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「橋は、渡られるたびに組み替えられる」

街に、はっきりとした「事件」は起きなかった。


それが、この日の最大の異変だった。


誰も倒れず、誰も暴れず、誰も命令を破ったわけでもない。

それでも街の空気は、昨日までとはわずかに質を変えていた。


朝、市場が開く。


いつもなら正序会の掲示板に貼られるはずの注意書きは、白紙のままだ。

だが人々は立ち止まらない。

戸惑いながらも、それぞれが自分の判断で列を作り、声を掛け合う。


「今日は人が多いな」

「じゃあ、先に子ども連れを通そうか」

「助かるよ」


誰かが決め、誰かが従い、誰かが疑問を持つ。

そのすべてが、同時に起きている。


正しさは一つに定まらない。

だが、完全にバラバラでもない。


それは、即席で組み上げられる橋のようだった。

渡り終えれば、また解体される。

次に同じ形になる保証はない。


それでも、人は渡る。



正序会の記録室では、紙の擦れる音だけが続いていた。


白髪の女幹部は、昨日の出来事を淡々と書き写す。

評価も結論もつけない。

ただ、起きた順に、起きたまま。


「……理解不能、という欄は」


部下が、控えめに尋ねる。


「空欄のままでいいわ」


彼女はペンを止めずに答えた。


「分からないことを」

「分からないまま残すのも、記録よ」


秩序は、すべてを理解するためのものではない。

理解できなかった事実を、消さないための枠組みだ。


彼女は、そう学び始めていた。



街の外れ。


ユウトたちは、すでに半日ほど歩いていた。

街はまだ視界に入るが、音は届かない距離だ。


「……静かだな」


レオンが言う。


「不安か?」


「いや」

「逆だ」


レオンは少し笑う。


「ちゃんと、俺たちがいなくても動いてる」


「それでいい」


ユウトは足を止めない。


「英雄が必要ない世界は」

「英雄にとって、少し寂しい」


「でも」

「人にとっては、健全だ」


ピリィが、風に乗って少し高く浮かぶ。


『……ユウト』

『次は、どこに行くんですかぁ?』


「分からない」


ユウトは、はっきりと言った。


「分からない場所に行く」


それは、逃避ではない。

選択だった。


答えを出さないまま進むことを、彼はようやく肯定できるようになっていた。



その頃、街では小さな失敗が起きていた。


配給の受け渡しで、連絡不足があり、数人が二重に受け取ってしまったのだ。

気づいたのは、受け取った本人だった。


「……あれ?」

「俺、昨日ももらってたな」


正序会に届け出るか、黙っているか。

一瞬の逡巡。


だが、その男は隣の家を叩いた。


「これ、多かった」

「回してくれ」


その選択に、賞賛は起きなかった。

だが、否定もされなかった。


ただ、「そういうこともある」と受け取られた。


正しさは、拍手を必要としない。



夕暮れ。


街の中央広場で、子どもたちが走り回っている。

以前なら時間帯規制に引っかかっていたはずだ。


だが誰も止めない。

誰も、完全に放置もしない。


大人たちは、遠くから様子を見ている。

危なければ声をかける。

危なくなければ、任せる。


管理でも、放任でもない。

その中間に生まれた、曖昧な距離。


それが、今の街の姿だった。



夜。


ユウトは、焚き火の前で立ち止まった。

街の灯りは、もう見えない。


「……ここまでだな」


レオンが頷く。


「俺たちの物語は」

「一旦、ここで街から切れる」


「でも」


ユウトは、炎を見る。


「街の物語は」

「ここからが本番だ」


誰も正解を持たない。

誰も責任を預けられない。


それでも、人は選び続ける。


それが、自由の実相だ。


ピリィが、焚き火の上をくるりと回る。


『……正しささん』

『ちゃんと、ついてきてますよぉ』


「だな」


ユウトは、静かに笑った。


正しさは、もう先を歩かない。

背中を押さない。

ただ、隣で歩く。


時に遅れ、

時に立ち止まり、

時に、置いて行かれながら。


英雄の影は、さらに薄くなる。

だが、人の足跡は、確かに増えていく。


完成しない世界で、

終わらない選択の中で、

物語は今日も続いている。


誰のものでもなく、

それぞれのものとして。



焚き火の火が、少しだけはぜた。


乾いた枝が崩れ、赤い火の粉が夜空に散る。

その光はすぐに消え、闇だけが残る。


ユウトは、その一瞬を見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。


「……ああいうのだな」


「何がだ?」


レオンが問い返す。


「今の街」


ユウトは、火の残りを見つめたまま言った。


「燃え上がるわけでもなく」

「完全に消えるわけでもなく」

「必要な分だけ、熱を残す」


「近づきすぎれば、火傷する」

「離れすぎれば、寒い」


「でも」

「誰かが管理しなくても」

「自然と、その距離を覚える」


レオンは、少し考えてから頷いた。


「……秩序に、似てるな」


「似てるけど、違う」


ユウトは首を横に振る。


「これは、守られてる火じゃない」

「使われてる火だ」



その夜、街では眠れない者も多かった。


不安で、というより――

考えすぎて、だ。


これまでは、間違えること自体が恐怖だった。

今は、間違えた後の「次」を考えられる。


その変化が、静かに神経を刺激していた。


宿屋の二階。

昼に配給の順を譲った男が、寝返りを打つ。


(……あれは、正しかったのか?)


答えは出ない。

だが、以前のように「誰かが決めてくれなかった」という苛立ちはない。


(次は、どうするか)

(それを考えればいい)


その思考が、彼を少しだけ落ち着かせた。


正しさは、即答である必要がなくなった。

それだけで、人の夜は、ほんの少し穏やかになる。



正序会本部では、深夜灯がまだ点いていた。


白髪の女幹部は、最後の記録を閉じ、椅子にもたれる。

今日一日、命令は出していない。

だが、仕事は終わっていない。


(……私たちは)

(今も、秩序なのかしら)


その問いは、答えを急がなかった。


秩序とは、支配か。

調停か。

それとも、ただの記憶装置か。


彼女は、ふと机の端に置かれた古い文書に目を向ける。

かつての理念――

「迷わせないための秩序」。


それを、ゆっくりと裏返した。


(迷わせない、ではなく)

(迷っても、壊れない)


もし、そう定義し直せるなら。

秩序は、まだ終わっていない。


彼女は、新しいファイルを一つ作り、表紙に記した。


――移行期記録。


完成を前提としない秩序。

答えを保留したまま機能する都市。


それは、これまで誰も設計してこなかった領域だ。


だが、だからこそ――

記録する価値がある。



夜明け前。


ユウトたちは、火を完全に消し、歩き出していた。

背後には、もう街の気配すらない。


「……なあ」


レオンが、ぽつりと言う。


「俺たち」

「また、呼ばれると思うか?」


「さあな」


ユウトは、空を見上げる。


「でも」

「呼ばれない方が、たぶん成功だ」


ピリィが、少しだけ笑う。


『……正しささん』

『ヒマになっちゃいますねぇ』


「ヒマでいい」


ユウトは、はっきりと言った。


「ヒマな正しさは」

「誰かの人生を、奪わない」


風が吹く。

蒼風は、もう彼らを包まない。

ただ、遠くで、世界に混ざっている。



その頃、街のどこかで、また一つ小さな判断が下される。

誰にも記録されず、

誰にも語られない選択。


だが、その積み重ねが、

橋を渡る足音になり、

道を形作っていく。


橋は、今日も組み替えられる。

渡るたびに、少しずつ。


完成する日は、来ない。

だが、崩れ落ちもしない。


それでいい。


英雄が去った後の世界は、

静かで、不親切で、

だが――自分の足場がある。



物語は、もう高鳴らない。

代わりに、脈打つ。


誰かの胸の内で、

誰かの迷いの中で。


正しさが隣を歩く世界は、

今日も、選び続けている。

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