前編
放課後顔を出した部室で、私はいきなり背中を叩かれた。
「おめでとう! この間の県展にお前が出した油絵、県知事賞だと。いやー、今までで一番良かったんじゃないか? 今度の全校集会で表彰があるからな」
ガハハと豪快に笑った美術部顧問の林先生に、曖昧な笑みを返す。
「なんだ、反応悪いな。嬉しくないのか?」
「そんなこと! あの、先生の指導のお蔭です。ありがとうございました」
「うんうん。あと、戻ってきた絵は学校の玄関に飾らせてくれって校長先生が言ってたぞ」
「分かりました」
イーゼルの前に座り、とりあえず静物をスケッチすることにした。
県展で評価して貰えたことは素直に嬉しいんだけど。
『全校集会』という言葉に、ちょっとだけ……じゃなくて、かなりブルーになった。
絵画教室に通い始めたのは5歳の時。
実は美大に進みたかったという父に、半ば無理やりに連れて行かれた。小さい頃からの人見知りは、今も変わっていない。1000人を超える全校生徒の前で見世物にされるのかと思うだけで、足が竦んでしまう。
全校集会の朝は、なかなか洗面台の前から離れられなかった。
真っ直ぐな黒い髪を丁寧にとかし、制服の襟元やスカートのひだなんかを細かくチェックする。こんなことくらいしか出来ないけど、それでもしないよりはマシ、だよね?
鏡の前には、最近では珍しい古風な女学生が映っていた。
うちの学校の流行とは真逆の制服姿。
目立つ綺麗系の子達はみんな、ブラウスの第一ボタンを外して、真紅のリボンをゆるく結び、スカートは腰で折り曲げて膝上まで短くしていた。ブレザーの丈も微妙に調節して、ウエストを細く見せるのも忘れない。
だけど、私にはそんな勇気はない。
生活指導の三枝先生の大きな声を思いだし、反射的に顔を顰めた。
「なんだ、その恰好は!」
きつい口調で注意されても「あはは、ごっめーん、センセ。誘っちゃった?」などと軽やかにかわしていく女の子たちの周りには、キラキラした光が見える。
――私には、ない光。
ざわつく大きな体育館で、自分の名前が呼ばれた。
まっすぐ歩けているだろうか。緊張のあまり、唇が細かく震えてしまう。壇上に上がる直前、同じクラスの男子たちが目の端に映った。
茶色に染めた髪に着崩した制服。
大人っぽい彼らは、学校でもすごく人気がある。グループの中心人物である寺島 皓稀くんが、軽く欠伸を噛み殺しているのに気づいて、胸が痛くなった。
――ただでさえつまらない集会を、さらに延長させちゃってゴメンね。
心の中で謝りながら、校長先生の前に進み出る。
楯と賞状を受けとり、ペコリと頭を下げる。学年主任の先生が高らかに読み上げる私の受賞歴を他人事のように聞きながら「早く終って」とそればかりを念じていた。
おざなりな拍手と興味ないんですけどと言わんばかりに広がる私語に、私の頬は真っ赤になった。
集会が解散になった後クラスに戻ると、「スゴイじゃん! 頑張ったね~」と仲良しの真紀ちゃんと朋絵ちゃんが駆け寄ってきた。
真紀ちゃんは、吹奏楽部に入っててクラリネット担当。かなりの強豪であるうちの吹奏楽部は、すごく規律に厳しい。だから、彼女も私と似たような恰好をしてる。
朋絵ちゃんは、野球部のマネージャーをやっていた。結構な重労働なんだよね、と髪はいつもショートをキープしてる面倒見のいい姉御肌。
うちの学年の生徒は大体三つのグループに分かれてる。
寺島くん達を中心としたイケてるグループ。もちろん中にはキラキラな女の子達も含まれる。
もう一つは、私達みたいに地味なんだけど、それなりに学校生活を楽しんでいるグループ。下校途中の寄り道先は、ショッピングセンターがせいぜい。
残りの一つは、早くも受験体制に入っている勉強の出来る子たちのグループだ。
寺島 皓稀くんは、軽い見た目とは違ってすごく頭がいい。三つ目のグループに入ってても全然おかしくない彼なのだけど、気が合うのはファッション雑誌から抜け出てきたかのような男の子たちの方みたいだった。
「ねえ、そういえば今日じゃない? 中間テストの張り出し」
5月も終わり近く。お昼休みの購買帰り、真紀ちゃんが思い出したようにふと口にした。
「うわ~、忘れてたのに~。絶対、また親がキレる!」
私と同じく赤点スレスレ回避組の朋絵ちゃんが、情けない悲鳴を上げた。すごく分かるよ、その気持ち。返ってきたテストを親に見せる度に、大きな溜息をつかれてしまうのは、私も同じ。
「せっかくだから、渡り廊下通っていこうよ。初めての定期テストだし、今、うちのクラスでは誰がどんな感じなのか知りたいじゃん」
「んー、真紀ちゃんがそう言うなら」
うちの学年には380人くらいの生徒がいる。そのうち、上位30名だけが総合得点と共に名前を張り出されるのだ。
お昼休みだからか、掲示板の前にはすでに人だかりが出来ていた。
「くっそー。15点差かー」
「んじゃ、俺の勝ちってことで」
大勢の中でも飛びぬけて目立つ寺島くんたちのグループまでいた。井上くんと賭けでもしてたのか、寺島くんは悔しがる彼をハッと鼻で笑っている。
短いスカートから細い足をのぞかせた綺麗な女の子たちが「コウキ、かっこいい!」「ガリ勉くんたち、立場ないじゃん! かわいそー」などと嬌声を上げていた。
「寺島皓稀、かー。3位だって。すごくない? うちのクラスじゃトップじゃんね」
「4位が井上晴人だって! あいつ頭良さそうに見えないのにね~」
内緒話のような小声で、朋絵ちゃん達が囁いてきた。
3位の寺島くんの総合得点は500点中485点だ。……私は300点にも届いてなかったから、その差は185点。五教科で割ったら、37点も違う。
「部活には入ってないけど、バスケもサッカーもすっごい上手いんだってさ。それであのルックスでしょ。人生イージーモードだねえ」
真紀ちゃんがしみじみとそんなことを言うもんだから、私たちは思わず笑ってしまった。だって、もう笑うしかないよね。天は二物を与えずというけど、そんなの嘘だったんだ。いいなあ、とぼんやり彼のスラリとした後ろ姿を眺める。
――冴えない私には手の届かない、違う世界の人。
……実は、私は彼と一年の時同じクラスだった。
なかなか友達を作れず、お弁当を教室で広げるのか苦痛だった一学期。人目を避けて上がってみた屋上に彼らはいた。
『あれ? とうとうこんな場所まで避難してきちゃったの?』
グループの派手な女の子に目敏く見つけられ、私はどうしていいか分からなくなった。ぎゅっとランチバッグを抱えて立ち尽くす私を一瞥し、寺島くんは凛々しい眉をきつく寄せた。
『……お前、ンな言い方すんなや』
『え? そんな怒んないでよ、コウキ~』
多分、彼は覚えていない。私をクラスメイトと知ってて庇ってくれたわけでもないと思う。
でも、あの時から私は彼を目で追うようになってしまった。
「そう言えば、4位の井上って、ほらアイツ。実は私と同中でさ。去年同じクラスだったんだけど、あの二人が揃うともう、女子がウルサイのなんのって」
うんざりしたような表情で、真紀ちゃんが言った。それを受けて、朋絵ちゃんも顔を顰める。
「わ~、じゃあ今年もきっとそうだよね。体育祭とか文化祭が今から憂鬱~。絶対うちら、パシらされるよ、あの子らに」
「まあ、せっかく同じクラスになったんだし、協力して頑張ろうよ」
彼らをフォローするつもりなんてなく、ただクラス内でトラブルが起きたら嫌だな、という臆病な考えで私はそう口にしたのだけど、真紀ちゃん達からは盛大なブーイングが起きた。
「美祢ってば、そんなお人よしなこと言ってると、真っ先に狙われるよ!」
「そうだよ、ただでさえ絵が上手いんだし、ポスターとか立看とか死ぬほど描かされても、助けてやらないからね!」
えー、と内心しょんぼりしながら、掲示板を後にする。
寺島くんをもう一度だけ振り返ってみると、彼はつまらなそうに紙パックのジュースを大きな手でクシャリと握りつぶしていた。
小さなそれは、綺麗な曲線を描きながら遠いポリバケツの中に叩き込まれた。
中間テストが終わってしばらく経った6月。
校外学習で、学校から二駅先の大きな美術館へ行くことになった。ちょっと前に新聞の広告で「シャガール展」があると知っていた私は、その話を聞いて秘かに小躍りしていた。楽しみだなあと浮き浮きしながら、学習のしおりを広げる。
「は? 何それ、めんどくさー」
隣の席の橋本さんが心底嫌そうに声を上げたので、体がビクっと竦んでしまった。
舞い上がってた気持ちは叩き落され、水たまりに落ちた雑巾みたいにくちゃくちゃになった。
橋本 千尋さんというのは、寺本くんたちと仲の良い目立つグループの女の子。
長く伸ばされた爪は、磨き上げられうすいピンク色に染まっている。思わず自分の爪に目を落とした。絵具が入り込まないように短く切られた不格好な指先は、ペインティングオイルやテレピン油で荒れてガサガサだった。
みっともない私と、キラキラ光る橋本さん。
誰にも見られないよう、まるく指先を握り込んだ。
そして当日。
大好きな画家だし、ゆっくり回りたいから。
そう頼むと朋絵ちゃんと真紀ちゃんはすぐに頷いてくれた。絵のことになると人が変わるよね、とからかわれ、少し恥ずかしくなる。
鑑賞時間は二時間もある。
とりあえずパンフレットを購入し、ずっと見たかった絵のところへ急ぐことにした。
広い美術館の展示ホールは、平日の午前中ということもあって、人はまばらだった。うちの学校の制服だけがあちこちに散らばっている。
「誕生日」というタイトルの作品に辿り着き、私はうっとりとその一枚に魅入った。
愛妻家で知られるシャガールが、新婚時代に描いた絵で、ふわふわと宙を浮かぶ若い男女がキスを交わしているというもの。幸福感に満ち溢れながらも、色遣いに寂しい印象があるのは、戦時中だった当時の時代背景があるからかもしれない。
「こういう絵って、どうやってみんの?」
後ろから突然声を掛けられ、私は滑稽なほど動転してしまった。
声の持ち主が、寺島くんだったから余計に。
びくつく私に苦笑を向け、寺島くんは「誕生日」を指さした。
「抽象画っていうんだっけ」
何か、解説的なものを求められてるんだろうか。
助けを求めるように部屋の隅の椅子に腰かけている職員さんに目をやったが、ちょうど他のお客さんに話しかけられているところだった。
「うん。えっと、正確なデッサンよりも心象風景をデフォルメしつつ表現することを重視してる人たちの描いた絵のことを指すんだけど……って、意味わかんないよね。ごめん、私、説明下手だから」
「へぇ、心象風景をデフォルメね。俺、絵とか判んねぇからやっと理解出来たわ。この絵、好きなの? さっきからじっと見てるけど」
「うん、リトグラフのやつは見たことあるんだけど、本物は初めてだから。シャガールが誕生日に奥さんから花束をもらった時の喜びを表してるんだって。まっすぐな愛情みたいなものが表現されてて、気に入ってるんだ」
寺島くんの眼差しに私を馬鹿にするようなニュアンスはなかった。
ホッとしたのと嬉しいのとで、つい色々喋ってしまった。
「へぇ、そう言われると。何か判る気がすンな。色とか、構図とか、幸せーって感じが」
「でしょう? だから好きなんだよね」
「お前の絵も見たよ」
「……え?」
思わずまじまじと寺島くんを見上げてしまう。しっかり目が合ってしまい、私は慌てて俯いた。
ほっぺが赤くなってるの、どうか気づかれてませんように。
「学校の玄関に飾られてたやつ。なんかこう、キラキラしてて俺はいいと思う。あの絵」
予想もしてなかった褒め言葉に、心臓が止まりそうになった。
「え、いやあれは全然、大したことなくて」
「いやなんで、そんな挙動不審になンの。賞取ったんだろ? もっと自信持てよ」
「シャガール展に来てて、そんなこと言われたら誰だってなるよ!」
恥ずかしさのあまり、つい口調が砕けてしまう。
寺島くんは何故か嬉しそうに笑って、制服のポッケに手を突っ込んだ。
その後結局、そのまま二人でシャガール展を回ることになった。
傍から見たら、すごくちぐはぐな二人だったと思う。
アシンメトリな私たち。
それでも、憧れの人と一緒に好きな絵を見ることが出来て、すっかり舞い上がってしまう。
シャガールの絵の色彩の豊かさ、美しさなんかについて一生懸命説明してみたせいか、寺島くんは最後まで上機嫌だった。
嫌われてはない、ってことだよね。
学校の玄関に飾ってもらってある絵のタイトルは『憧憬』。
満開の桜の下、自転車を押しながら土手を歩く小さな二人は、私と寺島くんをイメージして描いたんだ、なんて絶対に言えない。でもその絵を寺島くんが見てくれていた。その事実だけで、私の胸はいっぱいになった。