さよなら駅
がたんごとん、と。
いつもの帰りの電車で私はいつの間にか眠っていたようだった。時間を確かめようとポケットに手を入れたが携帯電話は見つからず、同時に異変に気づいた。
そもそも私の乗った駅から終点までは数駅しかないはずで、ぐっすり眠っていてまだ走っているというのはおかしい。それに周りに他の乗客がいない。こんなことは初めてだった。
窓の外は真っ暗で外の景色は見えない。文字通り閉じ込められていた。
ふと気がつくと目の前の座席にぬいぐるみがいた。「あった」ではなく「いた」なのはそのぬいぐるみがあたかも人のように話しかけてきたからだった。
「お嬢さん、迷子かい?」
「あなたは、誰?」
「僕は見ての通りの人形さ。それで、迷子なのかい?」
ぬいぐるみが話しかけてくる、という異常な出来事も不思議には感じなかった。むしろ何が起こっているか知りたいという好奇心が強く、手がかりが現われたのは幸運だ、とさえ思っていた。
「電車に乗って迷子、というのも変な話よね」
「気取った話し方をするね。つまり、迷子なんだろう?」
「先にあなたの話し方が気に入らないのよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いとは、これまた失礼な」
ぬいぐるみがおどろいたように、おどけたように顔の前で手を振る。がたごとという電車の音も耳障りだった。余程速度が出ているのかもしれない。
「それで、私に何か用? 早く帰して欲しいんだけど」
「僕は別にお嬢さんをどうこうするつもりはないよ」
「今、こんなところに閉じ込めているじゃないの」
「どちらかと言うと、引き止めているってことになるかな」
「意味がわからない」
ぬいぐるみがあたかも立ち上がるような動作をした。実際にはぬいぐるみは宙に浮いて足がそれらしく動いているだけで、しかしそれに連動しているようにぬいぐるみは電車の中の向かい合った座席の間を行ったり来たりしていた。
「少し話をしよう」
「……それを聞かないと帰れないわけね」
今度はぬいぐるみは返事をしなかった。車両の端まで行って、こちらを振り向いて歩き始めたあたりでまた話し始めた。
「人間押し並べて、生きていても辛いことの方が楽しいことよりも圧倒的に多いんだ。例えば……」
ふっと、暗闇しか映さなかった窓に白いものが現われる。黒や赤が書き込まれた紙。確かあれはテストの答案用紙だったはずだ。
「そう、お嬢さんはがんばったんだよね」
高校時代、苦手な科目の嫌みったらしい教師を見返してやろうと、一度だけ必死にテスト勉強をしたときのものだった。ほぼ満点をとって鼻をあかしてやったはずだ。
「でも気持ちが良いのは一瞬だけ」
そうだった。火事場の馬鹿力のようなものは長くは続かず、結局元に戻っていってしまった。私もそれ以上足掻くのをやめてしまった。
「それでお嬢さんは別のことを始めた」
段々と電車が減速していく感覚があった。次の駅が近いのだろうか。
窓に、今度は白いボールと高いネットのあるコートが映った。そう、私はバレーボールに熱中していた。勉強なんか投げ捨てて全力でやっていた。充実していたと思う。
「でも、上には上がいるものだよね」
結局、学生の部活では限界があったのだ。もともとバレーが好きだったわけでもなく、ただ自分にできることを探していただけだったのかもしれなかった。
電車は更に減速していく。
「楽しかったかもしれないけど、辛かったことの方が多いんじゃないかな?」
「そんなことない……」
「なら、今、楽しいかい?」
学校を出て、何も残らなかった。私は今は、今は……。
減速して、遂に電車が止まった。独特の音を立ててドアが開いた。ぬいぐるみに連れられるように、私は駅へ降りる。
外壁も天井もないプラットホーム。人気なんてない。大きく白い看板には駅名が書かれていた。
『さよなら駅』
それがここの駅の名前らしい。
「お嬢さん、降りるのかい?」
「私、辛いのは嫌だから」
もう何もかも忘れてしまいたかった。これ以上いきたくない。でも、帰りたくもない。私は何からも降りたかった。
そんな時、向かいのプラットホームから呼びかけてくる声があった。
「……い……て……!」
顔を上げると制服姿の女の子が片手をぶんぶん振り回しながら、もう片手を口にあてて一生懸命声を出していた。それほど遠くないはずの距離なのにほとんど聞こえない。
それでも、私はわかった。がむしゃらな彼女の姿に思い出したことがあった。
新しい電車が目の前に現われて彼女の姿が消える。私が今まで来た方向へ向かうあの電車には、彼女が代わりに乗ってくれるだろう。とてもありがたかった。
私はさきほどまで乗っていた電車に飛び乗った。ぬいぐるみもついてきた。
「お嬢さん、行くのかい?」
「うん」
「ずいぶんあっさりと決断を変えるんだね」
「そんなものでしょ」
電車はどんどん加速していく。窓越しの景色はまた真っ暗になっていく。
「引き止めて悪かったね」
「本当に悪かったと思ってるの?」
「思っているよ。僕はお嬢さんの味方だからね」
「あら、そう」
自分の代わりに引き返していった女の子のことを想う。何か心の中で言いかけて、止めた。
彼女のことは、忘れるのが一番良いことだから。それでも一瞬、ガタンと揺れた。
「またここに来るかもしれない」
「もう来ないのがいいよ」
ぬいぐるみの言葉に目を丸くし、それから電車の揺れに身を任せるように目を瞑った。
目を開けると、いつもの降りる駅だった。慌てて降りてホームに立つ。
走り去る電車を見送りながら、今日の出来事に、口の中だけで小さく「さよなら」とつぶやいた。
「私、辛いのは嫌だから」
そう言って彼女はククレカレーの甘口を買い物カゴに入れた。