一花繚乱
花火の音で目が覚めた。
「……そういえば、今日だった」
外からは大勢の人々の歓声が聞こえる。にぎやかな音に包まれながら、アレスは瞼をこすり、周囲を見回した。
ヒバナの姿がない。
「……」
ドンドンドンドン!
扉が乱暴に叩かれる。壊れそうなほどの勢いに、アレスは誰が来たのかすぐに察し、重い気持ちで扉を開けた。
「来い」
やはり――主だった。心底うんざりした表情で、アレスを見下ろしてくる。
アレスは頭を扉の枠にぶつけないように気をつけながら、外に出た。
「飯だ」
冷たい声とともに、首に鎖がかけられ、無言で引っ張られる。
痛いのは嫌だ。だから、アレスは何も言わず、ただ従った。
――いつも通りだった。
ヒバナは食事が与えられない代わりに、夜の自由行動が許されている。けれど、いつもは食卓まで一緒に来てくれるはずの彼が、今夜はいない。
(……嫌われたのかもしれない)
それも、当然のことだ。友人の死を止めようとしたヒバナを、アレスは邪魔してしまったのだから。
「お母さん! 今日はたこ焼きがいい!」
「いいわよぉ〜、いっぱい食べなさい」
「うん!」
通りすがりの親子の会話に足を止めると、主人が首輪をぐいっと引いた。
『花火大会は19時より予定通り開催されます。皆さん、存分にお楽しみください』
流れる放送を聞きながら、アレスは主人の横で地面に座らされる。
首につけられた鎖は、目の前の机の脚に固定されたフックに繋がれていた。まるで、犬だった。
けれど、それがこの世界の「普通」だった。周囲を見れば、同じように繋がれている者たちがいた。
「ほら、餌だ」
差し出されたのは、魚の不要な部位を潰して固めたような、見るからに残飯とわかる物だった。
アレスは何も言わず、それを手で食べる。
主人はというと、香ばしく焼いた魚のステーキをゆっくりと、タレをたっぷりつけて食べながら、アレスの視線を意識しているようだった。だが、アレスは見ないように目を伏せ、黙々と口を動かした。
牛肉は貴重だ。魚は漁で手に入るが、牛は育てなければならない。
この巨大な船には、下層の一角に農場があり、農奴と呼ばれる奴隷たちが毎日重労働を強いられていた。作物の運搬、水の不足、暑さと飢え――地獄のような環境だった。
(それに比べれば、私はまだマシな方)
そう思った瞬間、アレスの握る手に力がこもった。飲み込みそうになる涙を、残飯をかき込む勢いで抑え込む。
(でも、私だって……)
強欲な感情が浮かびかけた、そのとき。
「それ食い終わったら、俺の部屋に来い」
手が震えた。思わず、魚の破片を落としてしまう。
「返事は!!」
「……はい」
部屋――。これまで、決して入らせなかったその場所に、自分を呼ぶということは。
自分の体が、子供ではなくなったと認識された、ということ。
アレスは理解した。震えが止まらない。今までどこかで「自分は大丈夫」と思っていた。けれど、もう……。
主人が食事を終えると、鎖が強く引かれた。
「行くぞ」
頭の中が真っ白になる。あの、屍のように転がっていた同僚たちの姿が脳裏に浮かぶ。
もう、生きているとは言えない姿だった。
(私も……今から、ああなるの?)
その瞬間、本能が叫び――アレスは鎖を引いた。
「いやっ!」
「歯向かうな、このガキが!」
叫びながら、主人は拳を振り上げる。
そのとき――
ズン!
鈍い音とともに、誰かが目の前に立った。
見上げると、そこにはヒバナがいた。
「アレス。懐中時計、返すの忘れてたわ」
「え……?」
「ほれ、あとこれ土産な」
そう言って渡されたのは、懐中時計と、狐のぬいぐるみだった。
「プレゼントだ」
危機的状況の中で、変わらない笑顔。
「今、お前に用はねぇんだよ!」
リニアが怒鳴る。だが、ヒバナは怯まない。
「嫌がってるだろ。アレスを離せ」
「あ? 何やってんのかわかってんのか?」
「離せって言ってんだよ!!」
「奴隷が、生意気な口きいてんじゃねぇ!!」
拳が飛び、ヒバナは机に吹き飛ばされた。
「ぐっ……でも、もう奴隷じゃねぇ。身代金は払い終わったんだよ」
ヒバナは書類を差し出す。
「……な、なんだと……! てめぇら、まさか俺の遺物を……!」
「違う。これは死んだ仲間からの贈り物だ」
リニアの顔が怒りに染まる。再び拳が振るわれ、ヒバナは血を吐く。
それでも、ヒバナは立ち上がり、アレスの前に立ちはだかった。
(ヒバナは、私ができなかったことをやってる……)
アレスの胸に、込み上げるものがあった。
「安心しろ、絶対に守る」
――その姿に、少女は惚れ直す。
しかし、リニアの顔が真っ赤になり、銃を取り出した。
アレスは反射的にヒバナを押し倒す。
銃弾が、アレスの背を掠めて通り過ぎた。
(……本気だ)
そう確信し、アレスはヒバナを見つめる。
「ヒバナ……」
「アレス! 大丈夫か!」
その頬に、アレスはそっとキスをした。
「えっ」
「昨日のフェリーに……身を潜めて。後で合流しよ?」
アレスは懐中時計をヒバナに握らせる。
「ヒバナが持ってて」
そして、群衆にヒバナを押し込む。
「【絶対、船内で待ってて!】」
ヒバナは何かを叫びながら、群衆に埋もれていく。
アレスは――覚悟を決めた。
(私の命、すべて使って時間を稼ぐ)
リニアの額に血管が浮かぶのを見て、アレスは叫ぶ。
「ご主人の――粗○ーーーん!!!」
周囲に爆笑が走る。
「うわ、小さい子に手を出してるとか……最悪」
恥と嘲笑が、リニアを包む。
『あははは! 頑張れ、アレスちゃん』
幻聴かもしれない。けれど、セーナの声が確かに聞こえた気がした。
アレスは、最後の決意を込めて微笑む。
「見ててね、セーナ。私の一世一代の大立ち回り」
そして、走り出した――英雄のために。




