この世界はあなたを必要としないの十三日目
翌日の朝十時に時哉は笹谷芹香に電話をした。学はすぐに電話を切られるのではないかと、はらはらしながら見守っていたが、案に相違して、笹谷芹香は今日の午後二時に自宅に来られるのなら時哉と会っても良いと答えた。
もう梅雨は終わりとばかりにひたすら青い空の下、三戸里市北部にある北三戸里駅からバスに乗り、笹谷芹香に聞いたバス停で降りた。住宅街の中を行きすぎて引き返すことを何度か繰り返した後、玄関のドアの前のコンクリートの床に、機関車トーマスのおもちゃとアンパンマンの小さいぬいぐるみが置いてある家を見つけた。
「先生。あれ、笹谷芹香が電話で話したっていう目印じゃないですか」
先程の電話で、笹谷芹香は目印に機関車トーマスのおもちゃとアンパンマンのぬいぐるみを家の前に置いておくと話していたのだ。そしてこの赤茶色の屋根とクリーム色の壁の二階建て住宅は案の定、笹谷芹香の家だった。
「いらっしゃい」
時哉と学を出迎えた笹谷芹香は、長い髪を黒いゴムで無造作に一つにまとめていた。黒いパンツスーツの胸元に白いシャツをのぞかせ素足にスリッパを履いた彼女は少し顔色が悪いような気がする。そしてどこかなげやりな気持ちが見える。実際通されたリビングはおもちゃが散らかったままだった。また、壁には額縁に入った小さい絵と共に、子どもの写真が整然と飾られていた。
「元気そうなお子さんですね」
「ええ、暴れん坊で大変です」
芹香の案内でリビングに入った時哉と学は、芹香に向かい合う形で紫色のソファに座る。
「早速ですが、この手紙についてお聞きしたいのですが」
時哉が手紙を差し出すと芹香は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻すと時哉に「あなた、もしかして本当は探偵じゃなくて殺しやさん?」と聞いた。
「いいえ、違います。なぜそう思ったのですか」
「だって、安江市長は自分の気にいらない者はどんどん殺すって言われているじゃない」
「その噂がインターネット上で話題なのは知っていますが、それは単なる妄想です。それより笹谷さん、あなたは市役所の駐車場に置かれていた胎児のおかあさんですね」
「ええっ!!」
時哉が芹香に聞いたことに対して、芹香本人よりも学が驚いて、思わずソファから立ち上がって閉まった。
「どうしてそう思うの」
「手紙には市役所に放置されていた男の赤ちゃんも、今三戸里市で起きている事件で亡くなった方もというように書いてありました。その前日に明和商事で多くの人がお亡くなりになる事件があったばかりなのに、駐車場の事件のことを強調するのは、赤ちゃんの事件の関係者ではないかと思いまして」
「また、大変失礼ですが、この部屋は少々散らかっていますが、壁に飾ってある絵や写真は綺麗に飾ってあります。掃除が苦手な人がこのような飾りかたをするとは思えないので、あなたはいつもは掃除をしっかりする方なのに、今は事情があって出来ないのではないかと考えました」
「それからあなたが今着られている黒いパンツスーツ、それはもしかして喪服なのではと思いまして」
「すみません。推理というよりは、当てずっぽうに近いですね」
時哉が謝ると芹香は笑った。
「だてに探偵を名乗っている訳じゃないのね。いいわ、お話ししましょう。と言っても私は何も知らないのだけどね」
それから芹香は手術の後は麻酔がきいていたのと疲れがたまっていたので、夕方までずっと寝てしまい何も知らないこと、病院は赤ちゃんの遺体が見つかったと報道されるまで赤ちゃんの遺体が行方不明になったことを知らせなかったことなどを話した。
「最初に病院から赤ちゃんの遺体が市役所に置かれていたって聞いて『はあっ!!』っていう気分だった。でも赤ちゃんを連れ去ったのが、最近三戸里市で起きている事件の犯人かもしれないって聞いて、許せると思った。だって、あの犯人の気持ちはよくわかるから」
「犯人の気持ちがわかるんですか」
「ただそうかもしれないと思っているだけなんですが」
「安江市長が急に保育園改革を始めたとき私が一番がっかりしたのは、安江市長が保育園が足りないのは一時的なことだから、無理をして保育園を作る必要はないと言ったことです」
「私はそれを聞いたとき、この人三戸里市を現状維持するだけで、三戸里市を発展させる気持ちがないんだなと感じましたね。増えた保育園がすぐ必要なくなるとかいってないで、保育園がずっと必要になる豊かな三戸里市にすればいいんです。それをあの市長は」
「最も安江市長だけが悪いんじゃありません。三戸里市には、三戸里市を良くしようとする人材がいないんです」
「そんなことはないと思いますよ」
「いいえ、そうなんです。安江市長が保育園改革を行ったあとに市長選挙があったのですが、市議会の全ての会派が安江市長を推薦しました」
「また、安江市長を脅かすような有能な人物も選挙に出ませんでした。そのため、安江市長は二位の野党候補に大差で勝利しました」
「さらに、三戸里市民は半数以上が選挙に行きませんでした。そのなかでもとくに私と同じ三十代は、五パーセントの人しか選挙に行きませんでした」
「犯人はこんな三戸里市民が嫌いだから、三戸里市民を殺すのかもと思うと、私は犯人を責める気になれません」
「私は犯人より、亡くなった横沢真央さんの方がよほど三戸里市の未来を考えていたと思いますよ」
「横沢さん。あの人は偉かったです。訴訟などして目立てば叩かれるのに、それを気にしないで」
「実際、横沢さんと他のお母さんが訴訟に踏み切ったとき、ワガママだとか自己中とか心ない批判をする人がたくさんいました。本当は小手先の手段で保育園問題を解決しようとする市を批判するべきだと思うのですけどね」
「それはともかく、日本では保育園に入れるか入れないかを審査するのに、それぞれの状況を点数化して点数の高い人から保育園に入れる制度になっています」
「三戸里市の新しい保育園制度では、育児休暇が終わった後は退園した育児に百点をつけて必ず元の保育園に戻れるようにするそうです」
「やらないよりやった方が良いに決まって居ますが、子どもは物じゃないんだからそう簡単に上手くいかないと思います」
ここまで話すと芹香は目を静かに閉じた。時哉と学がなにも言わずに見守っていると、目をゆっくりと開きまた話し始めた。
「悠真は、失礼、この写真の子どものことです。彼が保育園に入ってお友だちと一緒にいることで良い影響を受けていると感じ、私は彼が保育園で成長していく姿を楽しみにしていました」
「ところが数ヵ月前、私は避妊に失敗して妊娠してしまったのです」
「仮に第二子が生まれれば、悠真は育休退園になります。育休から復帰するときは、悠真に加え、第二子の入れる保育園も探さないといけない」
「もし一年後育休から復帰するとき二人とも保育園に入れなかったら、私の勤めている会社は育休休暇を一年以上はとりずらいですから、会社をやめるしかありません」
「しかも妊娠するとは思っていなかったため、気づいたときにはすでに楽に中絶出来る三ヶ月を過ぎています。私は色々考え、やがて気がつきました」
「私が一番嫌なのは、悠真が保育園をやめさせられること。それを避けるためには、第二子を絶対生んではならない。そこで私は、高いリスクがあっても、中絶する道を選ぶことにしました」
「ところで、悠真がお腹にいるとき、私はつねに綺麗なことを考え、綺麗なことを口にしようと心がけていました」
「しかし第二子を中絶するとき、私は本当のことを考え、本当のことを口にしました」
「この世界はあなたを必要としない、この世界はあなたをいらない。保育園に入れない子どもは生まれて来てはいけない。あなたが生まれることが出来ないのは、保育園に入れない市に住んでいる母親のもとに生まれて来た、あなたの自己責任って」
話しているうちに段々何かにとりつかれたような表情を浮かべ芹香は話をしていたが、急に静かになると時哉に頭をさげた。
「すみませんね。色々言いましたけど、悠真が小学生になるまで完璧な避妊をしておかなかった私の自己責任だってことは分かっているんですよ」
「ただあの日、病院からまっすぐ市役所に直行して、第二子のことで色々手続きをしているとき、待合室に置いてあるテレビに映っている安江市長を見たら、ついあんな手紙を書いてしまって」
「本当にそれだけのことで、犯人のこととか全く知りません。思わせ振りな手紙を書いてしまい、市役所の方にも、あなた方にもご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
「お気になさらないでください。それより、お子さんのご遺体は警察から帰って来ましたか」
「予定では明日帰してもらえるそうです。そうしたら病院で紹介された火葬場で焼いてもらい、綺麗な骨壺に詰めて、主人の実家のお墓に入れさせてもらいます。そのとき、今度は絶対三戸里市に生まれて来ないように、子どもを大事にしてくれる、もっと良い所に生まれるようにと、教えてあげるつもりです」
「そうですか」
「あの、もうすぐ子どもを保育園に迎えに行かないと行けないので、すみませんが」
芹香が申し訳なさそうに言うと、時哉は「こちらこそすみません。長居してしまいました。今日はお話ししていただきありがとうございました」と挨拶し帰ろうとする。隣でメモをとっていた学も筆記用具を片付けて帰る準備を始めていた。
「あの、そちらの若い方」
学は芹香に呼び止められた。
「日本は少子化に困っていると言いますが、それは嘘です。本当は誰も子どもなんていらないんです。そして、若い人たちも困りません。日本が駄目になればみんな自然に日本を出ていきます。日本にこだわらなければ、いくらでも良い場所はあるんです」
「なんて、三戸里市から引っ越すことのできない私が言うのはおかしいですね。でも、大人たちに騙されず、賢く生きていってくださいね」
芹香の瞳には痛いほどの真剣さが見てとれた。学は何と言って良いか分からず「そうですね」と相づちを打つことしかできなかった。




