てがわれ強化されていた相手が、真也を面白そうに見ているとも仕草からとれていた。やはり口元が微妙に笑い、真也を少し不愉快にさせていた。しかし真也は、構わず自分の名を告げることにしていた。
「円比角 真也」
名前を明かすなど浅はかなと思われることもしばしば、だが、あまりにも堂々とし過ぎてそれが果たして本名なのかどうかが判断つきかねる所だった。「ハハハ!」相手はついに、声を上げて笑ってしまっていた。
「真也、だったか。聞いた覚えはなかったが、明かしてくれてありがとう……発音からすると、外宇宙語でそんなのがあった気がするな、カンジ、漢字? だったかな……とにかく、あんたの名前は何となく親しみやすいぜ、何でだろうな? カカカ」
茶化したようだが真也には通じていなく、何がそんなに満悦なのかが見当つかなかった。
「我も小体の一部を見せてやろうか」
相手なりのサービスだったらしい、胸甲の辺りを手で押さえると、真也の予想していなかったことが起きてひるみ数歩下がり、驚きを隠せなかった。相手の上部だけを装甲から外し現れる、窓が開かれたようにで、隆起に引っ張られたゴム状らしき素材の肌衣が現れていた。
相手は雌性、……女だった。
顔は残念ながら覆われたまま、判らなかった。「アデュウ」PP袋の絞りめを口に咥えて、ゼニ屋だった『彼女』は助走をつけて爽やかに走り去って行く……その時にちょうど、世界は朝の光に侵攻されていっていた。
朝露が零れている。此処はアーノルド、空気中の成分も燃焼への条件も水の変態環境も、法への定義もアーノルド式、ア流、ア録、ア紀、基本的に無法で自由、アーノルド・フリー、事象は時間の節約。適当と言ってしまえばそれまでで、アーノルドはあくまでも『準惑星』、『発展途上』、“造りかけの宇宙”だった。生まれた者に初に与えられるもの、それは――
「名前か……」
ふと、成という少女を思い出して、境遇の一致部分を考えていた。成はサーカスで働き、育てられ、生活している現在。つまりは親のいない、みなしご、という可能性がある……真也も親はおらず、成とは近い道を歩いているのではないかと窺えていた。
真也が自分について知っているのは、チクウという星? より来た船から、落ちてしまったことだった――それが事故か故意によるものなのか、定かではなく知る由もなかった。真也は、育ての境遇に拾われて、今現在に向けて発つ――
「クオリア……」
……
白い空を、見上げていた。光星の恒星は、美しく輝いていた。遠くでは、パン、パパンと花火の音が聞こえていた。大道芸人サーカスの開演日を知らせる一報だった。
……真也の足は、吸い寄せられるように道を決めて、順路に従っていった。次の……
真也、その名は、チクウから持ってきた自分の所有する唯一の物。知り得る少ない情報は自分が落ちて発見された時に育ての境遇たちにより与えられたもの……まだ物心つく前のことだと記憶の曖昧さを言い訳でカバーしていた。
真也という名前を手掛かりに親の身元を判明させることが可能かもしれない、だが真也、彼は自分の故郷や自分を生んだ者たちには特に興味が注がれなかった。気にするのは、先ほど手渡したトキノ会長の一部がちゃんと検問で一致し通るのかどうかだった。
彼は『シュセンド』である。