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投稿ボタン ~書かない理由が、十二年分ある~

掲載日:2026/04/13

 平日の夜十時。

 安西拓真は、パソコンの前に座っていた。ワンルームの部屋。モニターの光だけが、壁に白く反射している。


 仕事を終え、コンビニ弁当を食べ、食器を洗う代わりにプラスチックの蓋をゴミ箱に落とし、ブラウザを開く。月曜日から金曜日まで、この動作に例外はない。何年も、ない。


 追っている連載が三本ある。全部、異世界もの。料理系が二本、ダンジョンものが一本。どれもブックマークしていない。ポイントも入れていない。ブラウザの閲覧履歴から直接飛ぶ。読んでいる痕跡を、なろうの上には残さない。


 今夜の更新は料理系の一本。追放された宮廷料理人が辺境で食堂を開く話で、ブックマーク千二百超の人気連載だ。安西は本文を開いた。


 読みながら、頭の中でメモを取る。これが安西のやり方だ。物語を追うのではなく、構造を検証する。


 ——辺境の村の食堂なのに、毎日の食材原価が全く計算されていない。冒険者相手の商売なのに、売値が平民価格と同じだ。これでは店が回らない。

 ——海のない内陸部に昆布が届いているが、輸送コストの描写がない。希少食材なら価格に反映されるはずだ。

 ——味噌の仕込みから三ヶ月で完成している。発酵食品は原材料の寝かせ期間もコストだ。それが計上されていない。


 粗が目立つ。自分が書けば、こんな穴は開けない。——そう思った。そう思って、十二年が経った。


 読み終えると、感想欄を開いた。


 新着の感想が並んでいる。「面白かったです!」「神回でした」「次話が待ちきれません」。——安西はそれらをスクロールで飛ばした。


 テキストボックスにカーソルを合わせる。


 指が動く。


『味噌の仕込みから三ヶ月で「熟成が完了した」とのことですが、大豆と麹と塩の重量比から見て、最低六ヶ月の熟成期間と定期的な天地返しが必要です。その間の運転資金はどう賄うのか、収支が合いません。発酵食品を扱うのであれば、もう少し時間経過と原価の描写があると説得力が増すと思います。』


 丁寧語で書く。攻撃的に見えないように。だが要点は外さない。設定の穴を、経理部勤務の目で正確に指摘する。食材の原価、流通のコスト、商売の収支。数字の嘘は、安西には見える。


 これは作品のためにやっていることだ、と安西は思っている。以前、原価と売値の矛盾を指摘したら、次の話で修正されていた。作者から感謝の言葉はなかった。だが、直っていた。

 俺の指摘がこの作品を良くしている。そう思うことで、自分のコメントに意義を与えていた。無償の校正者。名前のない編集者。——そう思っている限り、この行為は「読者」の仕事ではなく「作り手側」の仕事だった。


 最後に「次話も楽しみにしています」とは書かなかった。書いたことがない。


 送信ボタンを押す。

 これが安西拓真の夜だ。四十二歳。毎晩、これをやっている。——かつては自分も書いていた。十二年前までは。


 ◇


 ディスコードを開く。


 「読み専の会」。メンバーは三十人ほどのプライベートサーバーだ。安西が五年前に招待されて以来、ほぼ毎晩覗いている。


 全員が「読み専」を自称している。自分で書かず、読んで語る。それがこのサーバーの暗黙のルールだった。——もっとも、「最初から」読み専だった人間はほとんどいない。みんな、一度は書こうとした。書こうとして、どこかでやめた人たちだ。


 今夜の話題は、日間ランキング一位の異世界ものだった。


 藤木が長文を投下している。藤木はこのサーバーの古参で、五十代。活動開始日は十五年前。投稿作品はゼロ。書きかけたことはあるが、一作も完成させなかった、と本人は言っていた。食文化史と発酵科学の知識は大学教授なみで、誰も反論できない。


〈藤木〉「作者は中世ヨーロッパの食文化を理解していない。砂糖が辺境の村に普通に流通しているが、十五世紀以前の砂糖は金と同等の貴重品だ。菓子を量産している時点で世界観が破綻してる」


〈安西〉「数字を見ると、この食堂の収支が成立しないですね。食材の仕入れ原価と売値の設定に根拠がない」


〈藤木〉「だろう。なのにランキング一位だ。読者は設定を見てないんだよ」


 俺が書けば、もっとちゃんとしたものが書ける。設定も考証も完璧なものが。——そう思うだけなら、簡単だった。


 藤木のメッセージの末尾に絵文字はない。いつもない。その素っ気なさが、安西には信頼の証に見えた。


 安西は頷いた。画面の前で、声を出さずに頷いた。


 楽しかった。自分の知識が認められる場所だ。ここでは安西は「的確な指摘ができる人」として一目置かれている。会社の経理部では、二十年近く働いても誰も褒めてくれない。その同じ数字の知識を、ここでは藤木が「さすが」と言ってくれる。


〈安西〉「今日、例の料理ものにもコメント書いてきました。味噌の運転資金と原価について」


〈藤木〉「丁寧に返してくるか?」


〈安西〉「ええ、いつも丁寧です」


〈藤木〉「余裕があるんだよ、人気作家は。読者を囲い込むためにやってるだけだ」


 安西はそうかもしれないと思った。思いたかった。作者が丁寧に返信してくるのは、こちらの指摘に価値があるからだとも思っていた。俺のコメントがなくなったら、この作品の精度は下がる。そういう自負があった。——作者が丁寧なのは、単に人がいいだけかもしれない。その可能性は、考えないことにした。


 零時を過ぎて、ディスコードを閉じ、歯を磨いて寝る。明日も同じ一日が来る。何も足りないものはない。——はずだった。


 ◇


 数週間後のことだ。


 「読み専の会」には、たまに去っていく人間がいる。「書いてみます」と宣言して、サーバーから抜ける。たいていは一ヶ月もせずに戻ってくる。「やっぱ読む方が楽だわ」と笑って。そのたびにサーバーには小さな安堵が流れた。帰ってきた、という安堵ではない。「やっぱり書けなかった側」が一人増えた、という安堵だ。


 反対に、入ってくる人間もいる。ある夜、新しいメンバーが自己紹介をした。「以前、なろうで書いていました。今は読み専です」。

 藤木が「何を書いていたの」と聞いた。「異世界ファンタジーです。ブクマ五百くらい行ったんですけど、感想欄が荒れて、消しました」。


〈藤木〉「メンタル弱いと、なろうはきついな。投稿する側に向いてなかったんだろ」


 サーバーのみんなが笑った。

 安西は笑えなかった。笑えなかったが、不思議な感覚があった。

 安堵感、というのとは違う。もっと薄暗いものだ。「書く側」から「読む側」に来た人がいる。自分たちの側に来た。——仲間が増えた、という感覚だった。「書くことをやめた人」が一人増えたことに、雑な安心を覚えている自分がいた。

 奇妙な感覚だった。その奇妙さに、その夜は気づかないふりをした。


 ◇


 別の夜のことだ。


 半年前に抜けたヤスダは、戻ってこなかった。


 二十代の男で、ディスコードでの発言も的外れなことが多かった。設定の知識は浅く、藤木に論破されても「なるほどっす」とだけ返していた。安西は内心で見下していた。


 そのヤスダが、短編を一本投稿し、ブックマーク三百を超えた。日間ランキングに載った。


 ディスコードに、誰かがスクリーンショットを貼った。ヤスダ本人ではない。別のメンバーが「あいつ、載ってるぞ」と。


 一瞬、サーバーが静まった。

 誰も打たない三十秒間。

 安西はその沈黙の意味を知っていた。全員が同じことを感じている。自分たちより「下」だったはずの人間が、「上」に行った。その事実を、誰も素直に言語化できない。

 それから藤木が投稿した。


〈藤木〉「読んだ。設定が甘い。勢いだけで書いてるな」


 安西もリンクを踏んだ。ヤスダの作品を読んだ。


 面白かった。


 悲しいくらい面白かった。設定は雑だ。考証は甘い。藤木なら十箇所は指摘できるだろう。粗だらけだ。自分のほうが上手く書ける。——そう思った。思ったのに、ページをめくる手が止まらなかった。

 勢いがある。熱がある。——自分には書けない種類のものが、そこにあった。指摘できる欠点は十ある。だがその十個全部がかすむくらい、一行目から引きずり込まれた。


 安西はディスコードに戻った。テキストボックスにカーソルを合わせた。


 「面白かった」と書こうとした。指がキーボードの上で止まった。


 書けなかった。


 ここで「面白かった」と書くと、自分が十二年間「読む側」にいた意味が揺らぐ。設定の甘い作品を「面白い」と認めたら、設定の正確さにこだわってきた自分の十二年間は何だったのか。


〈安西〉「まあ、勢いはあるけど、三話以降で設定の粗が出てくるでしょうね」


 送信した。藤木が「だな」と返した。


 安西はブラウザを閉じた。閉じてから、もう一度ヤスダの作品を開いた。ブックマークボタンが画面の端にあった。押したら、あのヤスダの数字が一つ増える。押さなかった。


 ヤスダは知識でも、ディスコードでの議論力でも、安西より下だった。発言は的外れで、藤木にやり込められても「そっすね」と笑っていた。そのくせに、書いたものには熱があった。設定は穴だらけなのに、主人公が必死で生きようとしていた。それだけで、読ませる力があった。


 でもヤスダは「書いた」。安西は「書かなかった」。


 その差だけで、ヤスダは作家になり、安西は読み専のままだ。


 俺は書けるけど書かないだけだ。書く時間がないだけだ。書こうと思えばいつでも書ける。そう思った。そう思うことで、胸の奥の重いものを押し潰した。


 ——三十の時に自分に言ったのと、同じ台詞だった。十二年間、まったく同じ言い訳を繰り返している。


 ◇


 追い打ちは、翌週来た。


 安西が半年間コメントを書き続けていた連載が、書籍化した。


 作者の活動報告に「書籍化が決定しました。感想をくださった皆さんのおかげです」と書いてあった。


 「皆さん」の中に、安西は含まれているのだろうか。半年間、毎話コメントを書いた。ただし、指摘だけを。ブックマークもポイントも入れていない。——感想欄の常連ではあったが、支持者ではなかった。


 紀伊國屋書店のサイトで予約ページを開いた。著者近影はない。プロフィール欄に「会社員」とだけ書いてある。その二文字が、目に刺さった。


 安西と同じ「会社員」が、本を出した。同じスタートラインから出発して、同じ場所に投稿していたのかもしれない。ただ、あちらは書き続け、こちらは書かなかった。


 安西はブラウザのタブを閉じた。予約はしなかった。「予約を確定する」ボタンは、どうしても押せなかった。本屋に並んだその人の本を、自分の金で買う気にはなれなかった。なぜなのかは、考えないようにした。


 書籍化の活動報告には「レビューを書いていただけると嬉しいです」とも書いてあった。

 安西は書かなかった。半年間、設定の穴を指摘し続けた人間が、今さら「いい作品です」と書けるわけがない。それは手のひら返しだ。自分がこれまで書いてきたコメントの全部を、自分で否定することになる。

 それに——レビューを書くということは、この作品に☆をつけるということだ。点数をつけた瞬間、安西は「評価する側」から「応援する側」に移る。それは、十二年かけて築いた立ち位置を手放すことだった。


 ◇


 その翌月だった。


 安西がもう一本追っている連載がある。柊真帆というペンネームの作家が書いている異世界ファンタジーだ。ブックマーク二千超。安西はこの作品にも毎話コメントを書いていた。もちろん、指摘だけを。


 その連載が完結した。


 完結の翌日、活動報告が投稿された。タイトルは「創作を続ける理由、みたいなこと」。


 安西は「お気持ち表明か」と思いながら開いた。指摘の材料が見つかるかもしれない、という期待もあった。


 長い文章だった。

 最初は流し読みしていた。途中から、手が止まった。


『最初の作品は、感想ゼロでした。PVだけが少しずつ増えて、でも誰も何も言ってくれなくて。

 人気が出始めたら、毎話コメントがつくようになりました。嬉しかった。でも、ある時気づいたんです。コメントの中に、毎回「ここが間違っている」「この設定はおかしい」とだけ書いてくる人がいる。ブクマもポイントも入れずに。

 その人のコメント、気になりました。正直、気にしすぎて、そのことばかり考える時期もあった。

 でも、ある日ふと思ったんです。その人は、私の作品を毎話読んでいる。好きじゃないなら読まないはずなのに、毎日更新を追って、毎話コメントを書いてくる。

 ——好きなんだ、この人は。ただ、「好きだ」と言えないだけなんだ、と。

 それで、その人のことは考えるのをやめました。代わりに、「好きです」「面白かったです」と書いてくれる人のために書こうと思った。揚げ足を必死に見張る人ではなくて、私のことを好きな人のために頑張ろう、と。

 あれから、創作がすごく楽になりました。』


 安西はモニターの前で動けなくなった。


 「好きなんだ、この人は。ただ、『好きだ』と言えないだけなんだ」


 藤木ならこう言うだろう。「自意識過剰な作家だな。読者を勝手に分析するなよ」。ディスコードに貼れば、みんなで笑うだろう。


 でも、安西は——貼れなかった。


 ブラウザの別タブを開いた。なろうのマイページ。感想履歴。


 半年分のコメントが並んでいる。上から順に読み直した。


 全部、指摘だった。

 「ここが矛盾している」「この設定は実現不可能だ」「ダブルスタンダードでは」「リアル志向と言いながらご都合主義だ」。


 ——「面白かった」が、一つもない。


 安西は画面を見つめた。自分のコメント履歴を見つめた。半年分の指摘が、整然と並んでいる。丁寧語で書かれた、的確な、冷静な、正しい指摘。——そして、その全部が、作品への愛情を隠すための覆いになっていた。


 いや。

 感情は入っていた。ただ、見えないように隠していた。


 好きだったのだ。この作品が。

 好きだから毎日更新を追った。好きだから設定を検証した。好きだから矛盾が気になった。

 好きだから、半年間、一話も欠かさずコメントを書いた。


 でも、「好きだ」とは一度も書かなかった。


 なぜだ。


 書いたら、負けるからだ。

 「好きです」と書いたら、自分が「読む側」でしかないことを認めることになる。上から指摘している間は、まだ「書く側になれる可能性のある自分」を保てた。「面白いです」と書いた瞬間に、その虚構が崩れる気がした。


 嘘だ。

 可能性なんて、十二年前に消えている。消えたことを認めたくないから、指摘という形で「まだ上にいる」と思い込んでいただけだ。


 いつからだろう。書かないことに、理由をつけたのは。

 「時間がない」「今は読む時期だ」「力をつけてからでいい」——言い訳の在庫だけは、十二年分ある。どれも一度も使ったことのない設定メモのように、エディタの外に積み上がっている。


 いつからだろう。他人の作品を楽しむのではなく、分析だけを考えるようになったのは。

 面白い、と感じた瞬間に、すぐ「でも」が来る。「でも、この設定は」「でも、この考証は」。感情が湧く前に、検証が割り込む。読書が、楽しみではなく作業になっている。いつからそうなったのか、覚えていない。


 いつからだろう。似たもの同士で集まって、あら探しをすることが——創作より楽しくなったのは。

 いや、楽しかったのではない。「楽」だったのだ。

 ディスコードで藤木と指摘を並べている時間は、安全だった。誰にも批判されない。自分の作品がないから、傷つくこともない。知識だけが武器で、知識は裏切らない。

 ——でもそれは、「楽しい」ではなかった。「怖くない」だっただけだ。


 安西は、パソコンの前で、長い間動かなかった。


 ◇


 翌日の夜。

 ディスコードを開いた。いつものメンバーが、いつものようにランキング上位作品の粗探しをしている。


〈藤木〉「今日の更新読んだが、あの作者、中世の食品保存技術をまるで理解してない。岩塩だけで肉の長期保存ができると思ってるんだろう」


 いつもなら「経理部から見ると」と補足を書いていた。今日は、指が動かなかった。


 代わりに、藤木のプロフィールを見た。


 活動開始日。十五年前。投稿作品。ゼロ。


 安西は画面を見つめた。


 十五年前にアカウントを作り、一度も投稿せず、十五年間ずっと他人の作品の粗を探している人がいる。知識は本物だ。食文化史の造詣は深く、発酵科学にも明るく、中世の流通制度にも詳しい。


 その知識の全部で、一行も「自分の物語」を書いていない。


 藤木さんは、俺の十年後だ。


 五十代で、投稿作品ゼロのまま、毎晩ディスコードで他人の粗を探している。知識だけが積み上がり、使い道のない博識だけが膨らみ続けている。——藤木さんは、それをどう思っているのだろう。何も思っていないのかもしれない。それが一番怖かった。


 怖くなった。あと十年、このまま過ごしたら、俺は藤木さんになる。


 その晩、安西はディスコードに何も書かなかった。翌日も。翌々日も。


 三日目に藤木からダイレクトメッセージが来た。


〈藤木〉「最近見ないけど、忙しい?」


〈安西〉「ちょっと仕事が立て込んでて」


 嘘だった。仕事は通常運転だ。

 服をたたんで食事をとって歯を磨いて寝る。待っているだけの夜が、何も変わらずに過ぎていく。ただ、ディスコードを開かなくなっただけだ。

 藤木さんに嘘をついていることより、藤木さんが心配してくれたことのほうが、つらかった。


 ◇


 帰宅後、なろうの「作品管理」ページを開いた。


 十二年ぶりだった。「読者」としてのマイページは毎日開いている。でも、「書き手」としてのページは、十二年間一度も開いていなかった。


 アカウントは生きていた。投稿作品の一覧が表示される。五作品。最終更新は十二年前。ブックマーク数の最高は十二。感想は全作品あわせて一件。


 その一件を開いた。


『文章うまいですね。続き楽しみです』


 十二年前のコメント。投稿者のアカウント名をクリックすると「このユーザーは存在しません」と表示された。退会したのか、アカウントが消えたのか。


 この人も、書いていたのかもしれない。「文章うまいですね」と書ける人は、自分でも文章を書く人だ。もしかすると、この人も投稿して、感想欄で何かがあって、消えたのかもしれない。

 わからない。でも、「続き楽しみです」と書いてくれた人が、今はどこにもいない。


 この人は、俺の「続き」を楽しみにしてくれていた。


 俺は、書かなかった。


 エディタを開いた。真っ白な画面。タイトル未入力。本文未入力。


 何を書けばいいのか。異世界ファンタジーか。今さら。設定はどうする。考証は。


 藤木に見られたらどうなる。「お前のこの設定、甘いぞ」と言われるだろう。ディスコードに晒されるかもしれない。自分が十二年間やってきたことを、今度は自分がやられる。


 指が止まった。モニターから目をそらした。部屋の隅が目に入った。コンビニ弁当の空き箱が、ゴミ箱からはみ出している。


 エディタを閉じた。肩が、少しだけ重かった。


 ◇


 一週間、同じことを繰り返した。

 帰宅して、エディタを開いて、白い画面を眺めて、閉じる。


 設定を考えようとすると、頭の中に声が聞こえる。


 「そのリアリティじゃ成立しない」

 「この時代にその食材は手に入らない」

 「リアル志向と言いながらご都合主義だ。ダブスタだろ」


 全部、自分が書いてきたコメントだ。

 他人に向けた言葉が、ブーメランになって自分の手を縛っている。


 十二年間、他人の作品の穴を探し続けた結果、安西は「穴のない作品」しか書けなくなっていた。そして、穴のない作品など存在しない。だから、何も書けない。


 完璧な沈黙。完璧な不作為。何も書かないことだけが、安西にとって唯一の「穴のない作品」だった。


 安西は、自分で自分を検閲する装置になっていた。


 ◇


 八日目の夜だった。


 ふと、思い出した。十二年前、最初の作品を書いた時のことを。


 あの頃は設定の考証なんかしなかった。発酵の化学式も知らなかった。中世ヨーロッパの食文化がどうとか、砂糖の流通経路がどうとか、考えたことすらなかった。


 ただ「書きたい」から書いた。あの頃は、それだけで指が動いた。


 ——じゃあ、そうすればいいんじゃないか。


 安西は、考えるのをやめた。


 指を動かした。


 最初の一行。


 下手だった。十二年前より下手かもしれない。十二年間「読む側」にいた結果、目だけが肥えて、手が追いつかない。設定は雑だ。藤木なら三秒で粗を見つけるだろう。世界観に整合性がない。文体が安定しない。


 でも、指が止まらなかった。久しぶりだった。こんな感覚は十二年ぶりだった。


 他人の粗を探す十二年間より、自分の下手な一行のほうが、ずっと怖くて、ずっと熱かった。モニターの白い光が目に痛い。指先が汗ばんでいる。キーボードの打鍵音が、自分の呼吸に重なる。


 三時間で三千字。推敲なし。誤字があるかもしれない。設定に穴がある。たぶん、ある。藤木でなくても見つけられる。


 あるに決まっている。


 安西はテキストファイルを保存した。保存音が、静かな部屋に小さく響いた。


 ◇


 なろうの投稿画面を開いた。


 タイトルを入力した。本文を貼り付けた。タグを設定した。手が震えているのがわかった。マウスが微かに揺れている。


 「投稿する」ボタンが、画面の下にある。


 指がマウスの上で止まった。


 藤木の声が聞こえる。「設定が甘いな」

 「読み専の会」の声が聞こえる。「勢いだけで書いてる」

 あの新メンバーの声が聞こえる。「感想欄が荒れて、消しました」

 自分の声が聞こえる。「ダブスタだろ」


 ——押していいのか。


 押したら、自分が十二年間「上にいた」つもりの場所から降りることになる。読む側の安全地帯から、書く側の吹きさらしに出ることになる。


 感想がつくかもしれない。つかないかもしれない。

 つくとしたら、自分みたいなコメントかもしれない。設定の穴を丁寧語で指摘される。「ここは現実的に無理では?」と。その構文は、自分が書いてきたものと同じだ。


 その時、自分はどう感じるのだろう。

 それは——自分がやってきたことの、ちょうど裏返しだ。


 安西は目を閉じた。


 柊真帆の言葉が、瞼の裏に浮かんだ。


 ——好きなんだ、この人は。ただ、「好きだ」と言えないだけなんだ。


 あの言葉は、安西への批判ではなかった。

 肯定だった。安西が好きだと認めてくれていた。安西自身が否定し続けていた感情を、見知らぬ作家が、先に認めてくれていた。


 ヤスダは設定が甘くても書いた。

 柊真帆は批判されても書き続けた。

 十二年前の感想をくれたあの人は、安西の「続き」を楽しみにしてくれていた。


 ——安西だけが、書かなかった。


 目を開けた。モニターの光が、まぶしかった。


 投稿ボタンを、押した。


 ◇


 翌朝。


 出勤前にスマートフォンでマイページを開いた。洗面台の前で、まだ歯ブラシを持ったまま。


 PV:3。

 感想:0。

 ブックマーク:0。

 ポイント:0。


 ゼロだった。


 でも、マイページの「投稿作品」の欄に、十二年ぶりの新しい行がある。

 六作品目。

 最終更新日が、昨日の日付になっている。


 安西はスマートフォンをポケットにしまった。口の中に歯磨き粉の味が残っている。


 会社に行く。今日も経理の仕事がある。帰ったら、続きを書くかもしれない。書かないかもしれない。


 ——でも、投稿ボタンは押した。


 その夜のコンビニ弁当は、いつもより少しだけ、味がする気がした。


お読みいただきありがとうございました。


これは、「読む側の椅子」に座り続けた男の話です。そして、そこから立ち上がろうとした話です。


指摘は的確でした。知識も本物でした。

でも、「面白かった」とは一度も書けなかった。

——本当は、誰より好きだったのに。


安西の感想欄はゼロです。でも、投稿ボタンは押しました。

始まったばかりです。


本業で、クリエイターやその関係の方とお話しする機会が多く、そこから着想を得ました。

「書く人」と「読む人」の間にある、言葉にしづらい感情の話です。


この物語もまた、「読む側」と「書く側」の境界線に立っています。

あなたがもし何か感じたら、☆でも感想でも、押してくださると嬉しいです。

——投稿ボタンを押すのは、いつだって怖いものです。

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