第8話 4-1 シノアリス
「少し寒いなぁ」
1人つぶやいた詩織はダウンベストのジップをひっぱり上げた。
最近、急に気温が下がってきていた。あたりの景色はすっかり秋の装いに変化している。街路樹は黄色やオレンジの葉に包まれて、鈍く朱色に染まっている。
鼻から午後の空気を思いっきり吸い込んだ。詩織は秋が好きだった。
彼女は今、隣町の幕張に来ていた。来年受験する予定の私立中学を母親と2人で見学に来たのだ。
校門から校舎までの歩道は背の高い欅並木になっていて、地面には枯葉が蝶々みたいに舞っている。
学校に着くとすぐに母親は保護者向けの説明会に参加したため、詩織は1人でブラブラと校舎の中を見学することになった。
あれから……。
荻窪歩との戦いから1カ月が経っていた。あの後、みそら小ではちょっとした事件があったけれど。結局、詩織達は新たなリングホルダーと出会っていない。
集めた指輪の数はリンコレメンバーが各自身につけているものと荻窪歩のリーディングの指輪の計4個だ。リーディングの指輪は今も詩織が持っていた。
リングホルダーとは祐一が考えた指輪を持つ人間のことだ。なんでも横文字に変換するのが祐一やささは大好きだった。
詩織は男子ってバカっぽいと思う反面、一緒にいるのがとても楽しかった。女子は詩織だけの仲良し3人組は女友達の目が少し気になるけれど……、それよりも3人で一緒にいる楽しさの方が上だった。
詩織にとってささと祐一は小学校に上がって以来、初めて出来た男の子の友達だ。
学校や塾、時には詩織やささの家で、指輪集めについて3人であれこれ相談していると、あっという間に時間が過ぎた。なんだか仲良し同士でクラス会の出し物の相談でもしているみたいに楽しかった。それに祐一は勉強がとてもできるので、詩織がわからないところを丁寧に教えてくれた。さすがは学年一の秀才で学級委員長。祐一はすごく頼りになる。それに仲良くなって初めてわかったのだけれど。一見、祐一は人見知りであまり自分の事を話さないし、笑わない。何を考えているのか分からないし、気難しく見える。でも、慣れてくると彼は責任感が強くて相手の事を思いやれる頼れるお兄さんキャラだと分かった。そして何より祐一は、一度友達になった人をとても大切にする誠実でまっすぐな人間だ。そんな祐一が詩織を友達として認めてくれた事が詩織は誇らしかった。たまにセクハラ紛いのエッチな言動も……、いやしょっちゅうあるけれど、今では詩織にとって祐一は大切な相談相手だった。
そしてささは、詩織にとって特別な相手だ。初恋の男の子とはろくに話もできなかったのに、ささとは不思議と思ったことをなんでも気楽に言い合えた。詩織には沢山の女友達がいるのに、その誰ともささのように心を開いて笑い合えない事に改めて気付かされた。
ささの少し可愛すぎるくらい整った顔を見ていると、詩織は体の内側の方がフワッと熱くなってドキドキした。
この気持ちは何なのだろう?
なんでささは他の人とは違うんだろう?
どうしてささの事ばかり考えてしまうんだろう?
最近、詩織は男と女が付き合う事についてよく考える。
もしささと付き合って結婚したら自分にはどんな将来が訪れるのだろう?
ちょっとした心の空白に、ささがすっと入り込んでくる。
ここのところ、詩織はささとの未来を妄想してばかりいた。ある時はとても幸せな家庭が築けるように思えたし、またある時は最近離婚した詩織の両親のように心の通わない男女の暮らしが思い浮かんで悲しくなった。ただの想像……。妄想なのに、ささとの悲しい未来を思うと涙が出てきた。
「私はささが好きなんだ……」
詩織は1人呟いて思いを噛みしめる。
おそらく….…。
ささも自分に好意を抱いているだろうと詩織は思う。ただそれが友達としてなのか、或いは女として見てくれているのか、詩織にはそこがよくわからなかった。
無邪気なささは自分に子供が出来たら「いおなと名付けるんだ」と詩織に言った。いい女になれとの願いが込められているそうだ。「男の子が生まれたらどうするの? 」と聞いたら、ささはそのパターンを考えていなかったので詩織は笑ってしまった。なぜかささは自分の子供は女の子だと決めつけていた。
それにしても……。
目の前の女の子に未来の話。とりわけ自分の子供について語る意味を、ささはわかっているのだろうか……。詩織はささの子供を育てる自分の姿を想像しようとしてみたけれど、うまくいかなかった。
そんな風に詩織はぼんやりと考え事、……と言うよりは甘い妄想に耽りながら、出来たばかりの綺麗な校舎を見てまわった。
建物は新築でどこも清潔でスタイリッシュな作りだった。ここはミッション系の学校なので敷地内には教会があり、体育館には大きなパイプオルガンがあった。
しばらく校内を散策した詩織は、敷地の一番奥まったところに別棟の図書室を見つけた。
何気なく図書室の中に入った詩織は息を飲んだ。その図書室は詩織の通うみそら小とは全てが違っていた。
まずその広さに圧倒された。そこは小学校の体育館ほどの大きさで、中は3階建ての吹き抜けになっていた。壁面の書架には沢山の本が並び、本棚の前には手すりのついた細い通路が走っている。吹き抜けの開放感がある部屋の中央には、読書スペースとしてアンティークな木製のテーブルが整然と並んでいた。
「すごい……。まるで映画に出てくる北欧の図書館みたい」
再来年には自分がこの場所で勉強しているかも知れないと思うと、詩織はなんだか急に怖くなった。
自分の周りの急速な変化。そのスピードに気持ちが追いつかない。ささや祐一との楽しい時間だって、父親がある日突然居なくなったように何の前触れも無く失われてしまうかも知れない。
最近、詩織は将来に対する漠然とした不安を感じていた。今あるものがいつのまにか無くなってしまって、すっかり様子の変わってしまった未来の自分を想像すると堪らなく怖かった。
「このまま何も変わらなければいいのに……」
詩織はため息をついた。
ここのところ彼女の気持ちは不安定だった。
それは詩織が先週、初めて生理になったからかも知れない。生理の痛み自体はそれほどでもなかったけれど、出血が多くて下腹部に終始どんよりとした重みを感じた。
体がだるくて何もしたくなくなる……。
こんなモノがこれから定期的に起こると思うと、なんだか謂れのない罪を被ったような気分だった。そして詩織は自分の将来にうんざりした。
なんとなく憂鬱な気分になった詩織は図書室から出ようとした。
すると。
肩に掛けていたリュックからガチョピンが顔を覗かせた。小さなぬいぐるみ型のキーホルダーは詩織に何かを伝えたいようだ。
ガチョピンは詩織の頬を「ポン、ポン」とさわり、体全体を使って図書室の奥へ行くように促した。
先日、荻窪歩からガチョピンの心の声を聞かされてから、詩織はこのぬいぐるみを不気味に感じてしまい、 いつもリュックの奥にしまい込むようになっていた。
以前は毎晩話しかけていた大切な思い出のぬいぐるみだったはずなのに、最近ではガチョピンの存在を重荷に感じたりもする。このキーホルダーは初恋の男の子に貰った物だという事実が、なんだかささを裏切っているような後ろめたさをまとっている。
キーホルダーのぬいぐるみに引け目を感じていた詩織は、たまにはガチョピンの言うことを聞いてあげなければという気分になった。
詩織はガチョピンをダウンベストのポケットにしまうと図書室の奥へと歩き出した。
図書室を奥へ進むと建物の突き当たりには大きな鏡があった。鏡は黒い波のような不思議なデザインの淵どりがなされていた。
「どうしてこんなところに大きな鏡があるんだろう? 」と思いながら、詩織は鏡に映る自分の前髪を整え、ざっくりとしたタートルニットのワンピースの裾を伸ばした。膝丈の淡いグレーのニットワンピは詩織のお気に入りだった。今日はこの後、ささや祐一と会う約束をしていたので、いつにもましてコーディネートに気を使っていた。夜に学校の校庭で季節外れの花火をやるのだ。
鏡に映った女の子は自分でもなかなかにかわいいと思えた。ダウンベストのポケットから顔を出したガチョピンは詩織の気持ちを察したように「うん、うん」と頷いたので詩織は少し笑った。
突き当たりの鏡を右に曲がると壁沿いにいくつかの扉があった。
「ここに何かあるの? 」と詩織はガチョピンに問いかけたが、ガチョピンは反応しなかった。
不意に。
リスニングルームとかかれた扉の1つが開いた。同時に詩織の右手人差し指の指輪が「ドクン! 」と脈打つ。
部屋からは学校の制服を着た女の人が出てきた。ここは中高一貫教育の女子校だから、彼女はこの学校の生徒のようだ。彼女は首に大きなヘッドホンをかけて、左手の肘から下には包帯を巻いていた。
出てきた女が詩織に気づいた。
詩織と女子高生の視線が絡んだ瞬間、2人は同時に涙を流す。指輪は急速に熱を帯びていく。
『もっとぉぉぉ、指輪をぉぉ、集めてぇぇ、そうすればぁぁぁ、あなたのぉぉ、願いがぁぁぁ、叶うからぁぁぁ! 』
あの声が2人の頭に響いた。しかしそれはこの間とは声色が違っていた。今聞いた指輪の声は大人びた女の気配がした。声を聞いた女子高生はびっくりした表情のまま、何故か包帯を巻いた左手を詩織へと向ける。
「リングホルダー!? 」
考えていた言葉が思わず詩織の口を突いて出た。
「リングホルダー? よくわからないけど……、あなた、この学校の生徒ではないみたいね。学校見学? 」
女子高生は詩織を刺すように見つめながら言った。
とっさに言葉が出なかった詩織は「うん」と短くうなづいた。
ヘッドホンに包帯の彼女は綺麗な人だった。わざとランダムに切られたボブヘアーに小さな顔。髪は明るめの茶色。透明感のある白い肌。眉は濃くはっきりとしたラインで、目元がやや下がり気味なところは優しい印象を与える。目の色はブラウン。ハーフだろうか。首が長く腰の位置が高くてスタイルがいい。短めのスカートから覗く白い足はとても綺麗だった。
(「凄く綺麗な人……。まるでモデルみたい……」)と詩織は思った。
「わたしは佐伯アリス、18歳。この学校の高校3年生よ。あなたは? 」
「わたしは、……福原詩織、小学5年生です」
おずおずと詩織が答えると、アリスは硬い表情のまま左手の包帯を撫でて言った。
「そう。それで詩織さん。あなたは指輪をいくつ持っているの? 」
「!! 」
詩織は狼狽した。なぜ佐伯アリスは詩織が複数の指輪を持つ事を知っているのだろうか。詩織は少し迷ってから右手人差し指に光る指輪をアリスに見せた。
「……そう。少なくとも2つは持っているのね。この間の出会いとは指輪の声色もフレーズも違っていたから、あなたは複数の指輪を持っているということよね? それはつまり誰かから奪ったということ。殺したの? それとも指を切り落とした? 」
詩織は荻窪歩の指を切り落とした時の事を思い出し、現実から逃げるように首を振って言った。
「殺してない……」
「そう。じゃあ指を切り落としたのね。そんな事が出来るようには見えないけれど、うまく猫をかぶっているの? まあ、いいわ。わたしも指輪を持つ人に出会ったわ。でも残念ながらわたしはあなたみたいにうまくいかなかったの。突然襲われて訳もわからず戦って、結局……、殺せなかった。迷っているうちに相手は逃げちゃった。だから……、今度は逃がさない。もうわたしには迷っている時間がないから」
そうキッパリと言ったアリスは、詩織に向けて突き出していた左手の包帯をスルスルと解いた。アリスの左手が露わになる。
「!? 」
詩織はその姿に言葉を失った。
アリスの左腕は肘から下が黒光りする鱗にビッシリと覆われていた。その鱗はひし形で魚のようだが、1つ1つがまるで呼吸するように上下していた。
詩織は驚いて口に手を当てた。そしてアリスの醜いその姿に(「自分がこの呪いでなくてよかった……」)と密かに思った。
察した様にアリスが言った、
「どう? 気持ち悪いでしょう? 名前がアリスなのに、これではまるで醜い人魚姫みたい。これがわたしの指輪の呪い。一度指輪の魔法を使うと2度と元には戻らないのよ。そんな酷い話ってある? 私は指輪なんて欲しくなかったのに。もう大好きなピアノも弾けないし、こんな醜い姿……、誰にも見せられない。詩織、わたしはね、ピアニストになるのが夢なの。でもこんな手では夢は叶わない。それどころか、こんな姿では誰にも愛されないでしょうね。だから今度は迷わない。あなたには悪いけれど、持ってる指輪を今すぐに全部渡しなさい」
鋭い眼差しでアリスは言った。
詩織は自分の右手人差し指にはまった指輪を見た。そしてささと祐一の顔を思い浮かべた。指輪はドクンドクンと脈打っている。
(「この指輪が私たちの繋がりの証……。それを失うわけにはいかない。指を切られるのも嫌だ。やっぱり……、戦うしかない」)
詩織はアリスを真っ直ぐに見つめて言った。
「わたしにも指輪が必要なの」
「でしょうね……」
素っ気なくアリスは頷いた。