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Graduations

作者:

 卒論を提出した。もう少し修正するつもりで昨日寝たけど、起きてみたらもう何もしたくなくて、そのまま印刷して出してしまった。寮と大学を往復する静かで苦しい日々からの開放を喜びたいけど、学生生活の集大成をこんな無意味な二万字に終えてしまったという後味の悪さもあって、素直に喜べない。

 しかし、とにかく終わった。論文提出窓口である事務室を出て、喜ぶことも悔いることもしたくない私は、かえって冷静にこの後のスケジュールのことを考えていた。研究室での打ち上げの誘いも断って、私には行かなければいけない場所がある。

 私は今日、推しに会いに行く。


 推しがグループ卒業後初めて単独コンサートをする。しかも私の卒論締め切り日に。知ったときはうれしくて、すぐにチケットを取った。

 推しは松久彩乃という、私より一歳下の女優だ。四年前、シエスタというアイドルグループを卒業した。私が受験勉強を終えてこれから存分に推そうというときの卒業発表だったからかなりショックだったが、卒業後も映画に舞台にと供給は絶えず、私は何とかオタクを続けることができた。そんな彩ちゃんが、今日は久しぶりに歌ったり踊ったりを見せてくれる。アイドル時代から応援している身として、ものすごく楽しみだ。


 寮に帰って身支度をして、すぐに駅に向かった。卒論に集中するための、食事も服装も適当な誰にも見せたくない数週間が終わったんだと、久々の化粧をしながら実感した。

 駅に着くと運よくすぐに電車が来た。ドアのすぐ横の席に座って、ツイッターを開いた。しばらくSNSも見ないようにしていたから、彩ちゃんについて何か見逃がしている情報があるかもしれない。ライブMCで知らない話が出てきたら嫌だから、彩ちゃんのツイートを確認しておこうと思った。

 彩ちゃんは数日前、「最近お気に入りの曲、踊ってみました」というコメントともに、ダンス動画をツイートしていた。普段は電車で動画は見ないけれど、今日はすぐさまイヤホンをつないだ。

 動画は、ラフなレッスン着を着た彩ちゃんが、去年頃から流行っている韓国アイドルの曲を踊ったものだった。私はオタクをやっているせいか日本のアイドル以外の流行に疎いが、その曲は錆だけは聞いたことがあるものだった。

 さすが、彩ちゃんだ。彩ちゃんが踊りだしたその瞬間から、私はそう思った。リズムの取り方や細かい手のしぐさに加えて、曲の盛り上がりに合わせた表情の切り替えや、カメラへの目配せ。シエスタの曲と雰囲気は全く違うけど、久しぶりに彩ちゃんがアイドルをしてくれいてる、という気がした。

 私が彩ちゃんを好きになったきっかけはダンスだった。まだ中学生だった彩ちゃんが、一生懸命な顔で汗だくになりながら、卒業したメンバーから引き継いだダンスパートを踊るライブ映像に衝撃を受けたのだ。他のダンス自慢のメンバーに埋もれがちだったが、キレだけじゃないアイドルらしい踊り方で、リズムを確実に取る彩ちゃんのダンスが大好きだった。

 だから、卒業して女優になると発表したときは、本当に受け入れられなかった。彩ちゃん自身も、ダンスが大好きだと色んなところで言っていたのに。自分より年下だし、まだしばらくアイドルの彩ちゃんを見られると思っていたのに、彩ちゃんは十八歳であっさりとグループを辞めてしまった。

 そんな風に彩ちゃんとの思い出に胸を熱くしているうちに、動画が終わった。感想を呟こうかと思いながら画面をスクロールしていると、この動画ツイートに対するリプライが目に入った。多数のファンの称賛に並んで、シエスタファンを公言している女性タレントの、「彩乃ちゃんさすがです」というツイートもあった。私は自分の感動を冷まさないために、コメントせずにスマホを閉じた。

 スマホから目を離すと、数駅前から隣に座っていた女子高生の、膝の上のスクールバッグが目に入った。そこには紛れもない、シエスタのロゴと、彩ちゃんの顔写真の缶バッジがついていた。私が思わず彼女の顔の方へ視線を向けると、彼女もこっちを見ていたようで、目が合ってしまった。

「すみません! たまたまスマホが目に入って、彩乃ちゃんの動画見てるなって思って…。私いまから彩乃ちゃんのライブ行くんですよ。だから気になっちゃって…」

「…私もそのライブ行くところだよ、今」

 人と話すのが久々だったこともあり、少しぎこちない返事をしてしまったと思ったが、彼女は嬉しそうに話を続けてくれた。

「ほんとですか? あの、会場まで一緒に行ってもいいですか? 私、いつもは友達と彩乃ちゃんの出演作見ることが多いんですけど、今日は彩乃ちゃんしか出ないから誘いづらくて。一人で行くの不安だったんです」

 正直、初対面の相手と会場までの時間を過ごすことが私には不安だったが、断る理由もないので承諾してしまった。

 彼女はヒナという名前で、高校三年生だそうだ。たまたま見た映画に彩ちゃんが出演していて、そこからファンになったらしい。その映画は彩ちゃんがグループを卒業して初めての女優仕事だった。鞄につけていたバッジは、今回のライブに行くと決まってから、中古で買ったものらしい。

「さっき見てた彩乃ちゃんのダンス動画、めっちゃ良かったですよね」

「良かったね。私、加入してすぐの真顔で踊る彩ちゃん知ってるからさ。あんな表情するなんて…って感動しちゃった」

「わかります。さすが女優さんって感じですよね」

 久々にアイドルの彩ちゃんを見た、と続けようとしていた私は、言葉に詰まった。

「私、あの動画の彩乃ちゃんのメイクめっちゃ好きで。何日か後にインスタで質問コーナーしてたから何使ってたか聞いてみたら、答えてくれたんです。それで同じリップ買っちゃいました。今日もつけてます」

 ヒナちゃんは唇を指さしてはにかんだ。


 ヒナちゃんとの会話は、心配していたほど気まずくはならなかった。むしろ、彩ちゃんという共通の話題もあり、楽しく話せた。しかし、彩ちゃんについてのすべての話題を共有できる感じではなかった。ヒナちゃんは彩ちゃんがグループ卒業後のファンだということもあるし、なんというか、私たちは「推し方」が違った。ヒナちゃんは彩ちゃんの出演作は時間とお金が許す限りなるべく足を運ぶというが、私は内容によっては見ていない作品もあった。

「布団被って暗い中で、昔の彩ちゃんの動画見るだけで幸せって思っちゃうんだよね…」

 初対面のかわいい女の子にこんなこと言うべきじゃなかったとすぐに思ったが、ヒナちゃんは「それもわかります」と言って笑ってくれた。


「私もいくつか、見られてない作品あるんですよ」

 乗り換えた電車で、並んでつり革につかまってからヒナちゃんが言った。横に並ぶと、ヒナちゃんは私より背が高かった。

「おととしの彩ちゃんの主演舞台、こないだ続編あったじゃないですか。私、一作目は見たんですけど、続編の方は部活の大会が近くて行けなかったんです。両方見ましたか?」

「あー、私も一作目しか見てないな」

 若い俳優たちが派手なメイクで出演するこの手の演劇が苦手で、続編の方は見なかった、とは言わないでおいた。

「部活は何やってるの?」

 話を変えるように、私は聞いた。

「ダンスです。中学生の時に彩乃ちゃん好きになってからシエスタも少し見るようになって、ちょっと、自分でもやってみたいなって思っちゃって」

 ヒナちゃんはまた照れるように笑った。

「アイドル見てると思わないですか、この踊りしてみたいな、とか」

「うーん、私は見る側で十分だなあ。小学生の時ちょっとだけダンス習ってたんだけど、中学受験の時に辞めちゃって、それっきりだし」

「えー、子どものころ習ってたの羨ましいです。私ももっと早く始めてればなあってよく思うんですよ」


 最後の乗換駅は大きな駅で、乗るべき路線まで少し歩いた。人も多かったので、私たちはしばらく話さずに歩いた。

 ヒナちゃんと話していると、彩ちゃんが卒業してからずいぶん経ったんだなと実感する。つい最近のような気がしていたけど、ヒナちゃんが話す彩ちゃんとの思い出がほとんど卒業後のことだと考えると、彩ちゃんは卒業後も目覚ましく活躍してきたんだなあと思う。

「私、あの映画好きだったよ。去年の夏ごろの、ちょっとコメディっぽいやつ」

 最後の電車に乗った時、私から話し始めた。ヒナちゃんが私の知らない作品の話を始める前に、自分からお互いがわかる話をしたいと思ったのだ。

「彩乃ちゃんが主人公の妹役のやつですよね。私も好きですよ」

「そう。私にとっての彩ちゃんのイメージに合ってるっていうかさ。かわいがりたくなる感じ」

「あー、私は、彩乃ちゃんこんなにかわいい感じもできるの! って思ったんですよ。私にとって彩乃ちゃんって、憧れの対象って感じなので」

 私が次の言葉を思いつく前に、電車が最後の駅に着いた。


 考えてみれば、こんなに彩ちゃんの話ができる相手は初めてかもしれない。同級生などでシエスタファンと出会ったことは何度かあるけど、常に十人前後のメンバーがいるグループで、同じ推しの人とはめったに会わなかった。

 だから、自分のもつ彩ちゃんのイメージが、彩ちゃんを知ってる人すべてに当てはまるものじゃないなんて、あまり考えていなかった。ネットに上がる他人の感想とかも、なるべく見なかったことにしていた気がする。

「シエスタだ」

 ホームから階段を上がると、改札の目の前に貼られたシエスタの大きなポスターが見えた。彩ちゃんのメンバーカラーのTシャツを着たいかにもアイドルオタクのおじさんが二人、ポスターをカメラに収めていた。

「彩乃ちゃんのコンサートだからここに貼ったんですかね」

 改札を出て、ポスターのほうに歩きながらヒナちゃんは言った。そのポスターは、シエスタの新メンバーオーディションについて知らせるものだった。そういえば、彩ちゃんもこのオーディションについてのお知らせをリツイートしていた。

「応募条件、十八歳までだって。ヒナちゃん受けられるじゃん」

 言ってから、冷やかすような言葉尻になってしまった気がして反省した。それでもヒナちゃんは何も言わず、真剣な顔をしてポスターを見つめていた。

「私、これ受けようと思ってるんです」

 ヒナちゃんは、小さい声でそう言った。

「実は、小学生の時に一回オーディション受けてるんです。そのころ好きだったアニメの主題歌をシエスタがやってたから。二次審査まで行ったんですけど、ダンスが全然できなくて落ちちゃって」

 そこでやっと、ヒナちゃんがこっちを見た。

「今思えば、受かるわけなかったんですけど、子どもだったから悔しくて。シエスタも見るのやめちゃったんですよ」

「それっていつのオーディション?」

 一瞬の沈黙に耐えかねて、私は聞いた。

「八年くらい前です。そのとき受かったのが彩乃ちゃんなんです」

 聞かなくても分かっていたような気がした。

「卒業してから映画で見た時に、彩乃ちゃんすっごくきれいで、かっこよくて。私がふてくされてた間、彩乃ちゃんは頑張ってたんだなって思って…」

 ヒナちゃんはまた恥ずかしそうに笑った。

「いや、正直気休めなんですけど。もう私、彩乃ちゃんが卒業したときの年だし、大学も決まってるし。チャレンジだけ出来たら満足って感じなんですけど」

「関係ないよ。年齢は条件満たしてるんだし、大学なんていつだって行けるし。私、応援するよ」

 ヒナちゃんは、ゆっくりと笑顔を作り直して、「ありがとうございます」と言った。


 会場に着いてからチケットを確認したら、私とヒナちゃんの席はかなり離れていた。開演まで時間がなかったので、閉演後にまた会おうとだけ約束してそれぞれの席に急いだ。

 一人になるとどっと疲れを感じた。他人と話すのは本当に久しぶりだったと改めて実感した。

 電源を切ろうとスマホを取り出すと、教授から四年生宛にメールが来ていた。

「うちの研究室は皆さん論文提出できたようですね。週明けには単位認定の通知が行くと思います。そうすれば晴れて卒業確定です。お疲れさまでした」

 私はそのまま電源を切った。

 「私がふてくされてた間、彩乃ちゃんは頑張ってたんだ」と、ヒナちゃんは言っていた。ヒナちゃんが彩ちゃんを愛していた間、今度は私がふてくされていたのかもしれない。

 彩ちゃんがアイドルじゃなくなることを受け入れられなかった。彩ちゃんの女優としての作品を見ても、それが彩ちゃんのすべきことだと思えなかった。彩ちゃんの表情や言動から、アイドルらしさを見つけては喜んでいた。彩ちゃんは変わったのに、私は彩ちゃんの愛し方を変えられなかった。

 なんだか、心細い感じがした。私が閉じこもっていた間、走り続けていた彩ちゃんに、会いたくないと思った。

 客席の照明が徐々に落とされた。真っ暗になった時、少し不安が和らいで、温かさを感じた。そして、遠くのステージをスポットライトが照らした。

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