四月一日/ 俺が 現実に戻った日
ハッピー・エイプリルフール!
皆さんは悔いなくウソをつきましたか?
《日記23 人生の転機?》
私は後藤直久。法科学鑑定研究所の分析官の一人であり、大学院では液体中の電離物の分析法を専攻としていた。
勤続九年。今でこそ
今思えばまぁまぁそこそこな成績で卒業し、紆余曲折と恩師の口利きのおかげでこの職場に就くことが出来たと記憶している。
数か月前、医者をやっている大学の同期、***** から見て欲しいモノがあると言われ、久々に彼の家を訪れた。
見せられたのは血液サンプルだった。
私は目を疑った。明らかにおかしい。
通常、人間の血液は血漿、赤血球、そして白血球と血小板の混合液の三層に分かれる。
それにも関わらず、このサンプルには赤血球より下層に何か……結晶の様な物が見えるのだ……。
これはおかしい。
私はこの血液サンプルに採血後のミスで何かしらの薬品が混入したのではと疑った。
彼に問い詰めたものの、献血の血液中に混じっていた物であり、どう考えても何かしらの処理が行われた可能性は無いということだった。
この血液の所有者は住所も名前も分かるらしい。今すぐにでも電話を掛けて血を抜き取りたい(これは少し過ぎた比喩かもしれない)と思ったが、この分析依頼はあくまで彼の興味であり、個人情報は機密事項なのだという。しかも、法的に3ヶ月以内の再採血は禁止されているそうだ。
そこで、この微量なサンプルを法科研の機器で分析して欲しいということだった。
無論、快諾した。
世紀の大発見に繋がるかもしれない……そうすればノーベル化学賞も取れるかもしれないと思ったのだ。どこぞ他の分析科学者に手柄を取られる気は毛頭無い。
私はこの血液サンプル中の結晶の分析をすぐさま始めた。
結晶の一部を砕き、ある条件下で再結晶させる事で純結晶を作り、回析率から正体を割り出そうとした。
しかし、結果として判ったのは、この結晶が研究所のデータベースに無いモノだという事だった。ひょっとすると世紀の発見かもしれない。未知の物質に私の胸は高鳴り、やがて仕事の休憩時間も、家に帰る時間も惜しんで謎の物質の化学特性と構造の解明に勤しんだ。
だが、五日前。
*****、この血液サンプルを私に回した友人が突然失踪した。
警察の発表では、病院の夜勤中に突然居なくなったらしい。一部の患者のカルテが持ち去られ、彼のパソコンのデータが完全に破壊されている等といった状況は不可解であったが、最近職場でストレスを溜め込んでいた事と人間関係が上手くいっていなかった事からの『逃避』であり、現在は患者の個人情報漏洩の恐れがあるとして全国に捜索命令が出されている。
何かおかしい。
アイツはそんな奴じゃなかった。
いったい何が……。
(3・27・2018)
《日記28 重大な決断》
例の血液サンプルを処分しようと決めた。
残念でならない。
だが。恐怖の方が上回ったのだ。
この頃誰かにずっと監視されている。これは気のせいではない。研究室の冷凍庫、冷蔵庫、それに私のロッカーまでもが荒らされていたし、デスクのパソコンにも侵入しようとした形跡があった。
その事を誰も信じない。
研究所には万全のセキュリティが張り巡らされているのだ。部外者に破れる筈が無い。
この結晶を探しているのでは無いだろうか……そんな考えが脳裏をよぎったのは昨日の事だ。
ひょっとしたら、*****がいなくなったのはこの結晶に関わったからなのか……。
サンプルを肌身離さず身に付けている私や、家族にも危険が及ぶかもしれない。
そう考えて……結晶を海外のオークションサイトにかけた。貴重なサンプルを燃えるゴミで出すのは気が引けたのだ。
まだ落札はされていない。
だが、誰か科学的知識のある人間が私よりも注意深くこの結晶の正体を解明してくれる事を願う。
(4・1・2018)
日々の習慣としている日記の今日分を書き切った俺は、ドキュメントを閉じた。
「もう8時か……」
画面のにはもう8時15分である事が表示されている。
「いつもより大分遅くなっちまったな……」
俺はパソコンをシャットダウンした。
いつもより遅くなったのは、例のサンプルを出品したオークションサイトをチェックしていたからだ。5ドルで入札した者が一人だけいた。まだ制限時間は残っていたが、俺はオークションを打ち切り、幸運な落札者をその人物に決定した。あとは梱包して配送をするだけでいい。そうすればこの不安からも逃れられる……。
そんな事を考えながらスクリーンから目を上げて……何かが変である事に気付いた。
「あれ? 皆、今日は早いんだな?」
いつの間にかオフィスには誰もいない。公務員である性で、定時に帰る人間は珍しく無い。だが、大抵の場合は残業して、レポートやら報告書やらの仕事を片付けて帰る場合が殆どなのだが……。
「ってか、帰る時くらい声掛けてけよな……」
この頃、皆から倦厭されている気がしてならない。飲み会にも全く誘われないし、必要最低限の会話しかして来ない。話し掛ければ避けられる。これは気のせいだろうか? この件はあのサンプルとは関係無いと思うのだが……。
「体臭……とか?」
もうそんな齢か? まだ三十五だぞ? 適正体重はオーバーしているが、極端に太ってもいないと思うのだが。風呂も毎日……ではないにせよ、二日か三日に一回は入ってるしな。
「そんなわけ、だろ。……ま、まぁ、コンビニでデオドラント買って帰るか……」
椅子から立ち上がって伸びをする。
そこで、初めてオフィスに誰かがいる事に気付いた。
「おっ! お疲れさん、まだ帰らないのか?」
声を掛けても返事がない。
「(またかよ……ったく、どいつもこいつも……)」
ホントにこの頃の俺への態度が酷い。
なんと、近付いても反応しないと来た。さすがに温和な俺もイラッと来る……て、おや?
よく考えたら、窓際のあの席は大柄な高見君の席だろ? パソコンの陰になって顔は見えないが、座っているのは小柄な女性のようだ。
何とも不自然な状況に、俺は少し警戒しながらゆっくりと女性に近づいた。
「おい、そこのキミ。ここは法科研のオフィスだぞ? そこでいったい何をやってる?」
あと二メートル程まで近付いた時、女性が顔を向けた。
栗色の髪、青い瞳の切れ長な目、高い鼻に薄い唇……美女である、という以前に、俺の頭の中は疑問で占められた。
「え~と……外人さんかい? えーと……すとっぷ わーきんぐ。ひあ いず らぼらとりー おぶ……あれ? 法科研ってなんて言うんだっけ……?」
「ジョン。彼、五月蠅いわ。」
法科研が英語で出てこずに悩む俺だったが、いきなり後ろから羽交い絞めにされた。何が起きたか分からない。一瞬で、俺の口には猿ぐつわが嵌められていた。何故こんな仕打ちを受けるのか、一体自分の身に何が起きているのか理解できないままに、麻紐で両手両足を縛り上げられてしまった。
「むぐ!! むーーー!!?」
猿ぐつわを嵌められたまま叫ぼうとすると、俺を掴まえている背の高いごつい黒人の男に申し訳なさそうに謝られた。
「すい、まっせんね~。 うちの、Leader は、ちょっとぉ静かぁに、言ってますからね~」
「ジョン。黙れ」
ペコペコとおじぎをする男を一瞥する事も無く、女は黙々と何か作業をしている。うちの部所でいったい何を……。恐怖に竦みながらも俺は女が何か言うのをひたすらに待った。いつの間にか高見君の机の上の時計は九時を指そうとしていた。
「……お前、後藤直久で間違い無いな?」
突然、女に問われ、俺は無言でコクコクと頷いた。こちらをまるで虫けらのように見下ろす鋭い眼光が彼女がただ者では無い事を示している。抵抗するどころか、何か言葉を発すれば殺されそうな気さえした。
「私は、USICのアーニャ・イワノヴァ。担当直入に、お前の持っている血液サンプルと解析データの全てを渡せ。抵抗はするな。二度と家族に会えなくなる」
!!
やはり、あのサンプルを!? USIC ってなんだよ!? 渡さなきゃ殺される!!?
「むぐ……むーーぐ、む……」
「ジョン」
女の一言で俺の猿ぐつわは解かれた。
「誰かーーーー!!」
俺は迷う事無く叫んだ。
はっ! 研究員舐めんなよ? こちとら伊達に長年研究員やってねぇんだよ! この時間だったら丁度警備員が巡回を始める頃だ。犯罪捜査に関する機密情報を管理するこの研究所の警備レベルは全国でも有数! たった二人の不審者なら二十人以上いる武装警備員の相手にならない! 終わったな!!
しかし、何も起きない。誰も来ない。俺の額を汗が流れて行く……。
「時間の無駄。早くサンプルとデータを渡せ」
しばしの沈黙の後、女は態度を全く変えないまま再び俺に問うた。
「ご~めん、なさ~いね。こぅのけんきゅう、じょはだ~れも、いない、よ~う?」
ジョンという黒人の言葉に女は頷く。
「作戦行動に当たり、日本政府の承諾は貰った。この施設には現在誰もいない。また、お前が死んでも事件にはならず、失踪として処理される。足掻くだけ無駄だ。個人で世界を相手には出来ない」
『失踪』、『処理』という言葉に*****の事が思い出される。アイツはまさか……。
こいつら、許さねぇ!
俺の中の怒りが爆発した
「で? 死ぬの? それとも渡す? 喋るまで拷問するけど覚悟は出来てる?」
女はスーツのポケットから金属製の釘を何本も取り出した。俺に見えるように机の上に並べてゆく。
恐ろしい。映画やドラマ以外で『拷問』なんて言葉を発する人間を見たのは生まれて初めてだ。
だが、血液サンプルはアイツが守って死んだ(かもしれない)秘密……俺は勿論…………。
「研究データはあの机の上のパソコンの中だ……サンプルは……腰のキーチェーンに繋いである」
あっさりと白状した。
なんたって命を奪われるのは勘弁だ。
え? 研究員としての誇り? 友人の敵討ち?
まさか。
自分の命が一番に決まっているだろ? 因みに二番目に大事なのは嫁と娘、第三に昇進だ。
「これね……こうもあっさり吐くとは……時間を随分と無駄にした」
ジョンという黒人がてきぱきと俺のパソコンを段ボールに梱包し、女はアンプルに封入された結晶をしげしげと眺めている。
「該当の結晶サンプルである事を確認。任務完了。用無しなお前には消えて貰う」
ふぇ!!?
「まままま、待ってくれ!! 約束が違う!!」
「ご~めんね~。チクっとして~、それでおわり~よ」
逃げようとしたが、両手足を縛られた状態では逃げられず、すぐに黒人に押さえつけられてしまう。彼の手には注射器が握られている。
「待て! そのパソコンはオレじゃなきゃ開かないぞ!?」
俺は咄嗟に嘘をついたが、女は首を横に振った。
「使い古された嘘。噓つきには罰を」
「やめろ!! やめてくれ!! 頼む俺には娘が……ああ!!!」
俺が見ている前で注射器の尖った針先が皮膚を貫き、毒液が体内に侵入してくる。
涙と油汗と鼻水で恐らく顔は酷いことになっているだろう。段々と注射を打たれた腕が麻痺してきた……。嘘だ……なんで俺がこんな目に……う……そだ……。
*****
静脈に注射したのは、害にならない程度まで非常に薄めたアルコールなのだが……小汚い中年男はピクピクと痙攣しながら気絶してしまった。アルコールの急性中毒ではなく、我々の、特に私の演技に恐怖した結果のようだ。
「Leader、すこぅし、やりすぎ~な、ですか?」
「ジョン。五月蠅い」
任務は成功。物質Xのサンプルと分析データは手に入った。
上はこんな手の込んだ事をさせて何をしたいのか分からないが……普段あまり興味を持たないエイプリルフールでここまでやったのだ良い気分転換になった。
明日起きた男がどこまで混乱するか見てみたいものだが、残念ながらアメリカに戻らなければいけない。
「ハッピー・エイプリルフール。 長生きしなさい?」
アーニャは恐怖の余り意識を失った男にそう言い残し、研究所を後にした。
*****
《4・2・2018》
「エイプリルフールね……Geegleも毎年良くやるよな。」
コーヒーを啜りながら、ネットのニュースに目を通し、俺はぼやいた。最大手の検索エンジンに正体不明な機能が追加されていた、というニュースだ。
エイプリルフール、四月一日、誰でも嘘を吐いていいという変な日。
残念ながら昨日は……嘘をつき忘れた。なにせ、昨日からの記憶が曖昧であり、今朝も大変だったのだから。
今朝。俺はラボの床に寝っ転がっているのを発見された。
あの侵入者達の記録は無く、監視カメラにも俺が酒を飲んで酔いつぶれる様子しか映っていなかった。現に俺の血液からは微量のアルコールが検出されたのだ。
「嘘だった、のかもな……」
昨日までの全てが嘘だったのかもしれない。
謎の新元素に、友人の失踪、それに美人な殺し屋……。
友人の電話番号は俺の携帯から消されていたし、持ち去られたハズのパソコンは朝になったらそのままの位置に置かれていた。メモリーの内容どころか、裏面の微妙なホコリの着き具合まで再現されていて、驚きのあまり声もなかった。
昨日の恐怖は忘れた訳では無いが、どう考えても悪い夢だったとしか考えられない。
「忘れちまえば良いんだ……どうせ夢だったんだからな……」
「どうしたんすか? 何だか顔色悪いっすよ?」
顔を上げると、新入社員の高見君だった。良い奴で、皆が俺を避けている時でもコイツだけはいつも通り接して来た。
「いや、何でもないんだ……。ああ、一つ訊きたいんだが、君のパソコンに何か異常は無かったか?」
昨夜の夢では、あの女に彼のパソコンが使われていた。ひょっとしたら、と思って尋ねたのだが、彼は首を振った。
「なんとも無いっすけど……でも、何で急にそんなこと聞くんすか?」
俺は一瞬返事に困った。昨夜の事を話していいのかどうか……あの話をしたら、彼も何かに巻き込まれてしまうのではないかと一瞬思ったのだ。
だが、あれは夢だった。俺は酔っぱらって変な夢を見ただけなのだ。
「いや、実はさ。昨日変な夢を見てよぉ――――。」
俺は昨日見た『夢』を話始めた。なんとも皮肉な事に四月一日に、俺は現実に戻ってきたのである。
そう、これまでの事は夢だった。
全て話して忘れちまうのが一番いい。
ああ、そうだ。新しいデオドラントをつけるようにしたら、俺を避けていた皆の態度が普通に戻った。今では毎日風呂に入るようにして、毎日シャツを取り換える事にしている。
俺の中でこの数ヵ月間の非日常的な思い出は徐々に風化していった。
現在連載中の小説、『ワールドオブレインボウ』の番外編です。
異世界モノでは無く現実世界で一ネタ。
時系列的にはケント(主人公)が地球から失踪したのと殆ど同タイミングです。