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0.飢え

 ……わたしが物心ついたときから、わたしの生き方は定められていた。


 どうやらわたしは生まれてはいけなかったらしい。

 面倒な家事を押し付けられ、精神病を患ってると親から言い聞かされ疑問にも思わず学校にも通わせてもらえない。

 異常だと気づけたのは、一時期この家にあったテレビで流されてたドラマだった。

 自分の境遇が異常で、普通ではなく――そして幸福ではないと。



「これ、やっておきなさい」

「……はい。ですが、まだ皿洗いが……」

「はあ? まだ終わってないの? たかだかそんなことにいちいち時間かけてんじゃないよ!」

「――っ、ぐ……」


 母親――という存在は、洗ったばかりの包丁を手に取り、わたしの左腕を掴み、切りつけていく。

 熱い。

 そうして、やってくるじわっとした痛み。


 ……暖かい、そう思ってしまうくらいわたしの体は冷えていた。


 お湯を使って、皿洗いをすることは禁止されていた。

 わたしには、お湯は贅沢で勿体ないそうだ。


「ほら、うずくまってないで起きなさい。アタシはこれから、行かなきゃなんないんだから」

「………はい」


 拒否は許されない。

 そんな口答えをすれば、こんどは包丁の傷だけじゃすまない。


「…………」


 わたしは垂れる血を気にもせず、冷たい水に手をさらしながら洗い物を続けていく。傷口は肘の近くだったため、水に沁みるということがないのが幸いだった。


 洗い物を終えると、わたしは着ていた服を裂いて、包帯として使用する。

 包帯、ばんそうこうも使うなと言われているから。勿体ない、らしい。

 こうやって、傷つけられていくたびにわたしの服はぼろぼろになっていく。

 一月につきでかいTシャツ一着しか与えられていない。ぶかぶかで膝まで隠れていたのに、たった半月で膝が出てしまっている。


「……次は……」


 頼まれごとをするべきか。それとも、わたしの血で汚れた床を掃除するべきか。


 頼まれごとは、トイレ掃除……なら、手短に済む床掃除をしちゃおう。

 わたしは、雑巾を取り出し、再び冷水に手と雑巾をひたして、シミになる前に床に付いた血をぬぐっていく。

 血で汚れていく度に、水で洗って、また床をふく。その繰り返し。


 母親は出かけの準備に忙しいのか、わたしがまだトイレ掃除をしていないことに気付いていないのが幸いだった。

 もし、わたしが床に四つん這いになっているのを見られたら蹴り上げられてしまうだろう。

 「怠けるな、働けって」そう言われてしまう。


 ……だから、母親に見つかる前に手短に床掃除を終わらせる。



 今度はトレイ掃除だ。

 当然だけど、素手でしないといけないわけだから……。


「……うっ」


 なんとも言い難い臭いが充満していて、思わず鼻をつまんでしまう。

 確か掃除したのが、数日前だから……たった数日でここまで酷くなるくらい、色んなことに使ってきたということだろうか。

 昼夜問わず、あの親はわたしには理解できない行いをしている。

 たまに相手が違ったりするけど……。

 わたしがいることも気にせず、この家の中では大っぴらに行っている。

 ……その時に発生する臭いや空気、表情が苦手だった。


 いつか、自分にも向けられてしまうのではないかと、怖いのだ。



「――あ? チッ、なんだ掃除中かよ……とっとと、終わらせろよなァ!」

「ぐっ……」


 掃除中のわたしの背後から酒臭さとむわっとするような大人の男の人特有の独特な臭いに顔をしかめてしまう。

 ただでさえ、嫌な臭いに耐えているところに大っ嫌いな臭いが混ざり合って……わたしの鼻は折れ曲がってしまいそうになる。


 そこへ、頭を押さえられてきりきりとわたしの頭を締め付けてくる。


「んだよ、その顔はよォ!」

「――がっ」


 わたしの嫌な顔が気に入らないのか、壁に叩きつけて、顔を近づけて……酒とたばこの吐息混じりに話しかけてくる。


「おめぇはなーんにもできねえんだから、媚び諂って俺たち親にご奉仕するってのが常識じゃねえのかよ!? あぁっ!?」

「ひっ、ご、ごめんなさ――!?」


 この世で最も嫌いといってもいい。

 使用後のあれの臭い。……どうやら、昨晩もお楽しみだったらしい。


 どうやら我慢の限界らしく、わたしが横にいるのにも関わらず尿意を処理する。――座り込んだときに、ちょうど目の前に来てしまう位置で、わたしは見たくもないと目を逸らす。


「ふぅー……チッ、くせぇ」

「…………」


 その臭いの元凶が何を言っているのだろう。


「おい、舐めてきれいに――は、いいか。おめえもくせえし」

「…………」


 何を言いかけたのかは、理解できないけど……碌でもないことに、違いはないだろう。

 そう考えて、また掃除に取り掛かるのだった。





「それじゃあ~、行ってくるわね~。あ、な、た!」

「おう! 行ってこい!」


 トイレ掃除を終えると、母が父に抱き着いて甘ったるい、気持ち悪い声で話しかけていた。

 母からは香水のにおい……おそらく、仕事に出向くのだろう。

 父は……いつも通り、これからお酒でも飲むんだろう。


「じゃ、しっかり家事しとくのよ? いいわね」

「……はい」


 父に向けられて、わたしには向けられない。

 気持ち悪いし、今更そう接せられても……と思うけど、それでもわたしは愛されていないんだなと、自覚してしまう。

 邪魔な存在。目障り。あなたなんていなければよかったのに。

 こんな感じだろうか。


「……ご飯は、ないの、かな」


 朝から何も食べていないせいで、お腹が空いてきた。

 お腹がぐぎゅるると鳴りながら、今日のご飯が置かれているはずの冷蔵庫を漁る。


「今日もこれ、か」


 そこにあったのは、食べかけのパンだったり固まった米だったり……ちょっと変な臭いまでするお弁当があった。

 これがわたしの一日のご飯。

 たまにお腹が痛くなるけど、しっかり食べないと動けなくなってしまう。


「……(もぐもぐ」


 両手でパンを抱えて、大事に噛み締めていく。

 水をたらふく飲んで、少しでもお腹を膨らませる。


「んぐっ、んぐっ……っぷはぁー!」


 そしてその横で、お酒を一缶飲み干す父。

 魚や豆などを適当に放りこんで、またお酒を煽る。その横には揚げ物など、おいしおうなものが並んでいた。


「ああ? なに見てんだよ!?」

「ご、ごめんなさい……」


 それを羨ましそうに眺めていると、睨まれてしまった。

 殴られたくないわたしは、そそくさと逃げるように次の作業に取り掛かる。


 次にするのは、寝室の掃除。

 なんてことはない。

 でも、わたしがすると体力も力もないので、時間がかかってしまう。


 ……なにより、この部屋はわたしが嫌いな臭いで充満している。


「うぅっ……」


 どうやら、夜中まで盛り上がっていたようで……ひとまず窓を開けることで、新鮮な空気を部屋に送り込む。

 鼻が感じ取れるのは、世界一嫌いな臭いと、それに混じった化粧品やお酒の臭い……。

 母親の物だろうか? だとしたらさらに嫌になりそう。


「……これと、これは、洗濯しないと……ダメ、かな」


 毛布と布団のシーツを取り外して、予備のものを取り出す。

 ゴミを袋に詰めていき、少しづつ綺麗にしていく。

 ……しかしそこへ大分酔っぱらった父がやってきて、


「フンッ!」

「あぐっ」

「チッ、いくつになっても育たねーな。これじゃ、楽しめえじゃねえか。……ひっく」


 せっかく片づけたのにまた散らかされていく。

 空き缶やつまみの欠片がぽろぽろと部屋中にまき散らされる。これは、また掃除機をかけないといけないな。


 腹部を蹴られたことで、呼吸困難に陥りながら……うすぼんやりとそんなことを考える。


「ハァー……って、電話か」


 落ち込んだ様子から一転。

 けたましく鳴り響く携帯に素早く対応する父。

 その表情は、先程までの苛立ったような顔ではなく……でれっでれの甘い顔をしていた。


「――ああ、今なら大丈夫だ。問題ねえ。……ガキ? ガキなんて気にする玉じゃねーだろ……ああ、うん。じゃあ、後でな」


 父はわたしを踏みつけながら、電話の相手にそう答えるのだった。



***



 ……わたしは、寝室の外でたばこや空き缶の掃除を行っていた。

 片づけたばかりの寝室は、父とやってきた女の人によってさっそく使われている。

 苦しむような、喜んでいるような……そんな声が聞こえてくる。

 もうとっくになれた声だった。


 夜中は母と。昼間はこうして知らない女の人と。


 父は働きもせず……こうしてお酒を飲んで、遊んで……。

 わたしの家は母の仕事によって支えられているのだった。


 だから、あまりわたしの家は余裕がないと言われれば――別にそういうわけではないらしい。

 少なくとも、二人が贅沢できるくらいには余裕がある。

 ……それがわたしに流れてくることはない。


「……はぁ」


 それはともかくお腹が減った。

 冷蔵庫にあるものを食べてしまおうかとも思ったけど、いま食べてしまえばお昼と夜の分がなくなってしまう。

 とりあえず水を飲んで凌ぐことにしよう。


 少なくとも、まだ動けないほどではない。



***



 女の人は用が済むと帰っていった。

 わたしのことを見ると嫌そうな顔をするけど、殴る蹴るをしてこないだけまだマシだと思ってしまう。


「片づけとけ。バレないようにな」

「……はい」


 汚したのは父なのに。

 まあ、どうせわたしが片付けないと母からどやされてしまう。……今度はご飯抜きかもしれない。それが嫌なわたしは必死でその痕跡を消していく。


 けれど、今回ばかりは運が悪かった。



「ただいまぁ~。あなた~」

「……っ!?」


 母が帰ってきた。

 それも、知らない女の人の痕跡を片付けている最中にだ。

 ……今日は早く帰ってくる日だったらしい。


 父は冷や汗をかきながら、母を出迎える。

 しかし、母は目を細め……父の臭いを嗅ぐ。


「……あなた」

「っ、な、なんだ?」

「――飲んでるのね! アタシも飲ませなさいよー」

「あ、ああ……わーったよ。じゃあ、今からでも飲もうぜぇ」


 母は出かけたときとは違う、色んなものが混ざった臭いを漂わせて父に体を預けて酒を飲もうと冷蔵庫から取り出す。


 ……しかし、わたしがまだ寝室の掃除をしていることに気が付くと、一気に機嫌が悪くなったのか。

 こちらに駆け寄ってきて、怒声を浴びせかける。

 聞きたくもない。けど耳を塞ぐこともできず、その怒声をただ黙って俯いて……聞き続ける。


 その怒声は突然、終わりを告げる。


「あ、ごめん。さっきここに荷物置いてきちゃ……って」


 先程の知らない女の人が家に入ってきたのだ。





 ――その女の人との関係がバレてしまい、わたしの家は荒れに荒れ果てた状態となってしまった。

 皿やコップが割れて散乱し、辺りには血らしきものまで飛び散っている。

 その血の正体は父のものだった。

 母が投げつけ、怪我してしまった。

 ……当然、わたしも少し怪我をしてしまった。でも、それを気にかけてくれる人はいない。


「……いたいなあ」


 母は悲しみのあまり家を飛び出してしまった。


「クソッ、クソッ、クソッ!!」


 父は何度も地面や壁、机に乱暴に当たる。

 わたしは隅っこで息を潜めている。

 ……でもそんなことは無意味だったようで、腕を引っ張られ、殴られる。


 殴られるだけですまなかった。

 酒を浴びせかけられ、おもむろにたばこを吸い始めるとその火を肌に押し付けられる。


 泣いても泣いても、容赦なんてなかった。


 痛くて、痛くなくなって、でもやっぱり痛くて。

 そんなことの繰り返しだった。


 ……いつしか、寝室まで連れ込まれていた。

 わたしは布団に寝転がさせられると、馬乗りになって首を絞めてくる。


「あっ、ひゅ……っ」

「このっ、このっ……てめえのせいで!!」


 わたしはなにもしていない。

 言われた通りにしていただけなのに。

 どうしてこんな目に遭わないといけないんだろう。


「はぁ……はぁ……」


 意識を失う寸前まで、それは続いて――すんでの所で、父は寝室から出ていった。


 そのまま、腹を蹴られて意識を失った。


***



 目が覚めると、また知らない女の人の声と父の声が家中にとどろいていた。

 わたしは、寝室ではなく風呂場に置き捨てられていることに気付き、Tシャツ一枚しか着ていないせいで昼間の風呂場は寒かった。


 ……どうして、どうして?


 寒い、痛い、楽しそう、狡い。

 わたしばっかり。こんな目に。


「……あぁ」


 お腹、空いたな。





 風呂場から出るのが怖くて、そのまま寒さに耐えながらじっとしていた。

 声はまだ続いており、日を跨ぎ、女の人も帰ったかと思えば別の人になっていた。

 もう、わたしが何もしていないことに興味がないのか……風呂にも入らず、ずっと女の人と遊んでいる。


 わたしは、お腹も空いて、寒くてどうにかなってしまいそうだった。


 でも、いまの父と関わりたくなかった。

 だから、わたしは閉じこもっていた。

 空腹と寒さに耐えながら、ずっと。


「……っ」


 ごくり、とつばを呑んで、空腹を抑える。

 こんなにも自分はお腹が空いていたんだろう。そのことに気付いていなかっただけで、わたしはずっと空腹だった。

 痛みと恐怖で、麻痺していただけ。

 いざこうしてじっとしていると、いかに自分が空腹だったのか……理解できてしまう。


「…………」


 音が止んだ。

 玄関が開き、誰かが出ていった。


 もう、限界だった。



「あ? なん……だ、よ?」

「あは……」


 一人になった父は誰かを呼ぼうと携帯片手にこちらを鬱陶しそうに眺めていた。

 しかし、それは驚愕に変わり……そして恐怖に変わる。


「あ、ああああぁぁぁあああぁぁあ!?!?」

「……あは」


 わたしがこっそり台所から持ち出した包丁でお腹を突き刺した。

 痛みに苦しんで、のたうち回る父。

 抑えつけることができないわたしは、適当に包丁を振りかざし、めった刺しにしていく。


 今まで与えられてきた、殴られてきた分……そのお返しに。ずっと、ずっと。


「あ、がぁ……ごはっ」


 そうして、動く元気もなくなったのか。ついになにも言わなくなった。

 それでもわたしは包丁を刺し続けた。何度も、何度も。


「お腹、空いた……」


 空腹が激しい。

 でも、冷蔵庫を覗いても、家中探しまわっても何もなかった。

 空き缶や空き瓶しかなくて、空のおお菓子の袋しかなかった。

 ……まだ、残っていたはずなのに。わたしのご飯はどこにもなかった。


「どう、して……」


 ご飯がないと知って、さらに空腹は激しくなる。

 まだ、耐えられる。我慢する。



***



 母が帰ってきた。

 しかし、男を複数連れて。


「――奥さん。こりゃ、どういうことだい? 俺らはガキひとりと男ひとりが貰えるって聞いてたんだが?」

「え? きゃああああ!?」


 黒い男が父と血まみれのわたしを見て、顔をしかめている。

 母はそんなわたしを見て、悲鳴を上げる。


「こりゃ、もう内臓もダメになってるなあ……ガキは女だけど、痩せてるしなあ」

「奥さん。困りますよ。こっちは金になる当てがあるって聞いて人を集めたのに」

「……こりゃ、またうちのイケメンたちに分からせ(・・・・)られないといけないかな~?」

「「ぎゃはは!」」


 何を言っているのか理解できなかった。

 けれど母は、わたしを見て……


「そんなことはどうでもいいのよっ! こいつを引き取って! 今すぐ!」

「……え?」

「いーや。無理だね。こんな状態、なんの価値もない……今回の話はなかったということで」

「そ、そんな……このっ、役立たず!!」


 男の人たちは帰っていく。

 そしてわたしは殴られた。


 どう、して? ひとりいなくなったのに、どうしてまだわたしは殴られるの?

 まだ、わたしは殴られるの……?


「――!」

「きゃっ!?」


 手元にあった空き瓶で思い切り、殴りつける。

 しかし、そんなことでは母は死ななかった。


 包丁はない。

 しかし、割れたお陰で傷付けられそうになった空き瓶を母に突き刺そうとして――


「この……っ」


 母は逆にわたしから空き瓶を奪って、胸らへんに突き刺してくる。


「は、ははは! アタシに逆らうからこんなことになるのよ――」

「――っ」


 わたしは、そんな痛みを無視して……精一杯、母を押し倒す。

 なにもないなら、爪を立てて肌に突き立てていく。

 けれど、あまり意味はない。

 なら、歯を使おう。


 ……母の喉に歯を立てて、思い切り喰い破る。


「――――」


 母の声は聞こえない。


 ……わたしの意識も、薄れていく。

 口から血を滴らせながら、ふらふらと家の中を歩き回る。

 もしかしたら、見つけられなかっただけで食べ物があるかもしれないから……。


「おな、か……すいた……」


 結局、最後の最後までわたしはお腹を空かせたままだった。

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