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本を読む事は高尚か

掲載日:2026/08/02

 noteを見ていたら、ある人が「本を読む事を高尚だと思わなくていい」というエッセイを書いていた。その結論は予想通り「読書はエンタメだから、カッコつけなくていい、肩に力を入れるな、楽しくいこうぜ」というものだった。

 

 私がネットで見る意見はこんなものばっかりだ。余談だが、私はこうした人々を「現代人」と呼んでいる。そしてこうした現代人的な価値観ではない生き方はこの世にあり得る、存在可能だ、という事を示すために過去に「空港」という短編小説を書いた。(https://note.com/yamadahifumi/n/n83624ecce525)

 

 私は最初、この方のエッセイを取り上げて批判しようとしたのだが、引用しているうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。というのは、あまりに文章が酷かったからだ。一番ひどいのは「友達が一杯いる人は本を読まないと思うんですよね。…偏見ですけど」というものだ。(特定を防ぐ為に文章は若干改変している)

 

 しかもこの人物は「自分は沢山、本を読む読書家ですけど、その読書家からして読書は大したものではないですよ」という事を書いている。一方では、読んだ本の数でマウントを取るという最悪の読書家ムーブを決めながら、もう一方では「読書は大したものではない」と言っている。

 

 この人の言っている事は問題だらけなのだが、ただ論点は一般的なものに絞る事にする。そうでないと単なる個人攻撃に終わってしまうからだ。

 

 まず「読書を高尚だと思わない方がいい」という意見。これは、そもそも読書が高尚だと思いこんでいるのは、こうした意見を言う側の方の人達という事に問題がある。

 

 例えば、私が難解な哲学者として知られるヘーゲルを読み、ヘーゲルについて論じている時、私は(ヘーゲルって高級だなあ)とか(ヘーゲルについて論じている私は高級だ)などと少しも考えていない。

 

 ただ私は人生の諸問題や、私自身の思想的課題を考える為に、ヘーゲルという人物の哲学を理解しようとしたり、批判しようとしていたりするだけだ。そこには高級も低級もない。真剣な知的格闘があるだけだ。

 

 これに関しては小林秀雄でもいいしドストエフスキーでもいいし、カントでもいい。もし(小林秀雄を論じている自分は高級)とか(かっこいい)と考えている人間がいれば、その人間は小林秀雄が何を言おうとしているかを理解していないだろう。そして、一旦理解すれば、その内実を具体的にどう理解、解釈、また批判を行い対象の思想を越えていくかという問題にかわる。

 

 こうして具体的な思想の葛藤に至れば、それが高級とか低級とかいう事はない。ただ真剣に対象に向き合っているという感覚があるだけだ。

 

 しかしそのような知的な格闘は、それを理解できない人には「高級ぶっている」と見えたりするだろう。何故なら、それが理解できず、しかも理解できない事を認めたくない場合は、「彼らはただ高級めかした事をしているだけ」で「中身はない」と考えざるを得ないからだ。

 

 だから、例えばウィトゲンシュタインの本を読んだり、論じたりする事も、その内実・内容が一切問われる事なく、ただ「高級ぶっている」という一元的な観念にすり替わってしまう。

 

 こうした人達は「全てはエンタメだよ」と言う。しかしその考えが正しいというのを自明のように語っているが、それはどのような思考を経た結論なのだろうか。

 

 件のエッセイを書いた人間が「友達が一杯いる人は本を読まない」と言っているのが象徴的だが、要する彼らは現代の趨勢をそのまま受け入れて、それ以上思考しない。彼らは時代の空気そのものとなる。

 

 彼らの中には抵抗というものがない。抵抗がない人間は風見鶏のように、時代の空気を受けて右を向いたり左を向いたりする。こうした人を私が「現代人」と呼ぶのはそれほど間違っていないだろう。

 

 ついでに言えばこの現代人という観念も、例えば中世においては熱心なキリスト教徒なのかもしれないし、江戸時代だったらやたら儒学を推しているのかもしれない。これらの人はその時々で言う事は異なっても、自身の中に抵抗を持たないという点では一致している。

 

 こうした人々は、自分の理解できない範囲で、中身のある何かが行われている事を恐れている。別に哲学が理解できなければ、読まなければいいだけだし、それで人生が大きく損なわれるという事もない。

 

 しかし、自分が何か大きなものから取り残されている。もしかしたら自分は真剣に自分自身と向き合っていないのではないかという恐怖が彼らの中にあり、とはいえ、何かに齧り付いて理解しようとする努力も彼らには欠いているので、最終的には自分の理解できないものを否定するに至る。

 

 そして世の中の大半の人間は努力が嫌いなので、そうした人々にはこうした言説は耳触りが良く感じられる。「あなたはそのままでいい、気楽でいい、読書なんて大したものじゃない」。しかもこの意見を一年に沢山本を読む「読書家」が言ってくれているのである。

 

 そんな感じてこうした意見はそもそも馬鹿馬鹿しいのだが、その反対に、読書がいかなるものなのかについて話し出すと長くなるので、それはやめておく事にする。

 

 ちなみにこの方のエッセイでは「利益を得る為の読書」と「教養を得る為の読書」がごっちゃになっており、それが「肩肘に力を入れている読書」という形で一括されているので、冷静に読んでいるとよくわからないものとなっている。

 

 私には不思議だが、私自身は人として生まれて、何故自分がこの世界に生き、死ななければならないかを解明したいと以前から思っていた。その為に本を読み、自分の頭で考える事が必要だった。

 

 おそらくその発端にあるのは「死」であろうと思う。何故か私はずっと自分の「死」について考えてきた。

 

 宗教が死んだ今、理性が支持する唯物論が正しいとすると、私が生き、死ぬ事には何の意味もないという事になる。私はこの問題を近代の哲学者や作家が真摯に考えているのを知り、彼らを参考にしてきた。彼らは神なき世界にいかにして生きるべきかを真面目に考えた人達だったからだ。

 

 だから私にとって本を読み、考える事は喫緊の問題だった。死という眠りが訪れる前に、果たさなければならない宿題だった。いずれ夏休みは終わるのだ。

 

 しかし「全てはエンタメ」である人にとっては問題はそうではない。彼らは死の問題と向き合わない。死と向き合わないとは生とも向き合わないという事だ。

 

 自分一人で向き合わないのならそれはそれでいいが、彼らは誰かがそういう問題を真剣に考えているのを見つけると「やめとけ、そんな事は意味ないから」と言ってやめさせようとする。

 

 彼らがやめさせようとするのは、自分達が問題から逃避しているのに、真剣に問題と取っ組み合う人間がいるのは抜け駆けだ、という感覚のせいだろう。

 

 彼らのしている事は逃避だが、とはいえ、「逃避は素晴らしいですよね」と可視化するのも気分が悪いので、彼らは「生きる事は素晴らしいですよね、楽しめばいいですよ、ありのままの自分でいいですよ」という美辞で彼ら自身を着飾る。これが現代の宗教代わりになっている。

 

 こうした人々をその根底から批判する事になるのは、私のような他人ではなく、おそらくは彼らが見ないようにしている「死」そのものだろう。彼らは趣味的な時間の連続を至高のものとしているが、そのような時間の最後に死が訪れた時、彼らは一体どう感じるだろうか。

 

 「私は自分のしたい事を精一杯したので、明日死んでも全然構いません!!」

 

 そう言える人が何人いるだろうか。私にはそれが観物だ。

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