2.名前
――馬車から這い出ると、喉が渇いていることに気が付き……近くの湖の水を口に付ける。
今の体はそこまで水に飢えてはいないけど――わたしにとっては、久しぶりの水分補給で……
「う、うぅ……っ」
感涙するほど、おいしかった。
染み渡るとはまさにこのこと。わたしは涙を拭いながら、がぶがぶと水を飲み続ける。
「っぷはぁ!」
顔をあげて、空を見上げる。
どこまでも澄み切った青空……どれほど羨んで、求めた自由。それがいま、この手にある。
もう誰にも縛られなくてもいい。
それが、切実に感じられて――わたしは再び、涙する。
*****
落ち着いたわたしは、気力も湧いて、周囲を探索しようと意気込む。
時間が分からないので今がいつなのかも判別できないけど……日没まではまだ余裕があるはず。
「その前に、なにか見つけないと……」
わたしは恐る恐る、なにかいないか注意しながら進んでいく。
背の高い草をかき分けて、木の根につまずきそうになりつつも……帰り道に迷わないように真っすぐ進む。
「…………」
ごくり、と喉を動かしながら、緊張で汗もかいてくる。
時折カサカサと音がすると肩を震わせて、そちらのほうを向くとなにもいない……多分、風が吹いただけなんだろう。
そして――
「……っ」
見つけてしまった。
狼が、群れを成して辺りをうろついている。
まだ見つかってはいないけど、すぐ目の前で……少しでも物音を立てれば、見つかるのは必然。
息を殺して、そいつらが過ぎ去っていくのをひっそりと待ち続ける。
「…………」
……。
でも、先程からアレがおいしそうに見える。
アレを見るまで全く感じていなかった飢餓感がわたしを襲う。……急速に体が重くなっていく。
早く、早くなにか食べないと……。
「う、うう……」
空腹が酷い。
辛い、嫌だ……思い出したくない……もう嫌だ。
そして、それはとてつもない衝動となってわたしに襲い掛かる。
この飢えを解消するために、わたしは……。
胸の内に、熱い何かがこみあげる。
この熱が鬱陶しい。
すぐに冷ましたい。
――じゃあ、どうすればいいか。分かる?
簡単だ。
そんなの、飢えをしのぐ方法なんてひとつしかない。
――食べる。ただそれだけ。
「――ッ!!」
わたしは抑えきれない衝動のまま、なにかを解き放つ。
それは、黒い粒子状の何かで……瞬く間に、狼のほうへと揺蕩っていく。
すると……急にもだえ苦しみ始める狼。
そうして、満たされていくわたしの空腹。
その『力』がなんなのか。
言葉にするまでもなく、わたしは理解する。……これは、わたしの願望、切望……そして祈りの結晶だ。
わたしの欲を満たしてくれる、わたしの『力』。
「――【暴食】……」
ああ。満たされる。
あの狼の、生命がわたしとなって還元されていく。
そうして、わたしの命はまた一歩紡がれていく。分解して、吸収して、糧とする。なんてことはない。
これは、『生きる』という行為そのものなんだ。
わたしは、そのまま貪り食う。
『味なんてしない』。
ただ、脳がそれを『おいしい』と感じているだけ。
でも、わたしは満たされる。それで充分じゃないか。
「ああ……」
これは、天恵だ。
飢えなくていいと、そう言っているんだ。もうわたしは、あんな思いをしなくていいんだ。そういうことだと捉えてもいいんだろうか。
それはなんて、幸運なことなんだろう。
「……あは」
笑う。
「あはは……」
笑うことを許される。
「あははは――」
笑って、泣いて、食べて、喜んで……そんな当たり前を許された。
わたしは、生まれ変わったんだ。
そうだ。
本当の意味で、わたしは生まれ変わったんだ。
境遇も、環境も、親も、力も、体も……全部、全部、生まれ変わったんだ。
「名前……」
そう、名前。
わたしは、『わたし』だった。
でも、それはあまりにも『人間らしくない』。だったら、名前を考えないと。
なにがいいかな。どんな名前を付けたって、もう怒られない。
なら、わたしが好きなわたしのためだけの名前がいい。
好きなもの……そういえば、家の外に見える花はなんていったかな。
綺麗な花……名前、知らないままだったけれど、とてもよく覚えている。
「……『アイリス』」
そう、アイリスだ。
アヤメ……とも言うんだっけ? どうして知っているんだろう。なんでだっけ? よく思い出せない。
でも、いいや。
名前が分かるなら、それでいい。
「今日から、わたしは――アイリスだ」
そう、わたしはアイリス。
今日から、生まれ変わった小さな蕾だ。