トイレにシタイ
その日、俺はいつものごとく正午丁度に起床した。
二階にある自室を出て、階段を下り、一階の玄関脇にあるトイレへ向かう。
朝方近くまで酒を飲み、午前中はぐっすり眠り、昼に起きて仕事へ向かう。ここ数年、俺はずっとこんな生活を続けている。
酒を飲んで眠るとぐっすり眠れていいのだが、起きるとすぐに強烈な尿意が込み上げてくるのが難点だ。
膀胱にたまった大量の尿が早く外に出たくてウズウズしているのを感じながら、俺はトイレのドアを開けた。
「……えっ?」
ドアの向こう、トイレ内で展開されている光景を目にして、俺は硬直してしまった。
この時間、家には俺以外誰もいないはずだし、ドアに鍵もかかっていなかった。先客がいるなんて思いもしなかったのだから、ドアを開けた俺に罪はあるまい。
その男はメタボっぽい体型をしていて、顔の方は厳つく、はっきり言って不細工極まりないブ男だった。年齢は俺よりはるかに上で、恐らくは五、六〇代と思われる。
それが自分の父親や親戚のおっさんならまだ納得いったのだが、残念ながらそうではなく、まったく見覚えのない人物だった。
誰もいないはずのトイレに見知らぬおっさんがいる。ちょっとしたミステリーだな。
いや、そうじゃなくて、問題はもっと別の部分にある。おっさんは汚いシャツとトランクス姿で、弛みきった醜い肉体がとても見苦しかった。顔は真っ青で、目を閉じ、胸のあたりが真っ赤に染まっている。
どうやらおっさんは死んでいるようだ。自宅のトイレに見知らぬおっさんの死体。こいつは事件だぞ。さて、どうしたものか――。
いやいや、そうじゃないだろ。確かに死体があるのは問題だが、もっと深刻な問題がある。
それは、死体がある場所がトイレの便座の上だという事だ。
この際なので、はっきり言おう。
死体がどうのとかいう以前に、俺は今……猛烈にションベンがしたいのだ!
おっさんの姿に驚いたせいでほんのちょっぴり漏らしてしまったが、まだまだ大量に残っている。恐らく、五〇〇ミリリットル入りペットボトル二本分近くの尿が膀胱にストックされているはずだ。
一刻も早く放尿したいというのに、おっさんの亡骸がトイレをふさいでいる。これはかつてない大ピンチだ。
いっそ、死体に驚いて失禁してしまった事にして、このまま漏らしてやろうかとも思ったが、自分の意思で故意に小便を漏らすというのは勇気がいる。一旦、漏れそうになったのを我慢した今の俺にはちょっと無理だ。
「うぬっ、くおっ……! しょ、小便出そう……く、くそ、どうすれば……!」
おっさんはU字型の便座カバーを下ろした状態で座っていて、肥満している事もあり、完全に便座の穴をふさいでいる。
つまり、この重たそうなおっさんのボディをどかさない事には、俺はトイレを利用する事ができないわけだ。
どうする、どうする俺。尿意は高ぶるばかりで、今にも爆発してしまいそうだ。
おっさんを動かそうとした際、少しでも力めば一気に噴き出してしまうだろう。
ああ、なんか下腹部が痺れてきたぞ。も、もう、限界だ……!
「ふぬぬぬ……ぬぐあ!」
一瞬、おっさんの死体に放水してやろうかと思ったが、わずかながら残っていた理性がそれを踏みとどまらせた。
俺はクルリと回れ右をして、トイレとは反対方向へ走り、ドアを開け、洗面所に入った。迷わず洗面所を抜け、奥にある浴室に飛び込み、パンツを下ろして局部を露出する。
「ふううううう、はああああああ……」
かつて、これほどの解放感を味わった事があっただろうか。
とろけるような感覚に浸りながら、俺はこらえにこらえていた黄金水を、風呂場の排水口に目掛けて勢いよく放出した。
一リッター以上は出しただろうか。念願の放尿を終え、俺はようやく落ち着く事ができた。排尿についてしか考えられなくなっていた脳みそが正常に動作するようになり、本来の冷静さを取り戻す事に成功する。
スッキリしたら腹が減ってきたな。朝食を兼ねた昼食をとるとするか。
ダイニングへ向かい、冷蔵庫から買い置きのピザを取り出し、電子レンジに入れてトーストモードで焼く。
ピザを焼いている間に洗面所へ向かい、髭を剃り、顔を洗い、髪の毛の寝癖を整えておく。
焼き上がったピザを付属の紙トレイに載せ、ペットボトル入りの紅茶とコップを持って居間へ移動、テレビを観ながら食事をとる。
空腹も満たされ、すっかり落ち着いた。さて、それじゃ家を出る時間までまったりとするか。
「……って、そうじゃないだろ! 何を落ち着いてるんだ、俺は!」
いかん、用を足してスッキリしたせいで、それ以前に考えていた事柄を完全に頭から追い出していた。
そうだよ、落ち着いてる場合じゃない。うちのトイレには見知らぬおっさんの死体があるんだった。あれをどうにかしない事には、何も解決しないぞ。
トイレへ行き、ドアを開けてみる。一瞬、死体が消えている事を期待したのだが、やはりそう上手くいくはずもなく、おっさんの死体は便座に鎮座したままだった。
「……」
ピクリとも動かない死体を眺め、考えてみる。まず、なぜこれがここにあるのか。
死体が勝手に歩いてくるはずもないし、普通に考えれば、これは誰かがうちに運び込んだんだろうな。
だが、それは誰だ。共働きの両親は現在、出かけているが、朝の七時半ぐらいまでは家にいるはず。となると両親が家を出てから、俺が起床するまでの四時間半ぐらいの間に何者かが家に侵入し、死体をトイレに置いていったのか。
何が狙いでそんな真似をしたのかは不明だが、ともかくそういう事なら警察に通報するしかない。玄関にある固定電話の受話器を手に取り、俺は一一〇番しようとした。
「……いや、待てよ」
途中で思い直し、受話器を置く。俺の予想通り、死体を運び込んだのが謎の人物なら問題はない。
だが、もしも、もしもだ。うちの両親が犯人だったとしたらどうする。警察を呼ぶのはまずくはないか。
いや、うちの両親はとても真面目だし、殺人なんかやらかすような人間ではないのはよく分かっている。だがしかし、物事には弾みというものがある。何かの偶然が重なった結果、死なせてしまう事もあるだろう。
つまりこれは、俺に死体の処理を任せるという、両親からのメッセージか。ひどい役目を押し付けてくれたものだ。
だが、それはあくまでも仮定の話だ。やはりこれは何者かの仕業なのかもしれない。
その場合、犯人の狙いは恐らく、俺に罪をなすりつける事だろう。そうでなければ人んちのトイレに死体を置いたりはしないはずだ。
まず、両親に電話で連絡を入れて、死体と無関係かどうかを確かめるか。それで無関係なら警察に通報。うん、それが一番正しいような気がする。
「むうっ……!?」
再び受話器を手に取ろうとしたところで、『それ』は起こった。
唐突にやって来たそのすさまじい感覚に身体を支配され、俺は脂汗を垂れ流し、その場で硬直してしまった。
まずい、非常にまずいぞ。考えてみればこうなるのは当たり前の事だった。起床して、飯を食えば自然とこの現象が起こるのは分かりきっていたはず。なぜ俺はその事に考えが至らなかったのか。
……うんこが、したい。
それもかなり大量のやつが腸内で渦を巻き、肛門を突き破ってしまいそうな勢いだ。さっきのピザが引き金になったか。ちょっと食いすぎたかな。
「ふもおおおおおお! で、出る出る出るううううう!」
直立状態で肛門を引き締め、両手でケツを押さえながらぴょんぴょんと跳ねて移動し、トイレへ向かう。
だが、そこにはおっさんの死体があり、便器を占拠したままだった。
なんという悪夢。いや、悪夢のような現実か……とか言ってる場合じゃない!
「そ、そこをどけ……! 今、そこに座るべき人間は、この俺だ……!」
何しろ排便五秒前といった状態なのだ。いくら力んでこらえても、もはや便の噴出を抑えられそうにない。
こうなるともうモラルもクソもねえ。便座に座したままピクリとも動かないおっさんの死体が、この上なく憎々しく思えてくる。
「おら、どけよ! 大体、誰だよ、あんた!?」
おっさんの腕をつかみ、引っ張ってみたが上手く動かせない。どうやら既に死後硬直というやつが始まっているようだ。
だが、そんな事は関係ない。俺はともかく、うんこがしたいのだ。そのためなら、相手がおっさんだろうが死体だろうが容赦するものか。
「ふぬぬぬ……こ、この野郎、はやくどきやがれ……!」
このおっさん、めちゃくちゃ重い! 百キロぐらいあるんじゃねえのか!?
こんなんじゃ遺体を運び出すやつが大変だろうが! ダイエットしてから死ねよ!
腰を落として踏ん張ればどうにか持ち上げられそうだが、今現在の俺にフルパワーを発揮するのは不可能だ。
踏ん張るどころか腰を落とした時点で限界を超える。突破してしまう。
ク、クソ、どうする。おっさんをバラバラにしちまうか? いや、素手じゃ無理だし道具を用意してる余裕もないぞ。
また風呂場で済ませるか? いやいや、小と大じゃまるで違う。上手く処理できるのか分からない。
ていうかもう一歩も動けねえ! 人間てのはなんでこんな自分の意思ではどうしようもない機能を抱えてるんだ? 後で出すから今は耐えられるようにしてくれよ! 排便のタイミングも制御できないのに何が霊長類の頂点だ!
「うっ、ぐうう……!」
も、もう限界だ。こうなったら一か八かで……!
便座の上に座ったまま動かない、醜いおっさんの遺体にしがみつく。
ものすごく気持ち悪いし死にたい気分だが、背に腹は替えられない。おっさんを真横に押しやり、便座の端に五センチぐらいの空きスペースを作る。
そのわずか五センチのスペースに腰を下ろし、重たいおっさんの身体をどうにか持ち上げ、便座とおっさんとの間に腰を入れる。
持ち上げる力と押し込む力を融合させる事により、おっさんの身体を膝の上に載せ、便座の上に自分の臀部をマウントする事に成功した。
言うまでもなく既に下は脱いでいる。おっさんのボディに押しつぶされそうになりながら、俺はこらえにこらえていたものを解放した――。
「ふうう……スッキリした……」
全てを出し切り、ようやく俺は落ち着いた。
一時はどうなる事かと思ったが、最悪の事態は回避できたわけだ。
我ながらナイスファイトだったぜ、俺。長い間忘れていた、熱き魂ってやつが甦った気がする。
フッ、俺にもまだこんな純粋なものが残っていたんだな……。
「……ところで、あんたはどこの誰なんだよ?」
膝の上に載せたままのおっさんに問い掛けてみたが、やはりというか返事はなかった。
もしやこのおっさんは、次元の壁を越えてうちのトイレにテレポートしてきたんじゃなかろうか。どこかで誰かに殺害された後、ワームホールか何かに落ちて。
分からない事だらけではあるが、もはやどうでもいい。
便意の解放という偉業を成し遂げた事に比べれば、謎の死体がトイレにある事なんて実に些細な問題だ。
次にトイレを使いたくなるまでにおっさんの遺体をトイレから運び出さないとな。
まずはとりあえず……警察呼ぶか。