三分五十八秒の葬式
ブラウン管の向こう側。そこはもっと寂しい場所なんだろうなと漠然と思い描いていた。キャスターのついた大きなカメラが何台か動いていて、その後ろにあるコンサートホールのような段々になった座席には観客が大勢座っている。ステージだけが華やかな装飾と照明に照らされていて、ステージの一歩向こうは華やかな装飾もスポットライトもない。黒いコードが絡まってしまってもおかしくないほどに交錯していて、そのコードが絡まらないようにと手繰り寄せている女性は、大学で見かけそうなTシャツにチノパンという軽装だ。カメラマンも黒主体の服。まるでステージの一歩外側は、テーマパークのエントランス外だ。踏み入れれば自分が主役になれるが、外にいたたまれば一般人という大きなくくりの一人のまま。
でも誰もその一歩を踏み出そうとしない。生放送なのだから、一歩ステージに踏み入れれば自分が主役になった気分を存分に味わえるはずだ。
でも誰もしない。
自分の身の丈を知ったように、脇役に徹するスタッフと観客。
芸能人と一般人の間に一本の長い線が引かれているように思えた。ステージと客席。そこに引かれた一本の線は、いつしか芸能人と一般人を区切るものではなく、「あなたは芸能人、お前は一般人」と身分を無意識に自覚させるものとなっていた。
ブラウン管の向こう側。そこはもっと寂しい場所なんだろうなと思っていた。
液晶画面の向こう側。そこはもっと身近な場所なんだろうなと思った。
テレビ、と言われると遠い世界のように思えた。ブラウン管の向こう側を想像するたびに、彼らは遠い才能を持ち得た人間のように思えた。
いつしかブラウン管は消え、薄い液晶テレビに移行した。
いつしか一家に一台、固定電話の受話器に触れる人は少なくなった。
いつしか一人に一台、携帯端末を持つようになった。テレビはおろか、ユーチューブという動画が見れる。手元の向こう側にテレビが広がっている。画質を上げようと操作し、鮮明な画面で有名人の姿を拝めた。
いつしかテレビは遠い世界のように思えなくなった。身近で手軽なものに思えた。だから、誰でもテレビの画面に映る類の人間に簡単になれるのではないかと思った。
オーディションを受けた。
受かった。
アイドルグループに所属することになった。
個性あふれる仲間たちと出会った。学校でよく話すクラスメイトと同じような友達が増えた。
仲間たちとテレビに出演することが度々あった。見られる、というのは緊張した。カメラにも、観覧の人たちにも。
思い悩むことが増えた。学校で友達と話しているときの方が楽しいと思えた。
しかし、学校の友達は自ずと離れて行った。
身の丈を無意識に自覚したのかもしれない。髪型、化粧、スタイル、肌の質、芸能界で過ごしていると、勝手に変わっていった。自然とかかわる人間も変わっていった。
学校で話す友達はだいぶ変わった。テレビに出るのは未だに緊張する。見られるのはやっぱり恥ずかしい。
でも慣れていった。
ふとツイッターでエゴサーチ。たくさんの称賛の声が上がっていた。少数の批判の声が上がっていた。全然そんなことないはずの称賛が上がっていた。所謂お世辞。批判は批判で的を得ていない。誰も見ていない。見ているのはアイドルとしての自分。でもそれがアイドル。
何とも言えない気持ちになった。
踊っているときだけは忘れられた。
何かを作り上げようと熱中しているときはそんなもの視界に入らなかった。
人は少なければ少ない方が楽だった。
人の数だけ考えが存在していると改めてよく理解した。人それぞれに正しさが存在しているため、大人数で何かを作り上げるのはとても厄介なことだった。厄介が故に、出来上がった作品はとても良質になるのも知っていた。しかし、迷惑をかけるのだ。誰かの正しさを突き通そうとすれば、誰かの正しさを曲げなくてはならない。納得するまで話し合おう。日が暮れる。誰かを抑え込もう。哀しみが聴こえる。
どうするべきだったんだろうか。己の正しさを曲げればよかったのだろうか。グループのためにと妥協すればよかったのだろうか。妥協……嫌いな言葉だ。聞き流せばよかったのか……嫌いな言葉だ。
どうするのが正しかったのだろう。
踊っている。
体の節々がしなる。
踊るのは楽しい。演技は楽だ。誰かと会話しなくていい。誰かに弁明しなくていい。欲しい人が勝手に受け取ってくれるから。そして、自分じゃないどこにもいない誰かを伝えればいいだけなのだから。
勝手にきびきびと動く足も、膨らむような腕の仕草も、ロボットのように次から次へと自然に動き出す体。どこにもいない誰かの気持ちが伝わってくる。心臓に憑依する。
涙も、紙吹雪も、バイオリンの音も、歌声も、全部流れ込んでくる。
敏感に感情が揺れない『誰かになりたい』という気持ちに乗って。
無数の記録媒体によって後世に残る映像たち。そこにはアイドルの映像もたくさんあった。ふとあの頃の映像を見ると、自然とわくわくした。思い描いて作った芸術は、今でも枯れていないなと感心する。
昨日、身内が死んだ。
とてつもない感情の高ぶりを感じるかと思ったが、意外と冷静だった。身内が死んだというのに、ちっとも悲しめなかった。あろうことか、その身内の死を「芸術に変えられる」「作品ができる」と思ってしまったみたいだ。
前々から危惧していたことは確かに形になった。
怖かったのだ。死を心から悲しめず、棺に入った青白い遺体を眺めながら「美しい」と思ってしまうんじゃないかと。
「嘘」を媒介しなければ物事を悲しめない体質になった。
だから私は死んだのだ。
幽霊にでもなった私は、自分の棺を眺めながら「音楽にできる。芸術にできる。踊れる」と思った。
思ったが、もうダンスとして踊れる体はない。