幻奏(シンクロニシティ・IFストーリー〜真由子一度目の人生〜) 一九九六年【受け継がれるくすりといのち】
【プロローグ・心が軽くなる『くすり』】
一九八九年。長野県松本市。
ベンチに座る制服を着た高校生くらいの青年の足元に、コロコロと赤いゴムボールが転がってきた。
青年が虚ろな目をしてゆっくりとボールを拾い上げる。
すると、遠くで遊んでいた小学校高学年くらいの女の子の集団から、一人の少女がタタタッと走ってきて、青年の前に立った。
『すみません、あたっちゃいましたよね。痛くなかったですか?』
『……いえ』
『……お兄さん、すごくさみしそうな顔してる』
少女は、胸のポケットをごそごそと探ると、小さな何かを取り出して青年に差し出した。
『あ、そうだ。これ……ちょっとだけ、心が軽くなる「くすり」です』
『……ありがとう』
『ボール、ごめんなさい!』
少女はぺこりと頭を下げると、元の友達の輪の中へと走って帰っていった。
遠くの小学生の集団から、黄色い声がかすかに風に乗って聞こえてきた。
『真由子ちゃーん、大丈夫だった?』
『うん。優しそうなお兄さんで、痛くないよって拾ってくれたの』
母を喪い、抜け殻のようになっていた青年の手に握られた『くすり』が、彼の心に温かい波紋を広げていった。
【最後の講義と、計算外の再会】
一九九六年、夏。 S大学経済学部、大講義室。
この年に経済学部に入学し、前日に初めての前期末試験を終えたばかりの真由子は、友人たちと共にその場所にいた。
事の発端は試験の二週間前。
掲示板に張り出された『経済学部の教授による特別講義』のお知らせだった。受講は必須とされ、学籍番号の下一桁で厳密に時間が割り振られていた。
担当教授の名前も記されていたが、入学したての真由子にはピンとこない。ただ上級生の噂から、どうやらマクロ経済学の権威らしい、ということだけは伝わってきていた。
指定された時間より少し早めに大講義室へ向かうと、そこはすでにたくさんの上級生たちでごった返していた。開け放たれた扉からは松本の涼やかな風が吹き込んでいるはずなのに、学生たちが発する異様な熱気で、部屋の中はむせ返るような暑さになっている。
最前列を含めた前方の席はすでに上級生たちに占拠されており、真由子たち一、二年生は熱に押されるようにして、後方の席へちょこんと腰を下ろした。
ざわめきの中、周囲の会話が断片的に耳に飛び込んでくる。 話を総合すると、その教授は一昨年の冬に学内で倒れて医学部附属病院に運ばれて以来、一度も教壇に立っていなかったらしい。
——こんな時期に、わざわざ講義を開くなんて。 これが「最後の講義」になるのではないか。そんな不吉な予測を囁き合い、顔を曇らせている学生もいた。
開始時間ぴったりに、一人の教授が登壇した。 教壇のすぐ近くには、付き添いなのだろう、スーツ姿の二十代後半くらいの青年が心配そうに控えている。
「佐藤です。一、二年の学生諸君は初めまして。三年生以上の皆さんは久しぶり。だいぶご無沙汰してしまい、申し訳ない」
マイクを通して響く声は、静かだが、深い包容力とあたたかい人柄を思わせるものだった。
佐藤教授は還暦手前。倒れる前を知る上級生が息を呑むほど、教授の体は痛々しいほどに痩せ細っていた。しかし、その奥にある知性を隠しきれない瞳の光だけは、決して失われてはいなかった。
「だいぶ体調が回復したので、大学側とも話し合って、この時期に講義を開くことにしました」
きっと、心から学生に慕われていたのだろう。前列の上級生たちは、一言も聞き漏らすまいと食い入るように教授を見つめている。
学者の授業は難解で独りよがりなものも多い中、佐藤教授は「教師」として学生と同じ目線に立ってくれる数少ない先生だった。語られる内容は、不思議なほどすっと頭に入ってきた。
ふと、真由子は大講義室の一番後ろ、壁際に静かに佇む一人の青年に目を止めた。
大学院生くらいだろうか。教壇の横に控えているスーツの青年と面差しがよく似ているから、きっともう一人の息子さんなのだろう。眼鏡の奥の切れ長な瞳には、冷徹なほどの知性が溢れている。
しかし、その視線は学生たちには一切向けられず、ただ、教壇で話す痩せてしまった教授の背中だけを、祈るように、そしてひどく哀しそうに見つめていた。
どこか孤独な影を纏うその青年がなんとなく気になった。
講義が終わり、佐藤教授が降壇してすぐのことだった。
大講義室が学生たちの温かい拍手に包まれる中、真由子がふと壁際に視線を戻すと、あの哀しそうな青年が、後ろのドアから静かに退場していくところだった。
(——どうしても、声をかけなきゃいけない気がする)
普段の引っ込み思案な自分からは考えられないほど、真由子は衝動のままに席を立ち、ベランダから外階段を降りて研究棟に向かおうとしていた青年の背中を追いかけた。
「あのっ!」
呼び止められ、青年は訝しげに振り返った。冷徹なほどの知性を湛えた切れ長の瞳が、真由子を真っ直ぐに射抜く。
「……なんだい?」
「不躾なのはわかっています。でも……先ほどから、すごく悲しい目をされていたので……」
真由子は、ポケットに入っていたいちご味のドロップを取り出し、彼に向かってそっと差し出した。
「これ……少しだけ、こころが軽くなる『くすり』です」
その言葉を聞いた瞬間。
青年の表情から、張り詰めていた理性の仮面がバサリと剥がれ落ち、両目が大きく見開かれた。
(あっ……!)
真由子もまた、彼からドロップを受け取ろうと伸びてきた大きな手を見た瞬間、奇妙な既視感に襲われた。
——昔、同じことをした気がする。
——昔、同じことをされた気がする。
「……君は、いつもこんな風に、見ず知らずの男に飴を配っているのかい?」
青年は、震える声を必死に抑え込むようにして尋ねた。
「い、いえ! 一度だけ、小学生の時に……。でも、今日は、なんだかそうした方がいい気がして」
「……そうか。君だったのか」
青年は、深い安堵と、何十年もの謎が解けたような熱を帯びた瞳で真由子を見つめた。
「僕は、佐藤誠といいます。君と、話がしたい。少しだけ待っててくれるかな」
佐藤と名乗った彼は、上着のポケットから万年筆とメモ用紙代わりの手帳を取り出すと、さらさらと流麗な字で電話番号を書き付け、真由子に手渡した。
「これは僕の家の電話番号だ。君の連絡先も、聞いてもいいだろうか?」
「え? あ、はい。でも自宅だと親が出るので……ポケットベルの番号でもいいですか?」
「もちろん。ありがとう」
真由子からポケベルの番号を受け取ると、誠はそれをひどく大切そうに手帳に挟み込んだ。
「こちらから引き留めておいて申し訳ないが、これから父を病院に戻さなければならないので、今日はこれで失礼するよ。……のちほど、必ず連絡する」
そう告げて研究棟へと歩き出す彼の背中は、先ほどまでの孤独な影が嘘のように、静かな、しかし確かな生命力に満ちていた。 それはまさに、エラーを起こして止まっていた「人間計算機」が、熱烈な再起動を果たした瞬間だった。
真由子は、真夏の風に吹かれながら、その背中をいつまでも見つめていた。
その日の夕方。
けたたましく鳴ったポケベルの液晶に浮かび上がった『ドヨウビアエルカナ?』の文字。
それを見た真由子は、あの冷徹なほどの知性を持った青年が、電話の前で一生懸命ボタンを押している姿を想像し、思わずふふっと笑みをこぼしてしまった。
真由子はすぐに誠へ電話をかけ、土曜日の時間と場所を約束した。
◆ ◆ ◆
そして迎えた、土曜日。
待ち合わせ場所に現れた誠は、真由子を静かで落ち着いた、大人の雰囲気が漂う喫茶店へとエスコートした。
「あの日の『くすり』のお礼だよ」
そう言って誠が真由子の前に差し出したのは、宝石のように美しいケーキだった。
「甘いものが好きかと思ってね」
涼しい顔をして言い放つ彼だが、その実、この数日間の彼は真由子に最高の一皿を食べさせるためだけに、松本中の喫茶店のケーキの評判を気が狂うほど徹底的に計算し尽くしていたのだった。
「改めまして、佐藤誠です。今は医学部の附属病院で薬剤師として働いているよ」
「浅野真由子です。経済学部の一年生です」
「あのとき、とても辛いことがあってふさいでいた僕に君が『くすり』をくれたことが、僕が立ち直れる一因になったんだ。君の顔を覚える余裕がなくて、お礼も言えなくて。ずっと心に残っていたんだ」
「そうだったんですか。すごく寂しそうな顔をされていたので、気になって。『くすり』が効いてよかったです」
お茶を飲みながら言葉を交わすうち、誠と真由子は驚くほど共通点が多いことに気がついた。
真由子が、誠の父が教壇に立つ経済学部の学生であること。そして、誠と真由子が同じ高校の出身であること。
まるでお互いに古くからの『友達』であったかのように、会話は自然と弾んでいく。
いや——誠の心の中は、単なる友情とは別の、新しく熱い感情でいっぱいになっていた。
この少女と、もっと話がしたい。……この笑顔を見ていると、どんな複雑な計算でも容易く解けるような気がする。
ただ息をして生きていた昨日までが嘘のように晴れやかな気持ちになる。完璧だったはずの自分のロジックが、彼女の前では心地よく溶けていくのがわかった。
誠の口から、自然と言葉がこぼれ出ていた。
「よかったら、時間のある時に、会ってもらえるかな。僕は基本土日が休みだから、君に合わせるよ」
「はい。ただ、土日は土曜日の午前中しか空いてなくて……。今日は前期試験とコンクールが終わった直後なので特別に空いているんですが、午後からと日曜日は、いつも吹奏楽団の練習があって」
「えっ? 君も吹奏楽を? 楽器は、何を?」
「えっ、えっ! あ、クラリネットです」
「そうか、僕はホルンを吹いていてね。今は親父の看病があるから吹奏楽団には所属していないんだが。……そうだ。今度、うちの音楽室に来るといい。練習し放題だし、楽譜もCDもある」
突然の魅力的な提案に、真由子は目を丸くした。
個人宅に音楽室があるなんて、どれだけ立派なお家なのだろう。
「そうなんですか。佐藤さん、松本蒼峰の先輩で、吹奏楽部でも先輩だったんですね。共通点が多いですね、ふふっ。ええと……社会人で薬剤師でいらっしゃる……薬学部、あっ!」
真由子は先輩から聞いた、『伝説の先輩』のことを思い出した。
「もしかして……『人間計算機』の先輩ですか?」
「えっ?よく知っているね、今でもそう呼ばれているよ」
『人間計算機』。高三の夏、八月のコンクールまで出たのにT大に現役合格したという、伝説の先輩。たしか、余裕で日本最高峰の理科三類(医学部)に合格できる頭脳をもちながら、『薬の研究がしたいから』といってあっさりと理科二類に進学したんじゃなかったっけ。楽器の腕も高校生離れしていたと聞いた。
そんな先輩が、ただの十九歳の女子大生である自分に対し古くからの友人のように喋ってくれて、あまつさえ一緒に練習しないかと誘ってくれているなんて。真由子は素直に嬉しかった。
「それで、音楽室の件だが」
「……はい。ぜひ、よろしくお願いします」
真由子が微笑んで頷くと、誠はひどく熱を帯びた、優しすぎるほどの微笑みを浮かべた。
「ああ。……君のクラリネットの音を聴けるのを、楽しみにしているよ」
【こころの共鳴と、交差する運命】
防音壁に囲まれた静かな音楽室に、誠のホルンが響き渡った。
——なんて、深くてあたたかい音……。
それは、真由子がこれまで知っていたどんな音楽とも違っていた。彼が息を吹き込んだ瞬間、空気が黄金色に温められ、優しい音に包まれ、抱きしめられているような錯覚に陥る。
S大学での生活は、それなりに楽しい。勉強にも真面目に向き合っている。けれど、経済的な問題で本当は行きたかった薬学部への道を諦めざるを得なかった悔しさは、今も胸の奥に澱のように残っている。 そんな真由子の隠れた切なさと孤独を、彼の音が静かに溶かし、すべて浄化していく。
この深くあたたかい音に、ずっと包まれていたい。
この、不器用で優しい人に、守られてみたい。
(どうしよう。……私、この人のことが好きだ)
男性経験のない十九歳の胸に芽生えた、初めての感情。心臓が痛いほど高鳴り、真由子は呆然と彼を見つめていた。
「……遠慮せず、楽器を鳴らしていいんだよ」
不意に演奏を終えた誠の声に、真由子ははっと我に帰った。
「あ、はい……っ」
慌ててマウスピースを咥え、真由子は息を吹き込む。ひどく緊張したが、まずはいつもの基礎練習から地道にはじめることにした。
誠は楽譜を探すふりをしながら、真由子の紡ぐまっすぐな音色を、ひどく愛おしそうに、宝物でも慈しむように聴き入っていた。
(……正確な音だ。でも、なんて純粋で優しい音なんだろう)
誠の胸の奥で、静かな熱が広がっていく。 母を喪った傷も癒えていないのに今度は父が倒れ、全てを捨てて松本に帰ってきた。兄の徹は『いいから東京にいろ』と言ってくれたが、乳飲み子をかかえて一人で看病なんて無理だ。父に寄り添いたかったから後悔はしていないが、家族のために自分の人生を諦めて、冷たい計算式の中だけで生きるのは、辛かった。
そんな自分の凍てついた世界に、一滴の甘い『くすり』が落ちて溶けていく感覚。張り詰めていた理性が、彼女の音の前で心地よく崩れていく。
「……とてもいい音だ。君の素直さが表れているね」
演奏を終え、一息つくと、誠は静かに微笑んだ。
「ピアノも調律してあるから、自由に使うといい」
「佐藤さん……ピアノも弾けるんですか?」
「ああ。和声の確認のためにね」
「何か……私のために、弾いてもらえますか?」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が口から出ていた。
誠は少しだけ目を丸くした。十九歳の無防備な甘えに、彼の中で「人間計算機」の警報が微かに鳴り響く。しかし、すぐにひどく優しい顔になって頷いた。
「うん、もちろん」
彼が椅子に座り、鍵盤に指を落とす。紡ぎ出されたメロディを聴いて、真由子は再び息を呑んだ。叩いて音を出すピアノから、彼のホルンとまったく同じ、すべてを肯定して包み込んでくれるような音がするのだ。
「え……あ、とても素敵な音で。佐藤さんのホルンも、ピアノも。すごく、努力なさったんですね」
自分が胸元を強く握りしめ、泣きそうな顔で彼を見つめていたことに気づき、真由子は慌てて誤魔化すように微笑んだ。
「ああ、音楽を極めてみたくてね。それに、もともと経済学者になりたかったから、数学的な和声の構造にも興味があったんだ」
「えっ……経済学者、ですか?」
「ああ。……でも、理由があって、薬の研究をしたくなって途中で志望を変えたんだ。まあ、親父が倒れて、東京での研究を諦めてこっちに戻ってきたんだが」
その言葉に、真由子は大きく目を見開いた。
自分が経済的理由で薬学を諦め、経済学部に進んだことと、まったく逆のルート。そして何より、『夢を諦める』ことの痛みを、真由子自身が誰よりも痛いほど知っていたからだ。
「……お辛かったですよね」
思わず、そんな言葉が口を突いて出ていた。
「え?」
「私……本当は、薬学部に行きたかったんです。でも、うちの経済的な理由で諦めるしかなくて。……だから、佐藤さんが東京での研究を諦めた時の無念さ、少しだけ……わかるような気がして」
真由子がぽつりと零したその言葉に、今度は誠がわずかに息を呑んだ。
互いに誰にも言えなかった、諦めと挫折の記憶。それが今、この小さな音楽室で不思議な交差を果たしている。
誠は、ひどく熱を帯びた、優しすぎるほどの微笑みを浮かべた。
「……そうか。君も……」
「本当は、今でも時々、これでよかったのかなって……」
俯いた真由子に、誠の静かで、深く温かい声が降ってくる。
「……そうだったのか。でも、君が経済学の道に進んだことは、絶対に無駄にはならないよ。うちの父の授業を受けてくれたんだろう? 君のような真面目な学生が、父の学問を受け継いでくれるなら……僕は、こんなに嬉しいことはない」
全肯定してくれるその優しい言葉に救われたように、真由子は顔を上げた。涙ぐみそうになるのを堪え、精一杯の微笑みを返す。
「……佐藤さんの決断も、きっと無駄にはならないですよね」
真っ直ぐに見つめ合い、彼が微かに目を見張る。
その瞬間、真由子は初めて自分の選択を肯定できた気がした。
(私が経済学部に進学しなかったら、きっとこの人とは出会えなかった。……経済学部に進学して、本当によかったんだ)
同時に、胸の奥に熱い感情があふれだした。
(どうしよう……)
この音と、この言葉に触れていると、たまらなく、彼に触れたくなる。大きなその背中に手を伸ばして、すがりつきたくなってしまう。
こんなに胸が苦しくて、自分を抑えきれなくなるような気持ちになったことなんて、ない。
「……私、そろそろ時間なのでお暇します。ありがとうございました」
十九歳の真由子は、このあふれ出す未知の感情をどうしていいか分からず、逃げるように立ち上がった。
「こちらこそ、一緒に練習できて楽しかったよ。またおいで」
「はい」
◆ ◆ ◆
あの特別な音楽室の出来事から、一ヶ月あまり。
九月頭、大学の集中講義があった。
窓の外からは松本特有のからっと涼しい風が吹き込んでいるはずなのに、学生たちで埋め尽くされた大教室の中だけは、むせ返るような熱気がこもっていた。
(佐藤さん……)
ノートに向かっていても、教授の話を聞いていても、ふとした瞬間に彼のことを考えてしまう。
あの深くてあたたかいホルンの音。私に向かって微笑みかけてくれた、優しい目元。
お父様が入院して、自分自身も過酷な日々を送っているはずなのに、私にだけ見せてくれるあの穏やかな時間を思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。
「……真由子、顔が真っ赤でぼーっとしてるけど、大丈夫? 暑い?」
ふいに隣の席の友人から声をかけられて、真由子はハッとして顔を上げた。
そうだった、今は授業中だった。
「先生が暑いって言って、今扇風機増やしてもらうように学務係に電話してるよ。真由子も、暑かったよね」
「え、あ……うん。そうだね」
慌てて頷きながら、真由子はノートで自分の胸元をそっと押さえた。
ううん。暑いのは、教室じゃない。
こんなに熱を出しているのは、私の胸の奥だ。
ただ、あなたに会いたい。
毎週会ってるのに。毎日でも、会いたい。
胸が苦しい。彼に会いたいけれど、会いたくない。これ以上会えば、理屈ではなく感情のままに、彼に縋り付いてしまうかもしれないから。
それでも結局、真由子は自分の心に嘘をつけず、この一ヶ月間、毎週土曜日の午前中を誠の音楽室で過ごしてしまっていた。
【抗えない熱と、誠実な朝】
九月半ばのある日のこと。
真由子がいつも通り、誠の音楽室でクラリネットの準備を始めたときだった。
誠のホルンの音が、暗い。
彼の表情はいつもと変わらない。けれど、あの深く温かい音色に、いつもの輝きがなかった。
(どうしたんだろう。気になる。……聞いてもいいんだろうか)
お昼まで練習した後。このあと特に予定のなかった真由子は、手作りしてきた二人分のサンドイッチを誠に勧めた。
誠は「ありがとう」と喜んで口に運んでくれたが、どこか上の空で、明らかに食欲がなさそうだった。
そんな誠のただならぬ様子に耐えきれなくなった真由子は、思い切って声をかけた。
「あ、あの、佐藤さん。何かありましたか? ……その、今日のホルン、泣きそうな音をしていましたし。それに、食欲もなさそうなので……」
誠はハッとしたように目を見開き、やがて、ひどく寂しそうな表情を浮かべて小さく息を吐いた。
「……君は、いい耳をしているね」
「佐藤さん……」
「父がね……無理を押して大学で授業をしたものだから、最近の検査の値がよくなくてね。容体自体は落ち着いているんだが……僕は、数字で出されるのが一番堪えるんだ」
「そう……ですか」
真由子は息を呑んだ。学部の先輩から『佐藤教授、すごく痩せていた』と聞いたばかりだった。学生たちでさえショックを受けていたのだから、最前線で看病を続け、何より「数字」の残酷さを誰よりも正確に理解できてしまう彼の辛さは、計り知れない。
真由子は彼の抱える孤独と痛みを想うと堪えきれなくなり、そっと誠の大きな手をとった。
「私でよければ、お話を聞かせてください。話して楽になるなら。……話す方が辛いなら、無理に話さないで。うまくいえないけど、そばにいさせてください」
真由子は誠への想いが溢れてとまらなくなり、たまらず、彼の広い背中に腕を回した。顔が真っ赤に染まっていくのが自分でもわかったが、それでも、震える腕で彼を優しく包み込んだ。
「……っ!」
誠のなかで、何かが崩れ落ちる音がした。 常に完璧であろうと構築し続けてきた「人間計算機」としての強固な防壁が、彼女の無償の温もりによって、音を立てて瓦解していく。
「真由子ちゃん……っ」
誠は弾かれたように、真由子を強く抱きしめ返した。その広い肩が、微かに震えている。
「一人になるのは、嫌だ。一緒に……いて……」
「佐藤さん……」
「君に、いて欲しい。……ずっと抱え込んでいたこの感情が、なんという言葉なのか……今、気づいた。……君が、好きだ」
限界まで張り詰めていた理性の糸が切れ、彼の中から溢れ出したのは、ひどく純粋で、切実な初恋の熱だった。
その不器用で真っ直ぐな言葉に、真由子の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「佐藤さん……っ! 私も、大好きです」
互いの温もりを確かめ合うように、二人は強く、強く抱きしめ合った。
重なり合った想いはそのまま、抗いようのない熱となってゆく。
誠は真由子を抱きしめたまま、たまらず彼女の肩口に顔を埋めた。耳元で、切羽詰まったような、荒い吐息の混じった低い声が降ってきた。
「……真由子ちゃん、ごめん。君が二十歳になるまで、待てない」
彼に強く抱きすくめられ、真由子は小さく息を呑む。
「僕の計算機は、完全に壊れてしまった。……君と、離れたくない」
熱を帯びた潤んだ瞳で見つめられ、真由子はもう、抗うことなどできなかった。
彼がどれほど一人で耐え、孤独の中で戦ってきたかを知っているから。それに、真由子自身もずっと彼に抱きしめてもらいたかった。経験も何もないけれど、今はどんなことをしてでも、彼から離れたくない……。
「……はい」
真っ赤な顔のまま、それでも真っ直ぐに見つめ返して頷くと、誠は静かに真由子の唇を塞いだ。
◆ ◆ ◆
翌朝。
窓から差し込む晩夏の早朝の日差しで目を覚ますと、隣には大好きな人が静かな寝息を立てていた。
(……なんて幸せなんだろう)
じっと見つめていると、不意に彼が長い睫毛を揺らし、ゆっくりと瞳を開けた。
「おはよう、真由子ちゃん」
「あ……おはようございます、佐藤さん」
彼は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げ、布団の中から真由子の頬にそっと手を伸ばした。
「昨日は……少し強引でごめん。身体、痛くない?」
「あ……ちょっとだけ痛みは残っていますが、大丈夫です。こちらこそ、いろいろごめんなさい……」
「君が謝ることは何もないよ。……ただ、君を抱きしめたら、どうしても手放せなくなってしまったんだ。君が隣にいてくれたから、久しぶりに、ゆっくり眠れたよ」
愛おしそうに真由子の髪を撫でてから、誠はふっと真剣な、しかしどこか切羽詰まったような瞳で真由子を見つめた。
「それでね。昨日君をここに泊めてしまった直後で本当に申し訳ないのだけれど……今日、君のお父さんにご挨拶とお願いに行きたい。予定を聞いてもらってもいいかな」
「えっ、今日ですか?」
「うん。……昨日も少し話したけれど、僕の父のことなんだ」
誠は少しだけ口ごもり、言葉を選ぶように息を吐いた。
「一昨年の冬に倒れたとき、医者から『余命は長くて二年』と宣告されていたんだ」
「え……っ」 真由子は息を呑んだ。
「もちろん、色々な人の助けもあってなんとか教壇に立てるくらいには落ち着いているし、残された時間が少し延びただけだということは、僕も父も理解している。……だから、というわけではないのだけれど」
誠は真由子の手をそっと握り、その指先に自分の頬をつけ、唇を落とした。
「父が動ける今のうちに、君と結婚式を挙げて、写真を残したいと思っている。僕は、君と結婚したい」
あまりにも真っ直ぐなプロポーズに、真由子の目から不意に涙が溢れそうになる。
「もちろん、昨日の今日だから『責任をとる』という側面がゼロだとは言わない。でも、それはあくまで結果論だ。僕の本当の目的は、君と一生を共に生きていくことなんだよ」
誠は、涙ぐむ真由子の目元を親指で優しく拭った。
「ただ、出会ってまだ二ヶ月も経っていないし、しかも君は未成年だ。いきなりすべてを判断しろというのは、非論理的だということはわかっている。……だから、正式に入籍して本当の夫婦になるのは、君が二十歳になって、自分の意志できちんと決断できる時でいい」
「佐藤さん……」
「僕はずっと待つよ。でも、僕のこの覚悟を、今すぐ君と、君のお父さんにきちんと説明させてほしいんだ」
【順番違いの報告と、父たちの密約】
コンコン、と控えめなノックの音が病室に響いた。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
病室に入ってきた真由子の父・浅野を見て、ベッドで上体を起こしていた佐藤教授が柔らかく微笑んだ。
「やあ、浅野さん。お久しぶりですね。Lクラブはいかがですか?」
「佐藤教授もお元気そうで何よりです。クラブは変わりなくやってますよ。お加減が落ち着いたら、また顔をだしてください。……いや実は今日、少しご相談したいことがありましてね」
「どうしました?」
浅野は少し居住まいを正すと、神妙な面持ちで切り出した。
「実は先日、お宅の誠君がうちへ挨拶に来ましてね。娘の真由子と交際させてほしい、と言うんです」
「おお……! 先日いらした真由子さん、浅野さんのお嬢さんでしたか。美しくて、とても知的な素晴らしいお嬢さんだと思っていましたよ」
「それで、ご相談というのは……佐藤家とうちの『家格』についてなんです。地元に根ざした旧家で資産家である佐藤家とは、うちでは釣り合いが取れないのではないかと……そのあたり、いかがでしょうか?」
佐藤教授は、ふっと温かい笑声を漏らした。
「何を仰るんですか。浅野さんのお嬢さんなら、我が家は手放しで大歓迎ですよ」
「ありがとうございます。それを聞いて安心しました。……では、佐藤教授も今は体調がよろしいようですし、誠くんも希望してますから、お式と写真だけでも、先に行う方向で進めましょうか」
「それはいいですね。私も今なら動けますから、大変ありがたい」
トントン拍子に進む話に、浅野は一つ咳払いをした。ここからが本題だと言わんばかりに。
「では、そのように進めましょう。……しかしですね、誠君も、うちに挨拶に来る前の晩に真由子を連れて『外泊』しておりましてね。親としては『順番が違うだろう』と小言の一つも言いたかったんですが……佐藤教授の立派な息子さんだからと思い、私も渋々オーケーを出したんですよ」
「——は?」
佐藤教授の動きが、ピタリと止まった。
「……うちの誠が、順番を飛ばした、と? あの、堅物がですか?」
「ええ、まあ」
「誠は昔から、女っ気など微塵もない生真面目な堅物でしてね……。あいつが順序を飛ばしてまで強行突破するとは。よほど真由子さんのことが好きで、誰にも渡したくなかったのでしょう」
教授は額に手を当て、深くため息をついた。
「いや、大変申し訳ない。誠には、後で私からきつく言って聞かせますから」
「いえいえ、いいんですよ。若い二人のことですから。では、とりあえず今のうちにお式をするということで進めましょう」
表面上は鷹揚に頷きながら、浅野は心の中で力強くガッツポーズを決めていた。
(やったー! 玉の輿! 真由子の将来は安泰だ)
「ええ、本当に申し訳ない……。ああ、噂をすれば」
病室のドアがノックされ、白衣姿の誠が入ってきた。いつものように、一糸乱れぬ冷静沈着な足取りだ。
「父さん、調子はどうだい。……あ、浅野さん。どうも」
「やあ、誠君。ちょうど君の話をしていたところだよ」
浅野がにこやかに挨拶をして病室を後にすると、ドアが閉まった瞬間、佐藤教授の表情がスッと険しくなった。
「……誠。お前、そこへ座りなさい」
「何か、僕の計算に不備でもありましたか?」
涼しい顔をしてパイプ椅子に腰掛ける誠を、教授はジロリと睨みつけた。
「不備どころの騒ぎじゃない。浅野さんから聞いたぞ。お前……順序をすっ飛ばして、真由子さんを外泊させたそうだな?」
ピタリ、と誠の手の動きが止まる。 しかし、そこは論理的で冷静な「人間計算機」だ。彼はわずかにメガネの位置を押し上げると、極めて真面目な、学術発表でもするかのようなトーンで口を開いた。
「父さん。それについては、順序を飛ばしたのではなく、不測の事態に伴う『人生設計の前倒し』と定義するのが正確です」
「……何?」
「先日、父さんの臨床検査値という客観的かつ残酷な数値を前にして、僕の精神的負荷は臨界点を超え、完全に飽和状態に陥っていました。そこへ、彼女の無償の共感が、極めて強力な『鎮静作用』として介入してきたのです。結果として、僕が二十数年かけて構築してきた理性という名の自制機構は、彼女の温もりによって致命的な破綻を来しました」
「……」
「あのまま彼女を帰せば、僕の精神状態は修復不可能なレベルで崩壊するリスクがありました。したがって、直ちに彼女を僕の物理的な保護下に置き、不可分な関係性を構築することが、あの夜における唯一の『最適解』だったのです」
ペラペラと流暢に並べ立てられる理屈に、教授は呆れて天を仰いだ。
「お前なぁ……。要するに、私の検査結果に落ち込んでいたところを優しく慰められて、盛り上がって手が出てしまっただけだろうが!」
「……っ!」
図星を突かれ、誠はわずかに言葉を詰まらせた。
どんなに立派な理屈でコーティングしても、相手は自分と同じ思考回路を持つ、マクロ経済学の権威だ。ごまかしは効かない。
誠はふうっと短く息を吐き出すと、観念したように白旗を揚げた。ただ、その切れ長の瞳には、恥じらいよりも、隠しきれない熱烈な愛情が滲み出ていた。
「……否定は、しません。真由子ちゃんを前にすると、僕の理性はいつも簡単に吹き飛ばされてしまうんです」
「誠……」
「だからこそ、父さんが動ける今のうちに、確実に彼女を僕の戸籍に縛り付け……いえ、安全な場所へ迎え入れたい。式と写真の件、どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げる息子を見て、教授は大きく息を吐き出した。
かつて、自分の看病のためにT大での研究職という夢を諦め、感情を殺して抜け殻のようになっていた息子。その息子が、こうして一人の女性のために必死に理屈をこね回し、熱をもって頭を下げている。
(……浅野さんのお嬢さんは、本当にすごい「くすり」だ)
「……わかった。まったく、お前がそこまで惚れ込むとはな。準備は私が進めておこう」
「ありがとうございます。……では、僕はこれで」
足早に病室を去っていく誠の耳が、少しだけ赤く染まっているのを、佐藤教授は絶対に見逃さなかった。
(私の体調のため、というのは嘘ではないだろうが。要は順番を飛ばしたことを正当化して、一日も早く世間に認められた夫婦になり、早く一緒に暮らしたいだけなんだろう、誠)
【融けゆく涙と、受け継がれる命】
一九九九年、夏。
長く続いた佐藤教授の闘病生活も、いよいよ終わりの時が近づいていた。最近では、ベッドで眠っている時間が一日の大半を占めるようになっている。
真由子と誠は、最速で式を挙げたあと、彼女が二十歳を迎えた時に正式に入籍し、すでに夫婦となっていた。
現在、真由子は自身の勉強の傍らで義父の看病を担い、彼と同じ「経済学者」の道を歩むべく、T大大学院の入試に向けて準備を進めている。
一方の誠は、真由子の後押しもあって、諦めていた研究者の道に戻るべく一九九七年から働きながら大学院で学び、今年ついに修士課程を修了する予定だった。
親戚となった真由子の父も、もともと親交があった縁から、頻繁に佐藤教授の面会に訪れては和やかな時間を作ってくれていた。
その日の午後。真由子が一人で病室に付き添い、静かに参考書を開いていた時のことだった。
微かな衣擦れの音がして顔を上げると、佐藤教授が静かに目を覚ましていた。
「……真由子さん」
「あ、お義父さん。お目覚めですか。何か、お飲みになりますか?」
真由子が立ち上がろうとすると、教授はゆっくりと首を横に振った。
「いや、いいんだ」
少し掠れた、しかし穏やかな声で、佐藤教授はぽつりぽつりと話し始めた。
「真由子さんは、私と同じ経済学者になると言ってくれて……私は本当に嬉しかった。だが、本当にそれでよかったのかい?」
「え……?」
「本当は、薬学の道に進みたかったのではないのかと、時々思うんだよ」
病床にあってもなお、自分よりも他者の未来を案じる義父の優しさに、真由子はふっと微笑んだ。
「確かに、最初は薬学部に行きたかったのは間違いありません。でも、経済学は学べば学ぶほど楽しいですし、何より……こんなに近くに、偉大な教授がいらっしゃいますから。私は、このルートを選んで本当によかったと思っています」
真由子は、そっと義父の細くなった手を握った。
「経済学部に進学していなかったら、誠さんにも出会えませんでしたし」
「そうか……。でもね、真由子さんの人生は、真由子さんだけのものだ。だから、どうかあなたの好きなように生きなさい」
教授は、愛おしそうに目を細めた。
「誠と結婚してくれたからには、いずれ子供のことも考えなければとプレッシャーに感じるかもしれないが、こればっかりは授かり物だ。……だから、回り道をしてでも、自分の夢を諦めることのないようにね」
「はい……」
「誠と一緒になってくれて、本当にありがとう」
教授の瞳の奥に、深い後悔と感謝の念が滲む。
「妻が亡くなり、誠が抜け殻のようになってしまった時……私は自分の悲しみで精一杯で、あの子に何もしてやれなかった。それに今回も、誠は私の看病のためにT大での研究を投げ打って、松本に帰ってきてくれた。……親として、本当に申し訳なくてね」
「お義父さん……」
「重ね重ね苦労をかけて申し訳ないが、今度は真由子さんが、誠の心を支えてやってくれないか」
まるで遺言のようなその言葉に、真由子は慌てて首を振った。
「お義父さん、縁起でもないこと仰らないでください。……もちろん承りましたけど、まだまだ、長生きしてくださいね」
「ああ、そうだな。……ありがとう、真由子さん」
その時、コンコンとノックの音がして、義兄の徹が病室に入ってきた。
「真由子ちゃん、代わるよ。いつもありがとう」
「はい。ありがとうございます、お義兄さん」
真由子は静かに一礼し、病室を後にした。
廊下に出た途端、堪えきれずに大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
——義父が倒れた一九九四年の冬の時点で、余命はわずか「二年」と宣告されたと、結ばれたときに誠に聞いた。 それでも、二年後の一九九六年には大学で最後の講義を行い、自分たちの結婚式にまで参列できるほどに回復してくれた。 それはきっと、一度は絶望の底に沈みながらも再び立ち上がった誠さんが、持てる知力と愛情のすべてを尽くした結果なのだ。そして、医療に携わるすべての人々が、懸命に命を繋いでくれた結晶でもある。
(誠さんは、すごいな……)
彼の途方もない努力と深い愛に思いを馳せながら、真由子はいつまでも、廊下の片隅で静かに涙を流し続けた。
一九九九年、初秋。 長く闘病を続けていた佐藤教授が、とうとう静かに息を引き取った。
葬儀は長男の徹と、次男である誠の二人で取り仕切り、滞りなくすべてが終了した。親族や参列者が涙を流す中、誠だけはいつも通り、ひどく淡々としていた。感情の波を一切表に出さず、粛々と「遺族としての役割」をこなすその姿は、周囲からは立派に見えたかもしれない。
けれど、真由子にはわかっていた。彼が深い悲しみを、強固な理性の奥底に無理やり押さえ込んでいるだけだということを。
すべてが終わり、何もすることがなくなった週末。
誠はリビングのソファに深く腰掛け、いつものように淡々と、無表情のまま洋書に目を落としていた。文字を追っているようでいて、ページは一向にめくられない。
「……誠さん。ちょっと、出かけない?」
「……ん? どこへ」
「どこにしようか。そうだな……乗鞍にでも行ってみない? まだ紅葉には少し早いから、あまり混んでいないと思うの」
真由子の提案に、誠は小さく瞬きをしてから、静かに頷いた。
誠の運転で、初秋の山道を走るドライブに出かける。
窓を開けると、少し冷ややかな、澄んだ風が車内を吹き抜けた。紅葉のピークにはまだ早かったが、それでも緑から黄色、そして赤へとグラデーションに色づき始めた木々が、山肌を美しく染め上げている。それはまさに、桃源郷ならぬ「紅源郷」と呼ぶにふさわしい、静かで穏やかな景色だった。
「きれい……」
車を停め、雄大な景色を見渡しながら、真由子は隣に立つ誠にそっと語りかけた。
「……季節は、変わっていくね。人も同じで、入れ物はいつか朽ちてしまう。でも、新しいものができて、受け継がれて、そして世界は回っていくんだよね」
「……ああ」
「寂しいけど……きっとお義父さんは、あたたかい場所で私たちを見守ってくれているよ。ね、誠さん」
真由子が微笑みかけると、誠は少しだけ目を伏せ、小さく息を吐き出した。
「そうだね、真由子ちゃん」
その声は、秋の風に溶けてしまいそうなほど、細く、頼りなかった。
その日の夜。
ベッドに入り、静寂が寝室を包み込んだ時、真由子は隣で静かに目を閉じている誠に身を寄せた。
いつもなら、彼がその大きな腕で真由子を包み込んでくれる。けれど今夜は、真由子が彼を抱きしめる番だった。
「誠さん」
「……ん?」
「今日は、わたしの胸を貸すから。……好きなだけ、泣いて。わたしを、頼ってほしい」
真由子が両手を広げて微笑むと、誠は少しびっくりしたように目を見開いた。 常に完璧な「人間計算機」であり、家族を守るために長年あらゆる感情を捨ててきた彼にとって、「泣いていい」と言われるのは、どれほど久しぶりのことだっただろうか。
誠の口元が微かに震え、やがて、安堵したような、ひどく幼い微笑みが浮かんだ。
「……ありがとう」
誠はゆっくりと真由子の腕の中に身を沈め、その柔らかい胸に顔を埋めた。
真由子が彼の広い背中を優しく、一定のリズムでトントンと撫で続ける。やがて、真由子のパジャマの胸元に、熱い滴がぽつり、ぽつりと染み込んでいった。
声も上げず、ただ静かに、静かに。
誠は長年背負い続けてきた緊張と悲しみをすべて溶かすように、真由子の腕の中で、涙を流し続けた。
——それから、一ヶ月後。
「……誠さん」
「どうしたんだい、真由子ちゃん。そんなに真剣な顔をして」
リビングで、真由子はそっと「陽性」を示す検査薬をテーブルの上に置いた。
誠の動きが、ピタリと止まる。
「あの夜に、どうやら授かったみたい。……だから私、T大の大学院への進学はやめる。これからは、育児に専念したいの」
「……!」
真由子の言葉に、誠は大きく目を見開いた。
義父の後を継ぐために、彼女がどれほど勉強を頑張っていたかを知っている。だからこそ、誠は痛みを堪えるような複雑な表情を浮かべた。しかし、自分たちのもとにやってきてくれた「新しい命」という事実を前に、彼の計算機は瞬時に凄まじいスピードで新しい数式を弾き出した。
「……そうか。君がその覚悟を決めたのなら、僕も計画を大幅に修正しよう」
誠は真由子の手を両手で包み込み、真剣な瞳で見つめた。
「僕は博士課程への進学を辞める。このまま松本の大学病院で働き続けよう。君と生まれてくる子供に、絶対に不自由はさせない。僕がここで、完璧な環境を用意するよ」
愛する家族を守るためなら、自分の夢などいとも簡単に捨ててしまえる。
それこそが、佐藤誠という男の『誠実さという呪い』だった。
かつて、父の看病のためにT大での研究職を諦めた時と、まったく同じように。
しかし、真由子はふっと優しく微笑むと、首を横に振った。
「だめよ、誠さん。……お義父さんが言っていたの。『回り道をしてでも、自分の夢を諦めることのないように』って。それは私にだけじゃなく、誠さんにも向けられた言葉だと思う」
「真由子ちゃん……でも、君ばかりに夢を諦めさせるわけには」
「諦めるんじゃないわ。私は、来年の進学をやめるだけ」
真由子は、誠の頬にそっと手を伸ばした。
「一緒にT大へは行けないけれど……誠さんが最前線で研究者として輝く姿を見たいの。私は、育児が落ち着いたらまた試験を受けるつもり。……たとえそれが、十年以上先になったとしても」
その言葉に、誠は息を呑んだ。
十年先を見据える彼女の揺るぎない覚悟。
長年、彼が自らを縛り付けていた透明な鎖が、彼女の温かい手によって解き放たれていくのを感じる。
誠は込み上げてくる熱いものを飲み込むように目を閉じ、やがて、覚悟を決めたように眼鏡の位置をクイッと直した。かつてないほど頼もしい、理知的な雄の顔つきだった。
「……わかった。僕の博士課程を、最速で終わらせる。君に慣れない東京の地で育児をさせて僕だけT大へ戻るのは非常に心苦しいが……必ず一人前の研究者になって、君たちに最高の未来を見せると約束する」
悲しみを乗り越え、新しい命という絶対的な「未来」を手に入れた二人。
二人の人生は、ここから東京という新しい舞台へと鮮やかに続いていくのだった。
エピローグ 【四つの計算機と、甘いスイカ】
二〇〇九年、夏。東京の閑静な住宅街に建つ、真新しい戸建ての家。
「ママー、律と和がまた喧嘩してる!」
リビングからパタパタと足音を立てて書斎に駆け込んできたのは、長男の奏だった。真由子に似た柔らかい笑顔を浮かべているが、その涼やかな顔立ちは父親にそっくりだ。
「奏、どうしたの?」
「あのね、スーパーのチラシを見て、どっちのスイカを買う方が『費用対効果』が高いかで喧嘩になってるの」
……また?
真由子は読んでいた経済学の専門書にそっと栞を挟み、深いため息をついた。
(もう……完全に、誠さんが四人に増えてるじゃない)
リビングへ向かうと、チラシを挟んで二人のミニ計算機が白熱した議論を交わしていた。
「球体の体積は半径の三乗に比例するんだから、こっちの丸いスイカの方が一円あたりの可食部質量が多い。これは揺るぎない事実だよ」
真顔で冷徹に言い放つのは、三男の和だ。誠の理知的な部分をストレートに受け継いだ末っ子は、一切の忖度がない。
「でも、こっちの楕円形の方が皮が薄い品種だし、中心部の糖度が高い傾向にあるんだよ。甘さという定性的な価値を係数としてかければ、主観的効用はこっちの方が上回るはず……」
一歩引きながらも、理論武装で徹底抗戦しているのは次男の律だ。引っ込み思案な真由子の性格を受け継ぎつつも、防衛のためのロジックは完璧だった。
「主観的効用なんて、ただの感情バイアスだよ」
「ううん、味覚の満足度を無視した質量計算はナンセンスだ」
「まあまあ、二人とも」
険悪な二人の間に、奏がふんわりとした笑顔で割って入る。
「片方だけ買ってハズレだった時のリスクを考えたら、両方買って『限界効用』の逓減を確かめるのが、一番平和なポートフォリオじゃないかな?」
一番のバランサーである長男の柔和な誘導に、弟たちが「うーん」と黙り込む。
その見事な、そして子供らしからぬ三者三様の論理戦を見て、真由子は思わず吹き出してしまった。 彼らが全員「人間計算機」として育ってしまったのは、間違いなく彼らの父親である佐藤誠の遺伝子だ。普段は冷静沈着で完璧な理性を誇る夫だが、真由子を前にするとその強固な防壁はいつも簡単に吹き飛んでしまう。真由子の笑顔に理性が敗北し続けた結果、気がつけば二人の間には、あっという間に三人の子供が誕生していたのだった。
「みんな、スイカの計算はおしまい。お父さんが帰ってきたら、一緒にスーパーで実物を見て決めましょう」
真由子が声をかけると、三人は不満そうにしながらも「はーい」と素直に頷いた。
誠は宣言通り、最速で博士課程を修了し、現在はT大で薬学研究者の階段を一歩一歩、確実に上っている。 決して贅沢な暮らしではないが、数年前にローンを組んで購入したこの家には、確かな幸せが溢れていた。誠が義父から受け継いだマクロ経済学の知識をフル活用し、完璧な人生プランを構築してくれているおかげだ。
真由子は、先ほどまで読んでいた専門書に視線を戻した。
亡き佐藤教授の希望で、彼の生前の著作物の管理を真由子が行っている。おかげで育児の傍ら、経済学に触れ続けていられる。
今までの勉強は、決して無駄にはなっていない。子供たちがもう少し大きくなって手が離れたら、あの時進学できなかった大学院に今度こそ挑戦しようと思っている。
学費の心配はない。
亡き佐藤教授が、真由子のために遺言で残してくれた資金があるからだ。
『真由子さんの人生を生きなさい』
そう言って遺してくれた大切なお金は、誠と相談して長期的かつ安全な投資に回し、今では十分すぎるほどの額に育っている。義父には、どれだけ感謝してもしきれない。
「ただいま」
不意に、玄関から深く落ち着いた声が響いた。
「あ、お父さんだ!」
三人の子供たちが、計算機の顔から一転、年相応の無邪気な笑顔になって玄関へ駆けていく。
愛する夫と、三人の騒がしい宝物たち。 本来の人生では決して交わらなかった、完璧な調和の満ちる世界線。 真由子は深く満たされた思いで立ち上がり、世界で一番愛しい人たちが待つ玄関へと歩き出した。




