悲劇と知れぬ悲劇
「君が新人の」
「はいそうです。東浜と申します。概念管理センター概念管理部配属になり、光栄です」
「そうか、がんばれよ。うちは古い体制をいまだに続けている法人だから、デジタルネイティブの君たちにはすこしやりにくいところがあると思うが、まあ慣れていってくれ」
「はあ、たとえばどんなところが古いんですか」
「これが嫌で部署をうつるやつも多いが、君の、そこにある箱、それが概念だ」
東浜は箱を見遣って、わかりやすく絶句した。
「この倉庫はすこし古めの概念が集められていて、これが『辷る』だな」
「はじめて聞く単語です」
「意味は『滑る』とおなじだが、こっちは古語扱い。好んで使う作家もまだいる。燃えやすいから気をつけて扱うように」
「燃えるんですか」
「燃えるよ」
「燃えたらどうなるんですか」
「そりゃ、消えるよ」
「消えるんですか」
「消えてなくなるわな」
「なくなったらどうなるんですか」
「書物は置き字になるし、新しく使えなくなる。辷っても理解できなくなるからもやもやする」
「この場所から持ち出されたらどうなるんですか」
「この場所になければ意味がない。逆に言えば、その概念はそいつのものになる。まあ通ってきたからわかると思うが、信じられない******がかけられているところだ。世紀のお宝泥棒でも無理だろうな」
ひとつの概念をひとりで担うことはできないから、みんなで共有しているんだけれどな、とことばを継いだ。
ただちに信じられるような話ではなかった。
「あまり信じてないようだな、新人。試しに燃やしてやろうか」
「え、そんなことしていいんですか」
「だめだが、信じてらもらわんことには仕事にならん。ここには海外のことばも集められていて、たとえば質問が多すぎるやつのことをロシア語では『パチェムーチュカ』といって、これはロシアにしかない概念だから燃やしても問題ないだろう」
「そんな……」
「ほかにも『ガッターラ』はイタリアにしかない。燃やしても困らん」
「意味にもよりそうですけれど」
「意味は猫しか愛せないババアのことだよ」
「そんなことばがあるんですか」
「独自のことばは独自の文化に依存している。『ガッタリベロ』といって、向こうじゃ野良猫なんて言わずに自由猫とか言うらしい。猫にも生まれながらの権利があるから、猫が生まれた場所で暮らす権利を阻害しちゃいけないとか本気で考えてる」
「はあ」
これらのことばは敢えて燃やさず、東浜の教育係は、そのほかの翻訳不可能なことばを燃やしていった。
ブラジルにしかない『***』ということばが燃やされたとき、東浜はすこしもったいないと後ろめたくなった。櫛で髪をとくように撫でる、といういとしい意味だった。
東浜は、信頼を得るために、嫌な顔せず、不平不満を言わず、上下関係を守り、誠実な態度で何か月も働き続けた。一通りの研修を受け、仕事をひとつひとつ学えてゆく。
そして、ある日、翻訳不可能語の倉庫へ侵入する。
真偽の確認がてら『***』を燃やしてみた。
これでだれも***のことを理解できなくなった。むろん東浜自身もそれを確認することはできないが、なにかひとつの概念を救済したじぶんを、彼は誇らしく思ってもいた。
次に「外来語」の倉庫に侵入し、「セキ」というクリエで検索をかけた。
出てきた「******」の大きな箱をロボットに運ばせて持ち出す。******は抽象的なことばなので、その箱のなかには『**』や『**』なども入っている。
ゴミ焼却炉で燃やそうと運んでいたとき、手を辷らせて地面に落とし、壊してしまった。
結果としてはおなじこと、だれもその概念を理解できなくなってしまった。
だれが概念を持ち出そうと、燃やそうと、壊そうと、バレやしない。自由な空間ができあがってしまった。**カメラもその機能を失い、カメラとしてもっと華やかな用事を与えられることになるだろう。
東浜はすぐに『*』の箱だけを持ち出して、逃げた。
「『*』と一緒に*の逃避行、なんて、俺はロマンチシストか」
東浜の『*』に対する気持ちは大きすぎた。彼はじぶんを見失っている。感情をコントロールできなくなっていた。*を、それこそ*する気持ちが行き過ぎたがために、*それ自身の脆さ、儚さ、繊弱さに気づくことができなかった。
割れ物注意の『*』の箱には自然と罅が入り、そのまま割れ崩れた。
東浜は、なにか大きなものを失ったように思えたが、その気持ちを分節することはできず、もやもやした気分のまま、管理センターに後戻りした。